表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/50

37頁

 今は時間が惜しい。ひとまず別れの挨拶をして桃香に背を向けると、「千佳ちゃん……」と名前を呼ばれた。千佳は首だけを後ろの桃香へ振り返らせる。


「何する気か分からないけど、絶対に無茶はしちゃだめだよ! 必ずまた会うんだからね、約束だよ」


「うん」


 これほど優しい気持ちで返事することは今後めったにあるまい。そう思えるほどに口から出た声は温かく、そしてやわらかなものだった。

 千佳は地面を蹴って対岸へ難なく跳び、そして土手の斜面を駆け上がって道を走る。

 現世の街を走り抜け、四季の庭園がある場所をひたすらに目指す。雪を含む冷たすぎる空気が全身にぶつかって顔や耳が痛みを覚えるほどだ。それでもなお、今は全速力で走るべき時だと千佳は直感していた。たらたら歩いていていては気持ちが萎えてしまうだろう。

 桃香と言葉を交わし、千佳が変わろうと人の世との絆は続いていくと信じることができた。突風のような速度で走る。あまりの速さにすれ違う人達から驚きの目を向けられつつも、千佳にとってはちっぽけすぎてどうでもいいことだ。気にせずに自身の胸の内側をさぐってみる。

 やはり恐怖は消えていない。冷えた黒いドロのような恐怖心は心の中に居座ってこびりついたまま、その存在を主張している。だが、その存在感は桃香と出会う前よりも確実に小さくなっていた。

 覚悟ができたからだ。心の中に占める覚悟の割合が増したおかげで、大きな覚悟に押されるように恐怖が端へとどけられているのだ。

 そのことを確認した後はただ無心で走った。動揺は鎮まり、かつてないほどに静かな気持ちだった。まるで凪いだ海原のような心境だった。

 四季の庭園がある道に到着すると、千佳は路肩に立ち止まって肩で息をする。ほてった身体に吸い込む冷えた空気が気持ちよかった。

 道一面が薄い雪の層でおおわれていた。雪の降る中だけあって道を歩く者はほとんどいない。千佳は忍に頼み、幽世側へと移動する。

 幽世の空は黒く、雪雲などない。当然、雪も降っていない。ここは暑くも寒くもない奇妙な世界だが、路面には雪らしき灰色のものが現世の街のようにうっすらと積もっている。空から何も降ってこないのにどうやって積もるのか千佳には不思議だった。


「たしか、このあたりだったよね」


 氷菓に追いかけられた千佳が消えた場所へと歩み寄り、半信半疑のまま一歩を踏み出す。その途端、視界が暗闇に染まり、数歩進むと明るく香しい花園へ出る。


「お帰りなさい、千佳」


「……た、ただいま戻りました」


 椅子に座ったまま微笑みかける四季に千佳はあわててかしこまった返事をする。四季が秘めた残忍さを先ほど思いがけずに知った千佳は、彼女への非礼は危険だと感じたのだ。


「ち、千佳」


 庭園の隅に瑠璃がたたずんでいた。困りきった顔のまま、おずおずと千佳と地面に視線を上げ下げしている。これほど頼りなく、自信を失った様子の瑠璃を千佳は初めて見た。

 やはり瑠璃も四季も人間とは違う。いくら姿形が人間と同じでも人の桃香とは身にまとう空気が微妙に違うのだ。冷たく湿った土の匂いのような、どこか不吉で薄暗いものを感じさせる。桃香と語り合った後では人と幽姫の差異が余計にはっきりと浮き彫りになっていた。

 千佳は深く息を吐いて胸の中のわだかまりを捨て去ると、瑠璃の前へと歩いていく。

 歩きながら千佳は忍に聞かされた話を思い出す。選択肢の片方が常に正解でもう片方が常に間違いとは限らないということ。何一つ不満が無い、完全無欠の選択などそうそうできるものではない。理不尽なこと、嫌なことが混ざる選択肢を選ばなければならないときもある。しかし、きっとそれが現実というものなのだろうと千佳は納得した。納得することに怒りや憎しみは伴わず、心は穏やかなままだった。

 瑠璃の前に立ってみても千佳の心と覚悟が乱れることはなかった。今は逆に瑠璃の方が混乱の極みにあるようだ。目を伏せ、大人に叱られている子どものような有様だ。


「決めたよ。瑠璃を治して、それで私もいっしょに戦う。私のために命を捨てようとしてくれた瑠璃と同じように、私もこの身体と、命を……張る」


 千佳を見つめる瑠璃のほおにひとすじの涙が伝い、涙が次々とあふれ出して止まらなくなる。瑠璃は泣き声を押し殺し、千佳の胸へと頭を寄せた。そして両手の拳で千佳の胸をどんどんと叩く。ほとんど痛くないほどに瑠璃が傷つき弱ってしまっているのが千佳の胸にしみた。


「バカよ、千佳は! 大バカよっ! 私だけが死んで、氷菓の奴が街からいなくなって、千佳は元の平和な暮らしを取り戻して、その後は私のことなんて忘れれば良いのに! そうするべきなのに!」


 願いが受け入れられずにだだをこねて大泣きする幼児のようだった。そんな瑠璃に千佳はとまどいつつも、彼女の頭をそっと両腕で抱き寄せる。やっていいのか少し迷ったものの、瑠璃の頭を髪越しになでてやる。さらさらとして手触りの良い綺麗な黒髪だった。

