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「よく降るねぇ」
川べりのコンクリート岸に立ち、桃香は雪がどんどん降ってくる空の雲を見上げる。そのまま岸辺をゆっくりと歩いて行く。
「桃香に言っておきたいことがあるの」
絆はきっと続いていく。長く苦しい迷いの果てにようやく千佳は桃香に秘密を伝える決心がついた。息を止め、鼓動の高鳴りを感じながら最初の言葉を何とか口からしぼり出すことができた。
たった一言で、勘の鋭い桃香はこれから始まる告白が読み取れたらしい。背中にいきなり氷水を注ぎ込まれたかのようにびくりと震え、千佳の方へ振り返り、動揺に足元がぐらつく。
瑠璃の呪いの影響、千佳の人間離れした雰囲気や身体能力に桃香は前から勘付いていた。それをいつか話すと約束して今まで桃香に隠し通してきたのだ。いざ話すとなると、千佳も強い緊張で心臓が握りしめられるかのようだった。
「あっ……」
悲鳴未満の小さな声とともに桃香の身体が傾く。ショックで足どりが不安定だったうえに、コンクリートに薄く積もった雪に足を滑らせからだ。しかも運が悪いことに桃香の立っていた場所は河の岸。
滑ってバランスを崩し、背中から河へと落ちていく桃香。その一秒以内の刹那の光景が千佳の目にはゆっくりと鮮明に映る。自分の身に何が起こったのか理解が追いつかずに不思議そうな顔をしている桃香の顔もコマ送りのようによく見えた。
真冬の河。寒さのあまり心臓麻痺を起こす可能性。少なくとも河に落ちれば風邪は引くだろう。流され溺れて水死するということも。そんな不吉な連想が千佳の脳裏をめぐったせいで、動体視力に優れた千佳も対応が遅れた。いくら体感時間は引き延ばせても思考の速度はそれほど変わっていないのだ。
桃香の背中はすでに水面と平行になるまで傾いていた。千佳が今立っている場所から桃香に走り寄り、落ちる前に足をつかむことは……不可能ではない。だがしかし、その速度で突っこむと位置が川岸だけにブレーキが効かずに二人いっしょに河の中へ飛び出すことになる。それではまったく意味がない。
もはやいちかばちかの賭けだった。やるのなら中途半端の力が一番まずい。千佳は全力で飛び出し、川岸を思いきり蹴って宙で桃香を抱きとめる。そのままの勢いで幅八メートルはあろうかという河の間を飛ぶ。
飛んだのは一瞬だったが、ぞっとするような浮遊感で千佳は背筋が凍った。桃香を抱いたままどうにか対岸の河川敷へ着地し、脚力が足りて本当に良かったと安堵のため息をつく。
河の上を飛ぶ一瞬の間、最悪の場合を想定していた。抱きかかえた桃香の重量と千佳の脚力不足が理由で河を跳び越えられず、河の中に墜落する場合だ。もしそうなりそうな時は桃香を対岸に放り投げ、千佳一人が水に落ちるつもりだった。二人そろって落ちるよりはいいからだ。それに千佳の力なら溺れることなく確実に助かる。
胸と両ひざを抱えられた桃香は千佳の腕の中でぽかんとしている。まるで母親に抱かれる赤んぼうのようなポーズと顔だった。あまりの非常識な展開に理解が追いついていないらしい。当たり前だ。人一人を抱えて河の間を何メートルも飛ぶなど人間業ではない。身体のことをあれこれ説明する前に証拠を見せてしまった。
「恐い……?」
桃香は千佳を見上げたまま何も答えない。表情に変化がまったくなかった。
「私、少し前からこういうことができる身体になっちゃった。そのことを桃香にだまっていた。桃香に恐がられたり、嫌われたくなかったから」
千佳はたまらず目をそらす。桃香の身体は静かに止まったままで震えている様子はない。胸を抱く腕を桃香がぎゅっと握り返すのを千佳は感じとる。
「もう私は普通の人間じゃない。そうなった原因を詳しく話す時間は……今はないんだけど」
桃香への申し訳なさに胸を痛めながら千佳は空を見上げる。灰色のぶ厚い雪雲に覆われているせいで太陽光が届かない。そのせいで今が何時くらいなのかは分からなかったがさっきよりも暗いように千佳の目に映った。桃香と話している間にも確実に時間は流れ続け、あまり余裕はない。千佳の特別な体質、幽姫の瑠璃との出会いから幽姫の役目、その身体にたまった不浄霊の呪いなどをいちから説明していたら一時間では済まない。
「これからもっと私は変わる」
腕の中で桃香がびくりと震えたのが伝わる。千佳は目を閉じ、胸に詰まった重く固い言葉をむりやり口から引きずり出す。
「もしかしたら今の私とは少し違う私になるかもしれない。身体も、心も、変わっちゃうかもしれない。でも、私は変わらなくちゃならない。……いや、変わりたいんだ」
「どうして? 何のために?」
何のために? そんな桃香の根源的な問いに千佳ははっとし、あらためて自分自身に問いかけた。自分は何のために、さらに変わろうとしているのか。
氷菓を倒して目の前の障害を取り除き平穏を取り戻すため。とにかく、幽世の部屋で待ちかまえている氷菓を倒すために力が要る。それはそうだが何かが違う。本当の解答からはズレている気がする。
