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至近距離からこんぺいとうを撃ち出され、千佳はなすすべなく直撃を食らう。踏みとどまれずに吹き飛ばされ、ビルの三階の壁に叩きつけられる。
こんぺいとうといっしょに壁からはがれ落ちる千佳へ、氷菓はふたたびクマァの口を向けようとする。
そんな氷菓を止めるために瑠璃が必死の顔で背後から飛びかかるが、氷菓は千佳を見つめたままにやりと笑う。
「隙だらけ」
振り返りざまに左手の拳を瑠璃の顔面へ打ち込み、瑠璃をはじきとばす。
氷菓はすかさず瑠璃の足元へクマァの口を向け、茶色の粘液を吐き出させる。瑠璃の両足に命中した粘液は一瞬で固まり、長方形のチョコレートと化した。
「うっ……!? くっ……!」
「動けないでしょ? すぐに済むからちょっと待っててね」
「待ちなさい! 待って……!」
すねまでを硬いチョコレートで固められてしまった瑠璃は足を引き抜こうとするが上半身が左右に揺れるだけだ。もがく瑠璃を見て氷菓は楽しげに微笑み、千佳へ歩みよっていく。
瑠璃化を解除し、激痛に襲われてもなお立ち上がろうと両手で上体を起こす千佳。そんな千佳に氷菓は容赦なく飴玉を次々と撃ち出し、後ろの瑠璃の叫び声にもいっさい耳を貸さない。
飴玉の威力で地面が陥没し、千佳がクレーターの底で身動きしなくなった頃、氷菓はようやく攻撃を切りあげて瑠璃へと向き直る。
「いいぞ氷菓。今のうちに瑠璃を倒しちまえばこいつらが何を企んでようと関係なくなるからな」
不浄霊を巨大な飴玉に立て続けに変えたことで氷菓もだいぶ疲労の色が濃くなっている。肩で息をする氷菓に、足かせのチョコレートを両手の長剣で微塵斬りにして脱出した瑠璃が怒りと恨みのこもった目で剣を向ける。
「千佳! 生きてる!? 生きてるわよね!? 返事をして!」
「人の心配をしている場合じゃないでしょ? これからいよいよ瑠璃の番だよ」
氷菓よりもはるかに消耗が激しい瑠璃の両足はがくがくと震え、構えた剣の先も揺れて定まらない。呼吸は乱れたままで、すでに立っているだけでやっとのありさまだった。
氷菓は満身創痍の瑠璃をあざ笑うように無造作にこんぺいとうを撃ち出すが、瑠璃は剣で防ぐことも避けることもできずに真正面からの直撃を受けてしまう。こんぺいとうに押され、その途中で雪の上を転がり、ひざまずいた姿勢でどうにか止まるものの、重なるダメージに反撃の力などもう残ってはいない。薄笑いを浮かべる遠くの氷菓を見上げるだけで精一杯だった。
ここまでは千佳側の作戦の範囲内だった。千佳達が追いつめられ、氷菓が有利になるほどに氷菓の行動は雑になっていくはず。細かな思慮と戦略を捨て、慢心に溺れていくはず。氷菓にとっての命綱のクマァをつかむ手が緩む時はきっとやって来るはず。最大の問題は千佳達が待ち望む行動を氷菓とクマァが取るまでに生き残れるかどうかだ。
「千佳! だいじょうぶか!? しっかりするんだ!」
近いような、遠いような忍の声で、千佳は闇に沈んでいた意識を取り戻した。生死の境をさまよい、今の感覚が生きているのか死んでいるのかさえ分からない。いつの間にか死んでしまっていて、肉体から抜け出た霊魂に忍が語りかけていると説明されても納得してしまうほどだ。
とりあえず、手足は動く。目も見える。千佳はうつぶせのまま手足を引きずり、クレーターの底から地上へとはい出した。まるで踏みつぶされたみじめな虫けらにでもなったかのような気分だった。
何度も何度も重く速い飴玉を食らい続け、身体中を破壊され、それといっしょに決意も覚悟も粉砕されたのかもしれない。戦いで張りつめていた気持ちはすっかり萎え、弱気に支配されてしまっている。
瑠璃は今もなお氷菓と戦っていた。しかし、二人の戦いはもはや決闘とはいえない状態だった。氷菓が抱えるクマァから伸びる無数の黒い手が四方八方から瑠璃を殴りまくり、瑠璃には倒れる暇さえないのだ。勝利を確信する氷菓の残酷で冷たい笑みと、まだ気力を失っていない瑠璃の目がよく見えた。
「瑠璃を、瑠璃を助けなきゃ!」
身体が血肉から鉛に変わったかと思われるほどに全身が重い。千佳は震える腕で上半身を起こし、頭の中のスイッチを切り替える。
「ううっ……!?」
瑠璃へと変身しスピードを上げて氷菓に突っこむつもりだったのに、変身できない。それどころか胃を鷲づかみにされたような強烈な吐き気を覚え、続けて手足から黒い糸状のモノが飛び出した。
身体中から生えた黒の糸は一つ一つが意思を備えているように独自に動き、瑠璃と同じだけ伸びた黒髪も糸と同調し重力に逆らってゆらめいた。千佳は右手で顔をおおい、この奇怪な現象に声にならない悲鳴を上げる。
こんなバカなことはあるはずない。練習中は一度もこんなことにならなかった。それしか考えつかない。パニックのせいでどうしていいのか分からず、千佳は腕やももで揺れる長い黒の糸を凝視するしかない。
