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具現化していた忍が消えた。呪いの移動作業に大部分の機能を割くために姿を保つことができなくなったからだ。
瑠璃と繋ぎ合わせた右手の表面がやや痺れるような、少し熱いような感覚に包まれる。まぎれもなく瑠璃と千佳の手の間で何かが起こっている。
――だが、それだけだ。前に味わった、手を通じて腕の中を何かが駆け上るような呪いの流れや、それにともなう吐き気などはまったく感じない。これは変だと千佳は首をかしげる。
前に瑠璃を治療したとき、彼女は意識を失って眠っていた。そのせいで今回の治療の具合がおかしいことに気づいていない。目を固く閉じて全身を硬直させ、内なる葛藤と必死になって闘っているらしい。
「どうなってるの? 忍。さっきからまったく流れこんでこないけど」
「ダメだ。上手くいかない……。予測外の事態だ」
「ええっ!?」
作業を中断した忍がふたたび千佳の肩の上に現れた。千佳は驚きと焦りで口を半開きにしたまま、瑠璃はきょとんとした顔で忍を見つめる。
「今の瑠璃の身体は氷菓との戦いで受けたダメージでぼろぼろだ。そのせいで身体の中の呪いの巡りも、呪いが巡るための回路もめちゃくちゃになっている。人間の千佳に分かりやすく例えるなら、呪いは自動車、回路はたくさんの自動車が通るための道路といったところだ。氷菓にさんざん痛めつけられたせいで身体中の道路が壊れてしまっている。ところどころ道路が崩壊していたり、切断されて途切れてしまっているから自動車がスムーズに通れない。通れる道も残ってはいるが、あまり多くはない。細い道に自動車が大量に押しかけて、そのせいで大渋滞が起こっているようなものだ」
あざだらけの瑠璃の腕や脚を見て、千佳と瑠璃の二人は絶句する。
「それに加えて、瑠璃の中に残っている呪いの量が少ないのもまずい」
「どうして!? 私達幽姫の障害になる呪いなんて、少ない方が良いに決まってるじゃない!」
「また例え話になるけど、ジャムが詰まった瓶を想像してみてくれ。中身のジャムが呪いで器の瓶が瑠璃の身体だ。ためこんだ呪いではじける寸前だった時の瑠璃は、ジャムいっぱいに満たされた瓶と同じだ。そんな瓶を軽く傾ければ、中身のジャムはどろどろと簡単に外へこぼれ出す。つまり、あふれそうだったジャムを取り出すのはたやすい。だが中身のジャムが半減した瓶を想像してごらん。瓶を少々傾けたところで、底にたまったジャムは出て来ない。しかもそのジャムは瓶の底や壁面にこびりついている。そう簡単には出て来ないんだ。瓶をひっくり返したり、瓶を割ってしまえば残りのジャムは取り出せる。しかし、それは瑠璃の身体をぶち壊すことと同じだ。瑠璃を壊して呪いを取り出しても元も子もない」
「それじゃ、瑠璃を治すのは無理ってこと……!?」
せっかく立てた起死回生の計画と人を捨てる覚悟がすべて無駄になりそうな予感に、千佳はすがるような目で忍を見る。瑠璃も不安のにじむ目で千佳と忍に視線を往復させていた。
「……いや、解決の方法はある」
「どんな方法!?」
「瑠璃と千佳が手を繋ぐだけでは二人の接触する面が少なすぎる。ただでさえ呪いが通る道路が少なくて狭いんだから、二人を繋ぐ道路をより広く、より多くしなければならない。そうすれば呪いの交通渋滞は解消されるだろう」
「つまり、どうすればいいの?」
「瑠璃と千佳が触れ合う肌の面積を今よりもっと増やすことだ。お互い裸になって抱き合うのが手っとり早いと思う」
「はあ……!?」
今度こそ千佳は仰天し、己の耳を疑った。
「じょ、冗談言わないでよっ!? 女同士でそんなこと、絶対まずいって! ヤバいって! いや、たとえ男と女でも、私の年齢的にまずいことはまずいんだけどっ……!」
あっという間に顔が赤く染まり、耳まで熱くなる。千佳が赤面症でなくてもこの状況なら誰でもこうなるだろう。
「私は構わないわ。それでどうにかなるのなら。千佳が嫌ならもちろんやらない。千佳の決定に、私はついていくだけよ」
あわてふためく千佳と違って瑠璃はずいぶん落ち着いている。顔も少しも赤くないし、恥ずかしがっている気配もない。そんな瑠璃を見て、千佳は彼女をお風呂に入れた時を思いだした。あの時も瑠璃はそうだった。自分の裸を千佳に洗わせても恥じらう様子はまるで見せなかった。幽姫という種族は羞恥心が無いのか、それとも瑠璃個人がそういう性格なのかは千佳には分からなかった。
いくら恥ずかしくても千佳にはすでに結論が見えている。やるしかないのだ。とにかく、幽世の部屋に居すわった氷菓を制限時間以内にどうにかしないことには千佳と瑠璃の二人に未来はない。
「どうする? 千佳」
真剣な顔の瑠璃に見つめられて千佳のほおを冷や汗がつたう。本当に、まったく、少しも瑠璃は恥ずかしくはないのかと、千佳はわずかな怒りさえ覚えつつ横目で様子をうかがった。
