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何やら気分が悪くなってきた千佳は恐れを振りはらうつもりでそばのコンクリート塀の上へ跳び、そこからさらに人家の屋根へと跳び移る。
瑠璃やトラのような人外の存在にしかできないような芸当が今では当たり前にこなすことができた。こんなことは瑠璃と知り合う以前の千佳からすれば考えられなかった。高所の屋根の上に立っていてもまったく恐くない。もしも足を滑らせて落ちたとしても、宙で身をひねって安全に着地するなど朝飯前だからだ。
これが今の千佳の限界であり、これ以上先の能力の世界は想像が及ばない。瑠璃の呪いをさらに吸うとどういう離れ業が可能になるのか分からなかった。
千佳は屋根の上にひざを抱えて座り、幽世の街をじっと眺める。風は吹かず、車も通らず、じつに静かなものだった。不浄霊が発する奇怪なうなり声がたまに耳に届くだけだ。当然、千佳以外の人間は一人もいない。空は黒く、幽世は荒廃した雰囲気で満ちている。
「何だか、人間が滅んだ後の世界みたいな景色」
勝手に口から滑り出た独り言に忍は何も返さない。千佳は顔をひざに押しつけてうずくまり、物思いに沈む。
もしも幽姫の瑠璃と共に歩く道を選べば千佳はこの寂しい暗黒の世界に身を投じなければならなくなる。それはおそらく滅びの道を行くということだ。不浄霊を滅ぼし続け、いずれは呪いではじけて滅ぶ幽姫のように。その事実から目をそらしてはいけないと千佳は胸に刻みこんだ。
千佳は屋根の上から直接路面に飛び降り、難なく着地する。そして電信柱の陰に身を隠した。現世側の人間は半透明の輪郭として幽世から見ることができる。人通りが絶えた時を見はからって忍に頼み、現世へと帰還する。
目を灼くような太陽の光。冬の風の冷たさ。道を行き交う学生や主婦やお年寄り。人特有のざわついた気配。いつも見ている当たり前のものが今の千佳にはひどく懐かしい。千佳はほっとした気持ちで人通りにまぎれ、道を歩いていく。
今はこうして誰にも怪しまれずに人間として歩いていられる。だがこれからは?
千佳はふらふらとした足取りで大通り沿いに道を歩き、途中で見かけたブティックのショーウインドーのガラスをのぞきこんだ。
顔はいつもの千佳のままだ。両手を見ても人間の手のままで五本指に異常はない。そのことにほっとため息を漏らす。とりあえずは人の姿を保っているが、これからどう変わるかは予想が立たない。化け物じみた姿形に変貌しないとも限らないのだ。
千佳はウインドーに片手を当てたまま、やつれたような顔で道行く人々の顔を見る。友達と並んで歩き笑っている人もいれば、無表情の人もいる。なにやら難しいことを考えているような重苦しい表情の人もいれば、ぼんやりとして何も考えていないような顔の人もいる。人それぞれだが、少なくとも千佳のような差し迫った顔の者は一人も見かけなかった。
みんなはどうなのだろう。もしも千佳と同じ立場だったら瑠璃の呪いを受け入れるだろうか? 千佳はその場にじっとたたずんだまま、すれ違う人達の心を想像してみる。
おそらく、千佳はこの人達の中の誰よりも強い。視界に入るすべての人がたばになってもかなわないほどの力量を備えている。千佳が偶然手に入れた超人的な能力を欲しがる人はきっといるに違いない。
他者よりもはるかに優れていたい。大勢よりも抜きん出たい。そういう願望は誰もが一度は抱くはず。みんなが欲しがっていても実際に力を手に入れられる者はごくわずかだ。なぜなら力を得るには生まれもった才能や長く厳しい修行が不可欠であり、天才は世にも稀で、不断の努力に耐えられる者は決して多くはないからだ。楽して大きな力が手に入るのなら苦労はない。何かを得るためには相応の代償が要る。そして求めるモノが大きくなればなるほどに代償も大きくなっていく。
千佳が力を得る代わりに支払った代償。その詳細を知ってもなお千佳のようになりたいと望む人が残るだろうか? 人の平穏な日常を捨て、人であることを辞めてまで人外の力を欲しいと考える人がいるだろうか? そう多くはない気がすると千佳は考える。
そんな誰も選ばないような細くて暗い道へ進もうとしている私はやはりおかしいのだろうか? そんな疑問がわき上がり、千佳はおろおろと周りを見回した。
亡霊が棲む幽世から光に満ちた現世に戻ってきてもなぜか落ち着かない。人の群の中にいても孤立しているように感じるのは千佳が道を踏み外しかけているから。不安にかられた千佳はそう思い、やっぱりみんながやっていることに習った方がと考えかけた。
しかし、弱さに流されかけていたことに気づき、すぐに首を横に振る。ついさっき忍に言われた事が脳裏に蘇ったからだ。
大切なのは自分の頭で考えること。他人がこうするからだとか、常識ではこうだからとか、そんなものに囚われれば自分の心を見失う。千佳の目に映る大勢と千佳とでは、それぞれの置かれた状況と求めるものが違う。だから比較する事自体が間違っている。大切なのは千佳本人が何を思い、何を求め、何をするかだ。
