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ペンダントの中にこもっていた忍が千佳の右肩に現れた。千佳と瑠璃は忍に顔を向けて息を呑み、二人の命運を左右するこれからの話を一言も聞き逃すまいと心構えを整える。
「まあ。わたくしだけ仲間はずれですの? 何だかさびしい気持ちですわ」
四季のすねた声に、千佳達三人はそろって小さなため息をつく。頼んでも積極的には助けてくれないが、何も頼まなくても退屈だとわがままを言う四季。本当に子どものようで面倒な人だと、千佳はいらいらして頭をかく。
「じゃ、じゃあ四季さんは……私達が氷菓に勝てるように祈っていて下さいね」
「……なんですの、それ? 遠回しに厄介払いされているように聞こえますわ」
せっかく四季が乗り気になっている。これはチャンスだ。四季の底知れない力を有効利用しない手はないが、かといって氷菓を倒して欲しいといった直接的な願いは聞き届けられない。千佳はうなり声を上げて知恵をしぼり、庭園中を見回し、ついに良いアイデアを考え出した。
「じゃあこれはどうです? もしも私達が氷菓に勝ったら、その後に四季さんが……」
椅子に座ったままの四季のそばへと駆け寄り、千佳は親身になって願い事を丁寧に伝えた。
「……まあ、それくらいならやってあげてもいいですわ。千佳が勝ったら、ご褒美に叶えて差し上げます」
「お願いします。四季さんが作戦成功の鍵を握っているんです」
実際はそうでもないのだが、ここは四季をおだてて約束を守らせた方が良い。千佳は最後に四季に深々と頭を下げ、瑠璃の前へと戻った。
「じゃあ作戦を話すよ。よく聞いて、千佳、瑠璃。それと、四季も」
形だけは四季も作戦要員の仲間に入れ、忍は千佳と瑠璃を見上げながら氷菓との戦い方を伝えた。
現実の時刻は西の地平線に太陽が沈む直前。常に暗い空で夜のような世界の幽世では区別がつかないが、現世では日が暮れかけていた。
氷菓は壁に背を預けてベッドに座ったまま、ひざの上にクマァを乗せてじっと待っていた。食べかけのケーキやドーナツをベッドの端や部屋の床に放ったまま家の周辺に感覚の触手を張り巡らせている。何かの異変はないか、瑠璃が戻ってこないか、静かな幽世の気配をさぐっているのだ。幽世の薄暗い部屋の中で、氷菓の黒目が微動だにせず闇を見すえている。
それまでややうつむけていた顔を氷菓はぴくんと上げる。少しも動かなかった水面に広がる波紋を、警戒中だった氷菓は見逃さなかった。
事実、部屋のベランダの向かいに建つ家の屋根に千佳と瑠璃が到着した瞬間だった。
氷菓は引き戸の窓ガラスをすり抜けてベランダの手すりの上に立つと同時、問答無用で瑠璃めがけてクマァの口から飴玉を撃ち出す。
身の丈を超える巨大な飴玉に瑠璃は逃げようともしない。脚を動かす代わりに両手を動かして前へと突き出した。そして素手で飴玉の砲撃を受け止める。一メートルほど威力に押され、それでも屋根の上に踏みとどまった。瑠璃は止まった飴玉を地面へ放り捨て、ずしんというにぶく大きい音が響く。
先ほどは瑠璃を打ちのめした飴玉攻撃が通じない。そのことに氷菓は不思議そうに首をかしげたが、すぐにまたクマァの口を瑠璃へと向け直す。
「待って」
「何? わざわざ出てきて、やることが命乞い?」
右手を前に出して制止する瑠璃に、氷菓は笑いも怒りもしない。一見すると冷めた態度だが、殺気が陽炎のように全身から立ち上っている。
人を捨て、命を落としかねない戦いに身を投じる覚悟を決めた千佳だからこそ理解できる。氷菓の目を見ればすぐに伝わってきた。氷菓も覚悟を決めているのだ。決して退かないという覚悟。今回の計画の結末は瑠璃を殺して目的を達成するか、自分が殺されるかの二つに一つしかあり得ないと結論づけてしまっている。
「命乞いなんてする気はないわ。場所を代えたいの」
「場所?」
「幽世側の建物を破壊することは、現世にある建物の魂を破壊することと同じ。魂を壊された建物は現世での老朽化が加速度的に進む。それはあなたも知ってるでしょう? 氷菓の立っている家はこの千佳が住む家なの。私と氷菓が全力でぶつかり合えば周囲の建物もきっと滅茶苦茶になる。もちろん、その千佳の家も無事では済まない。現世の千佳の家が近い将来に倒壊するかもしれない。そんなことは認められないわ。だから戦う場所を代えたいの」
「さっきからべらべらと長ったらしくしゃべりやがって。いい気になるんじゃねぇ」
クマァのだみ声で瑠璃は口をふさぐ。
「お前も氷菓も幽姫だろうが。つまりこの争いは亡霊側の出来事だ。人間の住宅事情なんか知ったこっちゃねぇ。おい氷菓、構うこたぁねぇぞ。さっさとやっちまえ」
「うん」
「もしも無視して戦いを始めれば、私は逃げる」