瑠璃は決して楽しそうではない。表情は沈み、どんよりとした暗い空気をまとっている。彼女はもともと千佳の提案に反対だった。千佳をさらに変えてしまうかもしれない危険な方法なら、やらないで済ませたいと思っている。恥ずかしさにはほど遠い心境なのだ。
「……やるわ。準備をしよう」
「面白くなってきましたわね。わたくし、特等席で見物させていただきますわ」
四季が椅子から立ち上がり、二人のそばに歩みよってしゃがみこむ。無邪気な子どものような好奇心に満ちた目に、いい気なものだと千佳は内心で思う。
「裸っていっても、上半身だけでいいんでしょ? ブ、ブラは取らなくていいよね?」
忍の「それでかまわないよ」という返事を聞き、千佳は顔の火照りを感じつつもしぶしぶ制服の上着を脱ぐ。ブレザーとブラウスをわきに置き、ブラジャーのみとなる。四季が目の前で微笑んでいるせいで千佳はいっそう顔が赤くなってしまう。
瑠璃の方は準備できたかなと、ちらりとさりげなく目を向ける。あまりの驚きに千佳は息を吹き出した。瑠璃はブラジャーを着けておらず、スカートとニーソックスのみの姿だったからだ。
「ん? どうしたの、千佳? 私、何か変?」
「い、いやっ、ななな、なんでもないっ」
以前に瑠璃の服を洗濯したとき、地味なパンティーは見かけてもブラらしきものは見かけなかったことを千佳はとっさに思い出す。もともと瑠璃は裸の上に白いブラウスをまとっているだけなのだ。
ついつい胸の膨らみに目かいってしまう。千佳の胸よりも小さいが、それでも形の良い可愛らしい胸だった。千佳は羨ましさに胸の奥の心がざわつく。
そして、本当に見るべきは瑠璃の胸などではなかった。氷菓との激戦で刻まれた痛ましい傷の数々だ。青色や赤黒い色のあざが肩や腕や腹といった上半身の至る所に浮かび上がっている。美容を気にする一般の少女ならショックで寝込んで動けなくなるほどの傷だろう。しかし、瑠璃は己のあざに見向きもしない。いくら幽姫の傷の治りが早いとはいえ、瑠璃の精神的強さが千佳には感じ取ることができた。
「――で、この状態で瑠璃と抱き合うって? ど、どんな姿勢ですればいいのよ」
「そうだな……」
制服は脱いでも忍のペンダントは首に下げたままだ。これからしなければならないことにとまどいつつも問いかける千佳に、肩の上の忍はあごに左手を当てて思案する。
「千佳、瑠璃に背中を向けて座ってくれ」
「こ、こう……?」
抱き合うはずなのに背中を向けるとは一体? そんな疑問を頭に浮かべながらも千佳は忍の言われた通りにする。
「瑠璃はひざ立ちになって背中から覆い被さるように千佳と密着するんだ。多分、その姿勢が呪いを移動させる上で最も効率が良いはず」
「そう? わかったわ」
背中越しに瑠璃がひざで立つ気配が伝わってくる。左右の肩に乗せられた瑠璃の手の感触に千佳はどきりとする。
「千佳、本当にいいの? やめるのなら今のうちよ」
「……いいよ。覚悟はもうできてるから」
口では殊勝なことを言いながら、千佳は二重の意味で鼓動を高鳴らせていた。裸の瑠璃に抱きつかれることと、いよいよ呪いを受け入れて後戻りができなくなること。
瑠璃が千佳の首に両腕を回す。そしてそのまま胸を背中へと押しつけてきた。首に回された腕にはまったく力がこもっておらず、腕を肩の上へゆるく乗せているだけだ。それなのに千佳は息が詰まりそうになる。背中のやわらかな感触に気が気でないからだ。
瑠璃の体温と、彼女の腕や胸や腹が直接触れている感覚。背中に垂れる瑠璃の長い黒髪。千佳の頭のすぐ左後ろには瑠璃の顔がある。瑠璃の規則的な呼吸音が耳に直接届き、千佳はめまいを覚える。そばでくすくすと笑っている四季の存在すら遠い世界のもののようだった。瑠璃の肌は少し冷たいなとおぼろに思うだけでせいいっぱいだった。
「こんな時になんだけれど、千佳の……人の体はとても温かいのね。幽姫とは違うわ。温かくて、気持ちよくて、何だか酔ってしまいそう」
「わっ、私もっ……!」
混乱のあまりにめちゃくちゃな言葉が口から飛び出す。ゆでダコのような真っ赤な顔であたふたする千佳に瑠璃はくすりと小さく笑い、その後により強く、よりしっかりと肌を重ね合わせて千佳の背中を抱きしめた。そして額を千佳の肩に押しつける。
「千佳。ありがとう」
瑠璃の深く静かな感謝の声に、熱で浮かされていた千佳の頭が冷えていく。正気に戻った千佳は瑠璃の左手の甲に手を添え、そっと目を閉じる。もはや言葉は必要ないと直感した。下手に飾り立てた言葉を並べるよりも、こうした方がよほど瑠璃を想う気持ちが伝わると感じとったのだ。
「これだけ二人がくっついていれば問題ない。始めるよ。準備はいいね? 千佳。瑠璃」
千佳と瑠璃がともにうなずくと同時、忍が消えた。その直後、千佳の背中に異様な熱さが広がっていく。手を繋いだだけの先ほどとは比べものにならない、それどころか初めて千佳が呪いを受け入れた時以上の苦しみに千佳は息が止まる。