瑠璃のため? 人間を超えた力が欲しいから? 瑠璃への同情? そのどれもが違うような気がする。千佳はまぶたを下ろし、うーんとうなる。自分の中のどこかに埋もれた答えを掘り出すためだ。
視覚の情報を遮断したことで感覚的なものへより意識が向くようになる。身体を包む冬の冷気。河の水が流れる音。それに混じる、雪が降り落ちる小さな音。千佳と桃香二人分の呼吸音。千佳の頭や腕に雪が落ちる感触と冷たさ。指先にたしかに感じる桃香の体温。この中で一番大切なものは、きっと手の中の温もりだ。
目を開けて桃香を見る。桃香も千佳をじっと見つめていた。至近距離で目が合っても不思議と気恥ずかしさは感じない。ようやく導き出したクイズの答えを出題者に言うだけのような、どこか誇らしげな気分だった。
「大切なものを守るための力が欲しいから」
完全な答えではないにせよ、千佳が今思いつく理由の中ではそれが一番しっくりくる。何かを壊したり、誰かを殺すためのまがまがしい力が欲しいわけじゃない。守りたいものを守るための力が必要だ。
もしも千佳が今の力を手にしていなかったら、桃香は上の階から降ってきた植木鉢のせいで重傷を負っていたかもしれない。真冬の河に落ちて死んでいたかもしれない。手の中の大切なぬくもりが失われていたかもしれないのだ。新たに手にする力を何かを守るために使えるならば、身体や心が変わろうとも受け入れることができる。
桃香が千佳にしがみつく。顔を伏せ、表情が見えない。まるでおびえきった子どものようだった。
「止めても無駄だよね?」
「うん。もう、決めたから。私を待ってる人がいるの。その人を守るって決めたんだ」
「……その人って誰? 女? まさか、男?」
急に桃香の声が力強く、憎しみさえ帯びたようなものへと変わる。千佳の二の腕をつかむ指に必要以上の力をこめ、痛いほどだった。
「多分、女……だと思うけど……」
幽姫の性別の事情など千佳には分からない。少なくとも瑠璃は女性の身体と心をしている。男だと答えれば桃香が怒り出しそうな様子だったので、千佳は女と答える。
「千佳ちゃんは私とその人、どっちが好き? どっちが大切?」
「ええっ!? そんなこと、考えたことないよ! いきなり何を聞くのよ。その人は大事な友達だけど、桃香は小さな頃からの幼馴染みだし、桃香は別格だよ」
「ふふふ。別格、か……。ならいいや。とりあえず、千佳ちゃんを許してあげます」
話も一通りまとまったところで、千佳はずっと抱いていた桃香を地面に降ろす。桃香の両腕がだらんと下がり、何も持っていないことに気づいて、ようやく千佳は一つの失敗に気がついた。
「ごめん、本が……」
背後の河と向こう側の河川敷を見ても、桃香が買った本入りの紙袋はどこにも見当たらない。落ちつつあった桃香を抱きとめて飛んだ速度と衝撃で、桃香がわきに抱えていた本は河の中に落ちてしまったらしい。水面には紙袋の影も形もなく、沈んでしまった後だ。
「構わないよ。高い本じゃないから、また買えばいいんだし。千佳ちゃんのかっこいいところも見せてもらったし、だっこもしてもらっちゃったし。本当、千佳ちゃんはかっこいい。かなわないよ、本当に」
千佳に向かって微笑んでいるのにどこか悲しげな顔だった。諦めと落胆が混ざり合ったような桃香の笑顔に、千佳の胸で不安が膨らんでいく。
「詳しいことはさっぱり分からないけど、千佳ちゃんが私の知らない遠くの世界へ行こうとしているのは分かるよ。千佳ちゃんはいつもどこか別の場所を見てて、いつも私は千佳ちゃんに追いつこうとして、でも追いつけなくて。それで今度はもっと遠くを目指してる。本当、かなわないよ」
「ごめん、桃香」
「私が止めても、千佳ちゃんが進むのは分かってるんだ。千佳ちゃんは昔から、途中で迷っても、最後には自分で決めたことをやっちゃうすごい女の子だから。私が一番分かってるんだから」
胸を張る桃香に、千佳も薄い笑みを返す。
「千佳ちゃんがどんなに遠くへ行っても、どんなに変わっても、私、千佳ちゃんについていく。千佳ちゃんを信じてるよ。それが幼馴染みの務めだもんね」
「――ありがとう」
礼を言わずにはいられなかった。誰かに何かのささやかな親切を受けて形式的にお礼の言葉を言うことはしょっちゅうだ。だが心の底からお礼を言いたい気持ちはこれが初めてだった。胸に満ちあふれる温かな思いを言い尽くせないことがもどかしい。桃香がそこにいるだけで、千佳が変わった後も絆は続いていく。それがありがたくて仕方がなかった。
「必ず戻ってきて、桃香に全部話すよ」
「千佳ちゃんが守りたいっていう誰かの事もね」
嫉妬したような目でにらまれ、千佳は少しだけ胃が痛くなった。
「じゃあ、私を救ってくれた王子様の千佳ちゃん。どうぞ、誓いのキスを」
目を閉じて顔を前に突き出す桃香。そんな桃香の頭を、千佳は「調子に乗るんじゃありません」と言ってぽかりと叩いた。
「ちぇっ。いいじゃない、女の子同士なんだしチュウの一つや二つぐらい。なにより、私と千佳ちゃんの間柄なんだし」
軽く叩かれた頭をさすりながら恨めしげにつぶやく桃香に、千佳は彼女の言い分が本気か嘘かいまいちわからずに頭をかく。
「じゃあね、桃香。私、行ってくる」




