第32話 おかえり。
「私は……存在しちゃいけなかったんですよ」
二人で立っている足元が暗くてよく見えなくなった頃、先生が独り言のように言った。
残照を波間に映していた海も、真っ暗になっていく。足元のうんと下の方で、波の音が聞こえる。見晴らし台の柵のほんの少し先は、深い闇。高い高い切り立った崖。
「私は…ちゃんと…死ななくちゃいけなかった。その方がみんな幸せだった」
先生にしがみつきながら、アリシアは言う。
「…先生?なんだかよくはわからないけど…私は言いますよ?先生に何度でも。おかえりなさい、って。無事に帰ってきてくれてありがとう、って。ね、おかえりって言うよ?」
「……」
「この前も、王都から無事に帰ってきてくれて本当に嬉しかったよ。ずっと待ってたんだ。おかえり」
「……」
「牛乳を買いに行ってくれても、おかえりって言う」
「……」
「先生が波待亭で風呂に入って帰ってきたって、嬉しいから言うよ。おかえりって。ばあ様が言ってた。ただいまを言えるのも奇跡みたいなもんだって。だから、おかえりって言えるのも奇跡なんだ」
「……」
「だからさ、私たちは毎日のように奇跡の中にいるんだ。すごいよね」
「……」
「ね?帰ろう、先生。私たちの家に帰ろう。ね?」
アリシアは握りこんだ先生のワンピースを離さなかった。手を離したら、先生がどこかに行ってしまいそうで怖かったから。
先生のスカートを握ったまま、暗くなってきた坂道を下る。
うちの玄関に灯された大きなランプが、ここだと教えてくれる。
それは昼間この道を通る時よりもずい分と遠くに見えたけれど、間違いなく帰る場所を照らしてくれていた。