 瑠璃は本当に強い幽姫だ。瑠璃の遠い背中を見ているだけの日々だったのに、こうして泣きじゃくる彼女を慰める日が訪れようとは千佳自身が信じられない。瑠璃の身体は細く、軽い。繊細な壊れ物のようで瑠璃のはかなさと弱さを千佳は指先に感じとる。

 瑠璃の泣き声にはこんなことになってしまった運命を呪う思いが込められているだろう。千佳をさらに汚染してしまう幽姫の自分を呪う気持ちも、氷菓への憎しみも込められているだろう。だが千佳には、それらの気持ちに混じって、戦いのみの瑠璃の孤独の日々への嘆きの感情があると思えてならなかった。


「瑠璃の言うとおり。たしかにバカだよ、私は」


 千佳の静かな声に、今まで胸に顔を押しつけて泣いていた瑠璃が顔を上げる。あまりに無防備な瑠璃が可愛らしくて、千佳は思わず笑みをこぼしてしまう。


「瑠璃と会って、霊をはじく忍をもらって、ずっと悩んできた亡霊への対抗手段も手に入れた。やった! ラッキー! って正直何度も思ったよ。もうそこでやめておいた方がいい、それ以上関わって幽姫の問題に踏みこむべきじゃない、って考えも私の中にある。多分、それが賢い選択ってやつなんだと思う。でも、賢い選択をして、損得だけで考えて、その結論が瑠璃を見捨てるべきだなんて、私はそんなの嫌なんだ」


 瑠璃に触れて、胸の中でもやもやと漂っていた感情を言葉にしてみて、千佳はようやく自分の本音を見つけることができた。


「賢くなって逃げ出すくらいなら、バカになって瑠璃といっしょに戦いたい。瑠璃が死んでいなくなるなんて、そんなの絶対嫌だから。だからいっしょに戦おう。私を瑠璃が守って。代わりに私も瑠璃を助けて守るから。私と瑠璃で、氷菓との争いを終わらせよう」


「――うん」


 涙と共に負の感情を吐き尽くした瑠璃も、千佳と同じようについに覚悟を決めたらしい。服のそでで涙をぬぐい、すっきりとした凛々しい顔で千佳を見つめ返す。


「最後の確認だ。千佳」


 肩の上に忍が現れる。最後の確認。その空恐ろしい響きに、緊張で千佳の鼓動が速くなる。


「わざわざ僕が言わなくても、瑠璃の呪いをさらに吸うリスクは千佳自身が一番分かっていると思う。本当に……やってしまっていいのかい?」


「……うん。もう心の準備は済ませてあるよ」


 本当はまだ恐い。瑠璃だって表情に不安の色がにじんだままだ。でもぐずぐずしてはいられない。迷い続ける者をいつまでも待っていてくれるほど現実は優しくはない。千佳は四季の方へと顔を向けた。


「四季さん。ここに私達をかくまってくれて本当にありがとうございました。ご恩はきっと忘れません」


 今のうちにお礼を言っておこうと思ったのだ。千佳が今の千佳でいられるうちに。心が変わるかもしれない前に。


「少しだけ……大人になったようですわね、千佳。小さかった千佳が成長して、嬉しいやら悲しいやら。なにやら形容しがたい不思議な気分ですわ」


 目を閉じてしみじみと物思いにふける四季に、ちゃんと私のことを見てくれているんだと千佳は嬉しくなる。


「さて、これから千佳がどうなるのかとっても興味がありますわ。鬼が出るか蛇が出るか、ふたを開けてのお楽しみですわね」


「…………」


 無邪気な子どものように目を輝かせる四季に、やっぱりこの人はちょっと嫌でダメな人なのかもと千佳は虚しい気持ちを味わう。


「早くしないと夜になる。今からさっそく始めて、忍」


「……わかった。じゃあ二人ともここに座って。それで手を繋いで」


 千佳が先に花畑の中に座り、とまどう瑠璃もそれに習う。そして忍に言われた通り、向かい合って座ったままお互いの胸の前で右手同士を組み合わせた。


「私は千佳みたいに学校へ行っていなくて、そのせいで教養もぜんぜん足りなくて、今のこの気持ちをどう言い表せばいいのかが分からないの。千佳に謝りたいし、その逆にありがとうとも言いたいの」

 瑠璃が悔しそうな顔でうつむき、握り合わせた手にわずかに力がこもる。瑠璃はそのまま少しの間じっとし、やがて強ばらせていた肩や腕から力を抜いた。


「がんばりましょう。千佳」


「うん。そういう言葉が聞きたかったよ」


 つまるところ、千佳は瑠璃といっしょに同じ方を向いて歩いて行きたかった。遠慮や打算を超えて力と心を合わせ、二人で何かに立ち向かいたかったのだ。

 がんばりたい。そう言ってくれた瑠璃に千佳は笑顔で応えるものの、いよいよとなって恐怖が全身に広がりつつあった。じっとりとした気持ちの悪い汗が背中に浮かんできているのがよく分かる。

 瑠璃の身体にたまった呪いがもうすぐこちら側へやってくる。一度体験したそれは、強烈なめまいと吐き気と熱を引き起こすものだと分かっている。血管の中に得体の知れない毒を直接注入され、それが血流に乗って全身へめぐっていくようなおぞましい感触なのだ。


「始めるよ。準備はいい?」


 千佳はごくりとつばを飲み、肩の上の忍に無言でうなずく。瑠璃も千佳と同じようにした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