何かをつかんだ気がした千佳は得意げな笑みを浮かべ、ガッツポーズをする。だが十数秒後には張りつめた気持ちも萎え、せっかく浮かんだ笑みも消え去ってしまう。強く握った拳から力が抜け、大きなため息が勝手に出る。
いくら意気込んでみても胸の中に巣食った恐さは消せない。なにしろこれ以上瑠璃の呪いを取り込めば外見どころか人の意識をとどめておける保証すらないのだ。人の心を失った亡霊達は何度も目にしてきた。化け物の心がどれほど荒んでいておぞましいのかを彼らに長年憑きまとわれてきた千佳は肌で分かっている。瑠璃にたまった呪いを半分吸っただけで力や速度、動体視力や聴力が格段に変わった。これ以上先へ進めば変化はもっと顕著になるだろう。
葛藤に千佳は両手で頭を抱え、「あああっ」と悲鳴のような声を上げながらぶんぶんと頭を振る。その奇行はブティック内の店員や通行人の目を集めていたが、悩み苦しむ千佳は気づかない。
「――千佳ちゃん?」
「!?」
突然の呼び声にびくりと震え、後ろを振り返る。そこには私服姿の桃香が立っていた。真っ白のコートを身にまとい、灰色の街に降り立った雪の妖精のように見えた。
きょとんとした顔で見つめてくる桃香に、どういうわけか千佳は己がとんでもなく汚らしいものであるかのような錯覚を抱く。
いたたまれなくなった千佳は口を動かす前に足を動かして道を駆け抜ける。全速力の逃走だった。街並みや通り過ぎる人の姿、街路樹がものすごい勢いで後ろへと流れ去っていく。動画を高速再生しているかのようだ。人間以上の脚力を手に入れた千佳ならではの猛スピードだった。
はるか後方から桃香の呼び声が聞こえてくる。どうやら追ってきているらしい。それを知ってもなお千佳の足は止まらない。まさに必死の思いだった。
どうして私は桃香から逃げる!? 疾走中、その馬鹿らしい問いが何度も何度も重なって浮かぶ。桃香から逃げる理由などない。勘が鋭い桃香に秘密をかぎつけられないようにある程度の距離を取るべきだが、それでも逃げる必要はない。やましいことは何もしていないはずだ。それなのになぜ逃げなければならないのか、自分で自分の心が分からなかった。
なかば錯乱したような頭で街中を駆け続けるうち、足元への注意が行き届かなくなった千佳は道に捨てられていた雑誌を踏んで滑る。そして顔面からハデに転んだ。それでもなお勢いは止まらず、ごろごろと前転を繰り返して身体中を路面に打ち付けながらようやく停止する。
「……今の私って、最低」
冷たいコンクリートの上にうつぶせになりながらつぶやく千佳に忍も何も返してこない。忍も千佳と同意見らしい。
もう何もしたくない気分だった。人目も気にせずに歩道の真ん中で倒れたままでいると、顔の前で誰かが立ち止まった気配を感じとった。
「だっ、だいじょうぶっ……!? 千佳ちゃんっ……」
桃香だった。言葉はとぎれとぎれで息を切らせているのが千佳にはよく分かった。脚力の差で大幅に距離を開かせたものの、千佳が止まっている間にも桃香は走り続けて追いついてきたのだ。
千佳は無言で起き上がり、しゃがんだ姿勢のまま桃香を見上げる。転んだせいで身体の節々が痛んだがどこもすりむいていない。顔も無事だった。あの速さでコンクリート製の路面に突っこめば流血や骨折も仕方がないほどだが、無傷だ。初めて気づいたが、身体能力だけでなく耐久力まで人間の域を超えてしまっている。
うつろな顔で立ち上がる千佳に桃香は何も聞こうとしない。千佳の突然の奇行にも触れようとはしなかった。気まずい空気が二人の間を流れている。今もなお桃香との心の隔たりは埋まっていない。
「わ、私、買い物の帰りなんだ。それで、帰り道に偶然千佳ちゃんを見かけて、声を掛けて、その……」
桃香の左わきには長方形の茶色い紙袋が抱えられている。本屋に寄ったらしいことが袋のプリント名から読み取れた。
「冬休みの宿題ももっと後でやればいいと思っているし、今、私、けっこう暇で……」
横目で見ながら赤い顔でもじもじと語りかける桃香に、罪悪感の塊の千佳は胸が痛くなった。胸の中で風船が膨らむように息苦しく、ひどい圧迫感がする。
千佳はまた逃げたい衝動にかられながらも意図的に深いため息をついて緊張を解きほぐす。吐き出した息といっしょに胸のつかえが取れたような思いだった。固くなることはない。桃香の前では自然体でいればいい。そんな自己暗示を掛けて落ち着きを取り戻そうとする。
「さっきはごめん。なんか私、少しパニくっちゃってさ」
頭に手を当てて笑う千佳に桃香も明るい笑顔を返してくれる。理由にならない変な理由にも幼馴染みのよしみで許してくれるのが桃香の良いところだ。
「暇なんでしょ? 桃香といると落ち着くし、ちょっとその辺を歩こうよ」
微笑を浮かべてうなずく桃香を連れて、千佳はここから近い河の土手へと向かった。
見晴らしの良い土手の上。静かに流れる河と、その上に広がる空、そして向こう側に広がる街が一望できる。
桃香の少し後ろを千佳が歩く。そのまましばらくの間、二人は無言でゆっくりと進む。