瑠璃の凛とした声に、クマァを構える氷菓の動きが止まる。
「この街を捨てて、どこか遠くへ雲隠れよ。そうなったらもう一生決着はつけられないでしょう。氷菓は決着のつかなかったもやもやをずっと胸に抱えて生きていくの。それでもいいのかしら」
氷菓はクマァの頭を噛み、歯ぎしりしながら刺すような目つきで瑠璃をにらむ。「いてぇ、いてぇ!」と悲鳴を上げるクマァの声も聞こえていない。
今、氷菓の頭の中では瑠璃の宣言が本当か、それともただのはったりか、その二つの可能性を天秤にかけているはずだ。
瑠璃は人間の千佳と親しいから、千佳も、その家も見捨てて本当に逃亡するとは考えにくい。だが、そういう風に考えられるのは真実を知る千佳だけだ。実際には二人がどの程度親しいのか知らない氷菓は、瑠璃が自分の命を優先して千佳を見捨てる可能性を必ず考える。忍の予想した通りだった。
「どうするの? 早く決めないと逃げるわよ。言っておくけれど、あなたの足じゃ私には絶対に追いつけないわよ」
真に迫った声や表情だが、これは演技だ。瑠璃には逃げるつもりなどまったくない。数々の災いをもたらした氷菓とは必ず決着をつけると瑠璃も覚悟を決めているのだ。
「……いいよ。何か話が気に入らないけど、瑠璃の好きな場所で戦ってあげる。どうせ氷菓が勝つのは決まってるもん。どこで勝っても同じ」
瑠璃は氷菓に背を向け、家と家の間を跳んでいく。瑠璃のすぐ後ろを千佳も難なくついていく。氷菓もクマァを両腕で抱いたまま二人の後ろについてくる。
瑠璃やトラがするような屋根の上を走って次の屋根へと跳ぶ離れ業が可能なのは千佳の基礎体力が劇的に上がったせいだ。どんどん流れ去っていく街の景色に、全身にぶつかる壁のような空気抵抗に風切り音。そして屋根の間を猛獣のように飛ぶ前人未踏の爽快感。まだまだ慣れないが、今はそれらの感覚に浸っている場合ではない。なにしろすぐ後ろには氷菓がいるのだ。
瑠璃に永久に逃げられる可能性を情報不足の氷菓は捨てきれない。背後から不意打ちを仕掛けてくる様子はないが、それでも千佳は背筋が凍る思いがしていた。瀕死の瑠璃とトラをかついで逃げていた時、後ろの暗闇から氷菓がだんだん迫ってくる足音と気配がよみがえる。そして、千佳の奮闘をからかうようなぞっとする笑い声も。
「あれだけ身体中に傷を負わせたのに、すっかり治ってる。どういうこと……?」
氷菓の小さな声に千佳ははっとし、屋根の上を走りながら首を後ろへ少しだけひねる。
さらに幽姫の力を取り込んだことで体力だけでなく五感もいっそう研ぎ澄まされた。幽世の暗い世界でもフクロウのようにずっと遠くの景色まで見通せるし、耳障りな空気の流れの中にいても十数メートル後ろを走る氷菓の声が鮮明に聴き取れる。どうも氷菓は胸に抱いたしもべと言葉を交わしているらしかった。
「分からねぇ。しかもさっきより格段に強くなってやがる。それに、あの千佳って人間もだ。足だけなら氷菓よりも今の千佳の方が速いんじゃねぇか? さっきまでみたいな楽勝はできそうにねぇぞ」
背中に氷菓の視線を感じ、千佳はあわてて首を前へ向け直す。感覚が人間以上に拡張されたせいで視線のような熱も物理的な動きをともなわないモノさえも肌で感じ取れるようになっていた。背中にいくつもまとわりつく、氷でできた触手のような冷たくておぞましい感覚。それが氷菓が千佳へ向ける視線にほかならない。
「氷菓。戦う上で何が起こるか分からねぇ。今のうちに減った分を補充しとけ。それでなくともお前、千佳の部屋でさんざんお菓子食っただろ」
クマァがしゃべった直後、周囲の風の流れが突然変わる。異変に、千佳と瑠璃は同時に後ろの氷菓へ目を向ける。
クマァの口が大きく開き、すれ違う不浄霊はおろかずっと遠くの不浄霊さえも口の中へと次々に吸い込んでいる。まるで台風のような暴風がクマァの口へ向かって吹きこんでいる。その空気の逆流が千佳達が覚えた違和感の正体だったのだ。
氷菓は不浄霊をお菓子に変えて、それを武器に利用する。幽姫にとって滅ぼすべき存在の不浄霊は氷菓にとって闘争のための資源だ。瑠璃とトラとの戦いでせっかく減った不浄霊のストックを元に戻されることは千佳達にとって不利でしかない。
だが、千佳も瑠璃も何も言えない。氷菓の回収行動を止めることもできない。瑠璃の先導について行くついでとして近くの不浄霊達をすれ違いざまにクマァの中に蓄えているからだ。下手に氷菓につっかかればここで戦闘開始となる。それではだめなのだ。忍に指示された特定の場所まで氷菓を連れていく必要がある。
先頭の瑠璃は人家の屋根を降り、幅広い道路をひた走る。そのうちに街の中心地へと入りこみ、辺りに高層ビルが建ち並ぶ細い通りに出る。瑠璃と千佳はそこで止まり、ここまで大人しく付いてきた氷菓も間合いを保ったまま二人と相対する。




