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背中から始まって全身の血管をかけめぐる熱いドロのようなものはまぎれもなく瑠璃の身体から千佳へと移された呪いの濁流だ。忍が考えたとおりに上手くいっているが、それを喜ぶ余裕が今の千佳にはまったく無い。熱さと痛みと息苦しさで意識は混濁し、顔からぼとぼとと大粒の汗がこぼれ落ちる。今味わっている温度が暑いのか寒いのかさえ分からないほどだ。
視界は暗転し、千佳は暗闇の中で歯を食いしばって時が過ぎ去るのを待ち望む。それと並行して、障害物の呪いが減っていく瑠璃の身体からはみるみるうちにあざが消えていき、健康的な肌色を取り戻していった。だがそんな外側の事情は生き地獄の真っ只中にいる千佳には分からない。
そのままどれだけの時間が流れたのか千佳には分からない。耳元で何者かに名前を呼ばれている。耳の穴に直接大声を打ち込まれているのに気づき、千佳は目覚めた。
「起きたかい? ああ、良かった。このまま千佳が植物人間にでもなったらどうしようかと思ったよ」
呼び声の主は忍だった。花畑の中にあおむけになって寝ているらしい。胸の上には千佳が脱いだ制服が掛け布団代わりに乗せられている。呪いの負荷に耐えるうちに、いつの間にか気を失っていたようだ。
上半身を起こすと酷い頭痛でめまいがした。軽い吐き気もする。だが、目は見える。耳も聞こえる。一番心配していた感覚機能の障害は起こっていない。胸の前で軽く手を握ったり開いたりしてみるが、問題なく動く。脚も同様だった。手の形も脚の形も人間のままだ。化け物じみた形に変わっていないので安心した。
記憶も以前の千佳そのままだ。自分の生年月日も家族構成も親戚の名前もちゃんと思い出せる。心は妙に静かで落ち着いてしまっているが、人間の精神状態とそう変わらないように千佳には思えた。瑠璃の呪いをさらに吸えば人でいられなくなると危ぶんでいたが、どうやら取り越し苦労だったらしい。
瑠璃と四季が並んでしゃがみ、千佳をじっと見つめていた。瑠璃はすでに服を着ていて、顔に浮いていた青いあざも消えている。しかし、あざが消えた代わりに顔色が真っ青だった。隣の四季までなにやら深刻そうな顔をしている。瑠璃はともかく、何事にも動じない四季がそんな表情になってしまっていることが千佳の胸にとめどない不安を引き起こす。
「瑠璃、四季さん、私、どこか変じゃ……」
そこまでしゃべったところで千佳は驚きに自分の口を手で止めた。口から出てきたのは千佳とは別人の声だったからだ。
「千佳。とっても言いにくいことなのですけれど、貴女の顔が変わっていますわ」
「ええっ!? ウソッ……!?」
言いにくいと前置きするわりには平然と事実を述べる四季に指差され、千佳はようやく長く伸びた髪に気がついた。これはおかしい。千佳の髪はショートヘアだったはずなのに、今や背中まで届くほどのロングヘアになってしまっている。千佳が首を動かすと、それにつられて長い髪が綺麗に揺れる。
「かっ、鏡! 誰か、鏡、持ってない!?」
やはり口から出てくるのは以前とは違う少女の声。瑠璃も四季も持っていないと答える。千佳は両手で頭を抱えたまま別人の声で「うぅーーっ」とうなり、奇跡のような早さで名案を思いついた。
右手から短剣を生み出し、銀色の刀身を鏡代わりにして顔を映し出した。忍に頼んでいないのに、当たり前のように自分の力のみで剣を形作ることができた。
千佳は声を失い、刀の鏡に見入ったまま凍りつく。刀身に映っていたのは……瑠璃の顔だった。千佳の顔は瑠璃のそれへと変化していたのだ。伸びた髪の長さも瑠璃の長髪と同じだ。
リスクは承知の上だった。ある程度の変化は仕方がないと受け入れていた。だがこの結果は……想定外にもほどがある。これからどうなるという自問自答で千佳の頭の中はいっぱいだった。千秋千佳という中学二年生の個人は社会的に消えてしまったのか。この顔を両親や桃香にどう説明すればいいのか。
瑠璃は花畑の中に両ひざを突いたまま、魂が抜け出たような青白い顔で千佳を見つめている。自分のせいで千佳の一生を台無しにしてしまった取り返しのつかない現実におののき、言葉も出ないらしい。
鏡代わりに出した剣を煙のように消して自分の腕や手を泣きそうな気分で再確認していると、手のひらの上に忍が現れた。
「忍、これってどういうことなの!? どうして私の顔も、髪も、瑠璃に変わっちゃったの!?」
「瑠璃の呪いを取り込んで吸収し、幽姫の力と同化したことがそうなった原因なのは間違いない。おそらく、幽姫由来の呪いを体に入れすぎたせいで存在比が入れ替わってしまったんだ。以前は人間の千佳が基本だったけど、体内の瑠璃の力が濃すぎるせいで基本が千佳から瑠璃へ変わってしまったんじゃないかな……。気づいてないかもしれないけれど、今の君の声も瑠璃と同じ声だ」
