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「小さい頃に、よく千佳ちゃんと二人でここで遊んだよね。生えてる花なんか摘んでさ」
河に面している側の斜面はむき出しの土で、そこには色々な植物が自生していた。季節は冬で花こそ咲いていないが、今もなお背丈の低い雑草で一面が覆われている。千佳の目に、桃香といっしょに土手で遊んだ幼い時の記憶の映像と、このどこか寂しい景色が重なって映った。
「あの頃は一日一日が長くて、やたらに濃くて、とってもきらきらしていたような気がするよ。なによりも、その時その時に夢中になっていれば良かったんだ。先が見えなくて楽しかったな。でも、もう私も千佳ちゃんも中学二年生。来年は高校受験だね」
高校受験。今の千佳の胸にはまったく染みこまずに頭の上を通り過ぎていく。人でいられるかいられないかという世にも奇妙な分かれ目に立たされている千佳にはあまりに遠く、ちっぽけな問題だったからだ。
「受験とか、将来やりたい仕事とか、先を見なきゃいけないことがだんだん増えてきたよね。何だか私、そういうのって恐いなあ」
土手の上に整えられたコンクリートの道を歩く桃香。その後ろ姿を見ながら、桃香の成長に千佳はふと気がついた。すらりと伸びた背と手足。膨らんだ胸に、かすかに大人の気配を匂わせる顔立ち。幼馴染みの桃香とはいつもいっしょにいたから彼女のゆるやかな変化に気を留めなかった。
桃香も、千佳自身も、着々と大人に近づいている。今の自分の写真を数年前の小学生の自分に見せたらあまりの変わりように驚かれるだろう。時間は流れ続け、状況は刻々と移ろい、人は常に変わり続けていくらしい。
「さっきの千佳ちゃん、すっごく速かった。びゅーんって走る新幹線かと思ったくらい。あと少しで見失いそうだったよ。どうしてあんなに足が速いの? 千佳ちゃん」
「そ、それは……」
突然振り向いて下から顔をのぞきこむ桃香に千佳は言葉を詰まらせる。そんな千佳に桃香はいたずらっぽく笑い、背筋を伸ばして正面から顔を見つめる。最初から答えは求めていなかったらしい。
「千佳ちゃんが悩んでいること、当てて見せようか」
「……!」
「千佳ちゃんは私にも、千佳ちゃん自身にも分からないどこか遠い場所を見ています。その場所と、そこまでの距離にとまどっているのです」
驚きに口を半開きにしたまま固まる千佳に「図星でしょ? その顔を見れば分かるよ」と桃香は笑う。
「千佳ちゃんはずっと昔から私達には見えない何かを見ていたよね。それが何かは分からないけど、別の世界に目を向けているような、そんな感じ。最近の千佳ちゃんは……その世界のさらに先を見ている気がする。すごく遠い目をしてるから」
千佳の視界の上から下へ白いモノがいくつも落ちていく。雪だった。いつの間にか空は灰色の雲で覆われ、大粒の雪が降り始めていた。
桃香は千佳へにこっと笑い、再び千佳に背を向けて歩き出す。その後ろを千佳は慌てずについていく。
「おい、千佳」
空耳かと思いきや、何度も耳元に声が届くので幻聴ではない。忍の声だった。姿を消したまま、桃香に聞こえないほどの小声で話しかけているのだ。
「桃香の勘の良さは想像以上だ。霊視の能力についてはバレてないが、君が小さい時からこの世とは別の世界……亡霊の世界を見てきたことは何となく気づかれている。隠していても幽姫の瑠璃のこと、変化した体質のこと、すべてを見抜かれる危険がある。今すぐ桃香との会話を打ち切るべきだと思う」
「…………」
雪の中の土手を桃香といっしょに歩きながら千佳はしばらく黙りこみ、やがて「いや、いい」と桃香としゃべっていた時の声の大きさで返事をする。そのせいで桃香は「ん? 何か言った?」と振り向いた。千佳が無言で首を横に振り、桃香も大した意味はないと受け取ったようだ。それまでのように千佳の前を歩き続ける。
空を見上げて目を凝らせば雪の中を漂う亡霊達がよく見える。思えばこいつらとも長い付き合いだなと千佳は不思議な思いがした。
千佳の日常にはいつも亡霊達が溶けこんでいた。幽霊が見えるという忌まわしい能力のせいでどれだけ人生が狂ったのか、その被害の総量を見積もることもできないほどだ。
数々の恐怖と嫌悪と絶望を運んできた敵だというのに、千佳の胸にはなぜか怒りも憎しみもわき上がってこない。心の内側は妙に穏やかで、まるでこの雪が降る景色のように静かに凪いでいる。
千佳の視線に気づいた亡霊の一体が千佳めがけて飛んできた。彼らは常に孤独に苦しんでいる。実体をもたない亡霊はもう何もできない。ただ現世の出来事を見ているだけの物体に等しい。存在に気づいてもらえる人間にすがりつき、死んだ悲しみや切なさや恨みを理解してもらおうと必死なのだ。
千佳はそんな哀れな亡霊を手づかみし、顔の前に引き寄せてじっと見つめる。小さい。大人の猫と同じくらいのミニサイズの亡霊だった。