「気持ちを鎮めて! 変身を解除して!」
忍の凛とした声で千佳は我に返り、目を閉じて一呼吸する。混乱の極みにあってもきっかけさえあれば自分を律することができるのは精神力が強くなった恩恵だった。気持ちを整えてスイッチを戻すと全身から生えていた糸は幻のように消え、強い吐き気も収まった。手足も元の人のままだ。
「何が、何が起こったの!? どうしてこんなことに……」
「おそらく、身体が傷つきすぎているせいだ。その影響で千佳の精神面も弱まっているんだろう。弱い気持ちのまま瑠璃化しようとしても制御しきれず幽姫の部分に喰われてしまうだろう」
首元に下げたペンダントから声のみを送ってくる忍に、千佳は息を呑んで冷や汗を流す。仮に千佳という人格が車の運転手だとすると、助手席に座る何者かにハンドルを奪われかけて運転が乱れ、それまでまっすぐに走っていた車が蛇行した。今のおぞましい感覚はそんなようなものだった。おそらく、運転席を完全に乗っ取られていいように車を操られることが忍の言う喰われるということなのだろう。
心に染み入りそうになった冷たく黒い感情は千佳が嫌というほどに見てきた亡霊達の人ならざる心だ。ほんの一瞬の出来事だったが、千佳はそう直感していた。千佳は自分の内側に正体不明の化け物を飼っているようなものなのだ。瑠璃に変身することはその化け物の力の一部を引き出しているにすぎない。ふとした拍子に千佳の人格と化け物の本性が入れ替わることもあり得る。
これでは瑠璃に変身できない。人を超えた回復力でも追いつかないほどに身体は打ちのめされ、立ち上がることさえかなわない。瀕死の瑠璃がおもちゃの人形のようにこんぺいとうにはじき飛ばされるのを見て千佳の目に涙がにじむ。飴の中に閉じこめられて戦闘不能になったトラが千佳に代わっただけで、数時間前の戦いとほとんど同じ展開だった。戦いの流れは確実に敗北の方向へと傾いている。
「行かなきゃ……私が、助けなきゃ……」
痺れてしまった脚を強引に動かすものの、路面から両手を離したと同時にバランスを崩して雪の中に倒れ込んでしまう。
そんな無様な千佳を眺めて氷菓はくすりと笑い、その直後にクマァの口から大量の不浄霊を吐き出させる。うつぶせに倒れたまま立ち上がろうとあがく瑠璃の周りを囲むように不浄霊を配置すると、クマァの身体から二本の大きな腕を伸ばす。
影のように黒く平らな左右の手で瑠璃をつかんで宙に持ち上げると、周りの不浄霊を飴玉に変えて前後左右から次々とぶつけていく。クマァの手で宙空に固定されている瑠璃にはダウンさえも許されず、なぶり殺しも同然だった。
今がまさに千佳達が苦痛に耐え続け、待ちに待った状況だった。それなのに、勝てる好機がやっと巡ってきたというのに、瑠璃はぐったりと顔をうつむけたままでとても戦えない。飴玉が頭や腹にぶつかるたびにか細い悲鳴を上げるだけだ。
千佳も手足がまともに動かない。雪の中から立ち上がろうとしても手足に力が入らず細かく震えるだけ。それは身体が言うことを聞かないだけでなく、全身に満ちる死の恐怖のせいでもあった。
氷菓に勝てないのを恐怖心や受けたダメージや、まして瑠璃が戦えないせいにするな。千佳が助けなければ誰が瑠璃を助ける? もう千佳しかいないんだ。そんな深く、静かな声が胸の奥から響いてくる。他ならない、千佳自身の声だ。弱気で卑屈になっていた心に不屈の精神が戻って来る。千佳は歯を食いしばり、顔を上げて氷菓と、今にも死にそうになっている瑠璃を見た。
千佳は制服のそでで乱暴に涙をぬぐい去る。今、涙は要らない。涙は視界をぼやけさせ、見るべきものを見えなくしてしまう邪魔物だ。
千佳はその場にひざまずいたまま、苦痛をかえりみずに頭の中のスイッチを入れようとする。しかし、今の千佳は心身共に変身に耐えられる状態ではない。即座に身体中から黒い糸が伸び、千佳の周りだけが暗闇に覆われているかのように全身が真っ黒に染まってしまう。
「無茶は止めろ! 人間の姿でいられなくなってもいいのか、千佳!」
忍の忠告も遠く聞こえる。退くことは考えてはいけない。前に進むことだけを思わなくては。それしか頭に浮かばなかった。千佳は闇に包まれたまま遠くの氷菓だけを凝視する。
糸は霧散し、暴走しかけた幽姫の力は強靭な意思の力に制圧された。白い肌と長い黒髪、人型の手足と瑠璃の顔へ千佳の身体が変わる。
身体を瑠璃化したことで手かせ足かせになっていた怪我は一時的に完治した。千佳は両手で上半身を支え、腰を上げた姿勢で最速のスタートを切る。
大量の不浄霊達のわきを通り抜け、銃弾のごとき速度と勢いで氷菓に向けて疾走する。この時千佳は生涯最高の集中力を発揮し、音も温度も空気の抵抗も感じない時間が停止した世界を駆け抜けているような瞬間だった。千佳の急激な接近に気づき、氷菓の顔が驚きに歪んでいくのがコマ送りのようにゆっくりと目に映る。