千佳は震える手で自身の喉を押さえた。いつも聞いていた瑠璃の澄んだ声も自分自身の喉から出ると奇妙にくぐもっていて、違った風に聞こえるらしい。
「ああ、がっかりですわね。千佳は千佳だから良かったというのに。千佳が少々歪んでも、それはそれで愛でようと思っていましたのに。これでは千佳が別人の瑠璃に変わっただけ。つまらないですわ」
四季は早くも千佳に見切りをつけようとしていた。しゃがんだ姿勢からさっと立ち上がり、どこか白けた表情でため息をつく。そんな四季に、以前の千秋千佳と絆のある人物がさっそく去っていく気配を感じて千佳は胸の中が冷えていく。
強いショックで足元がふらつき、千佳は立っていられなくなる。崩れ落ちるようにしてよつんばいになり、全身からも心からもあらゆる力が抜け出るようだった。
「……!?」
その時、何かが変わった。冷房の効いた冷たい部屋から外の蒸し暑い空間へ戻った時のような、全身を包む体感の劇的な変化。違和感に満ちた不可思議な体から、元の慣れ親しんだ体に戻ったような安定感を味わっていた。
「千佳! 元に……元に戻っているわ!」
瑠璃の叫び声で千佳は我に返り、髪を見てみる。たしかに髪が元の短さになっていた。瑠璃の名を口から出して言ってみても千佳自身の声だった。冷たい目で見下ろしていた四季も「あら?」と嬉しげな声を上げて目の色を変える。
悪夢から目覚めた時、恐ろしい夢の内容がただの夢であって良かったと思う。悪夢から覚めた時の数倍の安堵感が一気に胸に広がり、目がくらむほどの快感さえ覚えた。
「千佳! ああ、良かった! もう元に戻らないかと心配したんだから!」
瑠璃が千佳に胸に飛びこんでくる。その動きはぼろぼろだった先ほどまでとは見違えるほどに軽く、素速く、力強い。瑠璃の回復に千佳は新たな喜びを噛みしめる。
「瑠璃。もう呪いは消えたんだね?」
「千佳のおかげよ。身体の重さが取れて、気分もすっきりとして、身も心もとても軽いの。重さがまるで無い羽毛のようよ。今なら何だってできそう」
今、千佳の前に立っている瑠璃が不浄霊の呪いに汚染される前の完全な瑠璃だ。姿形は瑠璃そのものでも千佳の知っている瑠璃とは雰囲気が少し違っているように千佳は感じる。今までよりも瑠璃のまとう空気は冷たく、落ち着いていて、余裕がある。そして人間くささ……人間的な弱さが明らかに減っている。呪いという不純物から解き放たれて幽姫としての存在に純化し、亡霊側の属性がより強くなったからだろう。ある種の神々しささえ伝わってくるようだ。
「千佳こそ大丈夫なの? どこか痛くない? 苦しくない? 気分はどう?」
「軽い吐き気とか頭痛はするんだけど、まあ大したことないよ。二度目だから慣れちゃったのかも。もうさっきみたいに瑠璃に変わることはないと……」
そこまで言いかけたところで、突然千佳は瑠璃へと変身した。一瞬後には顔も髪も声も瑠璃のそれへと変わり、目の前の瑠璃が浮かべるのと同じ驚きの表情を向け合った。
「ど、どうしようっ……!? 私、また瑠璃にっ!」
瑠璃からの返事はなぜか往復の平手打ちだった。
「叩けば! 叩けば直るはずっ! このっ! このっ! 元に戻りなさいっ!」
左肩をつかまれて固定されているので逃げることもよけることもできない。復活を遂げた瑠璃の力は異常に強く、一発一発が脳を揺さぶられるような威力をもっている。
「不思議だわっ! 中身は千佳なのに! 私と同じ顔と声なら! 手加減しなくていい感じ!」
一言ずつ区切りながら強烈なビンタを次々と見舞う瑠璃に、千佳の方は意識が飛びそうだった。すると変身が解け、元の千佳へと戻る。目を回しながらぐにゃりと首を横に傾ける千佳を、瑠璃は「ああ、良かった!」と愛おしげに抱きしめる。
「瑠璃に変わったり千佳に戻ったり忙しいですわね。何か法則性のようなものがあるのかしら?」
法則性。二人を観察する四季のつぶやきに、千佳ははっと目を覚ます。痛みでじんじんするほおをさすりながら、今の千秋千佳である状態と、瑠璃に変わった状態を頭の中で比較してみる。
「……さっきは、瑠璃の姿でいられなくなったから元に戻った。そんな風だった気がする。連続ビンタで気持ちがぐちゃぐちゃになって、そのせいで瑠璃の姿を維持できなくなったような……。今の私本来の姿が基本で、瑠璃に変わっているのはかなり無理がかかった状態、ってのはたしかだと思う。だから何かのちょっとしたはずみですぐに元に戻っちゃうんだよ」
上半身がブラジャーのみの千佳は制服を着直しながら瑠璃達に話し、同時に身体中に力が満ちあふれているのを自覚していた。
幽姫の身体にたまった呪いは時間を経て幽姫の力を帯びている。それを取り込むことは幽姫の力を手に入れることと等しい。さらに瑠璃の呪いを浄化し同化した千佳の基礎能力はいっそう向上したらしい。今の千佳なら素手で人家を破壊し尽くせるかもしれない。