もはや今の千佳にとっては亡霊は脅威でも何でもなかった。手で触れることができるようになったからだ。手で振りはらうこともできるし、つかんだ手に少し力を込めれば簡単に握りつぶして消滅させることができる。巨人のような不浄霊や、その不浄霊を狩るために世界から生み出された幽姫という上位の存在を知ってしまったからには現世に飛び交う亡霊などただの雑魚。
手の拘束から逃れようと懸命に身体をうねらせるミニサイズの亡霊に千佳は微笑する。そして手を離し、殺すことなく逃がしてやる。
宙空へ飛んでいく小さな亡霊を見送りながら、何かに似ているなと思う。寒空の下で千佳の吐く白い息と亡霊が、大きさも形もよく似ているのだ。もはやこの世ならざる亡霊は千佳にとって呼吸や空気とあまり変わらないほどに自然で当たり前ののものになってしまったのかもしれない。
亡霊や不浄霊に慣れてもその上の幽姫は? 桃香の後をゆったりとした足取りで追いながら、新たにわいた疑問に千佳は考えをめぐらせる。
瑠璃。四季。トラ。氷菓。千佳が出会った幽姫達。トラは猫の耳と二本のしっぽという動物的な特徴をもっているが、彼女以外の三人はみんな人間と変わらない姿をしている。だからといってまだ慣れたわけではない。姿形は人と同じでも、亡霊の姫君というだけあって心根は人間とはだいぶ違っている。幽姫という種族でもそれぞれの容姿や能力、不浄霊狩りへの情熱とスタンスが全然違うというのが興味深い。
幽姫でさえも千佳の日常の一部になってしまっている。なにしろ瑠璃とは同居するほどの仲だ。幽姫のことをもっとよく知りたい。窮地に立たされている瑠璃の力になりたい。そう千佳が願うのも、幽世側の世界に首を突っこみすぎることの証。そして今こんなことになってしまったのも幼い時から亡霊達に関わってきた流れからすればごく自然な展開と言えるのかもしれなかった。千佳は情けないやら諦めやらの気分に小さな笑いを漏らす。
じゃあ亡霊でも不浄霊でも幽姫でもない人間は? 雪が降りしきる中を歩く桃香を見て千佳は物思いにふける。
今の千佳の能力なら並みの人間など相手にならない。千佳の意思一つで目の前の桃香の生死は思いのまま。……仮に頭の中でその状況を描いてみても本気でそうしたいなどとは決して思わない。
もしも人間を前にして敵だの下等だのと考え出すようになればもう千佳はお終いだ。体質だけでなく頭の中まで人間以外のモノに変わってしまったことにほかならないのだから。
桃香を見ていても、肉食獣が獲物に感じるような破壊衝動や食欲じみたものは覚えない。胸に温かな気持ちが広がるだけで、重苦しい不安が和らいでいく。それだけで千佳は感謝の念を抱かずにはいられなかった。
桃香が土手の斜面を降り始め、下側から「ついてきて」と目で訴える。楽しげな顔だ。千佳は笑ってうなずくと斜面を下り、しゃがむ桃香のそばへ寄った。
桃香の隣にしゃがみ、いっしょに足元の草をのぞきこむ。即席の野草観察会だった。
「これ、どんな色の花が咲くか知ってる? 千佳ちゃん」
「分からないよ」
「私も分からないの」
「だめじゃん」
コンクリートで整備された河の水面と同じ高さにある河川敷。そこに桃香といっしょにしゃがみながら冬の草を見て回る。雪が降るほどの寒さでも土で覆われた河川敷にはくまなく緑の草が生えていた。
桃香との絆を千佳は感じていた。人と人との絆というものを千佳は見たことがない。亡霊は目に見えても、いがみあう人間同士の間の火花とか運命の赤い糸のようなモノは見たことがない。当然だ。絆とは人間同士の関係の一つを示す言葉に過ぎない。実体をもつ類ではないのだ。
雪は止まず、二人の頭や肩もあっという間に雪で覆われる。土手に広がる植物達もしだいに雪に埋もれていく。吐く息は白く、本来ならばすぐに屋根のある暖房の効いた部屋にでも引っ込みたいほどの寒さだ。それなのに千佳は今の時間がちっとも苦痛でなかった。寄り添い合う桃香と千佳の二人が、狭くて暖かい何かに包まれているような感じがしたからだ。目には見えなくても、この不可思議な心地良い感覚は絆と呼ぶに相応しいだろう。
桃香と他愛のない話を続けながら、絆とは友達や家族との時間と記憶の共有じゃないかと千佳は考え始めた。
これまでの桃香との付き合い――時間を共有し、いっしょに記憶を積み重ねたことが桃香との絆を形作っている。もしも千佳がこれから変わってしまっても、ずっと続けてきた時間の共有も、千佳のもつ桃香との記憶も失われない。なぜならそれらはすでに千佳の胸に大切にしまわれているから。
千佳が忘れてしまわない限り桃香との絆は続いていく。たとえそれが千佳一人だけが思い続ける絆だとしてもだ。
この現世との絆も同じこと。瑠璃の呪いを今以上に吸ってさらに変化が進んだとしても千佳がこの世から消えてしまうわけではない。この世に在るものの一つとして千佳は続いていく。だから何かの形でこの世との絆は続いていく。千秋千佳という人間が完全に世界と断絶し、終わってしまうことなどあり得ないのだ。




