第31話 いつも通りの先生。
先生はその夜もいつも通りだった。
晩御飯は今日収穫した玉ねぎの小さい奴をよけて置いたのとジャガイモをよく煮込んだスープ。白身魚のムニエルにバターソースをかけて、マッシュポテトを添える。
ダイニングテーブルでいつものように向かい合って食べる。
食べ終わって…アリシアが後片付けをしていると、先生は書きかけの原稿でもあったのか、部屋に戻った。特に、珍しいことでもない。
皿を洗い終わってから、玄関先にランプを下げる。
もう8時だが、外はまだ薄っすらと明るい。一年で一番明るい時期だ。
台所の小さいランプに火を入れるかどうか、ちょっと迷った。
明るいうちに明日のパンを仕込んでしまおうと、アリシアはがさごそと準備を始める。こねるだけこねて、濡れふきんをボールにかけて置く。
もう一度お湯を沸かしなおして、お茶を入れる。自分の分はそのまま台所に置いて、トレーに先生の分だけのせて、先生の部屋のドアをノックする。
「先生、お茶ですよ」
返事はなかったが、ドアを開ける。先生はそこにはいなかった。
窓が開いていて、カーテンが揺れていた。夕暮れの海が見えた。
なぜだろう。今日に限ってアリシアはその先生のいない部屋に違和感を持った。
理由のない…不安?
「先生?」
アリシアはお茶のカップをトレーごと先生の机に載せると、部屋を出て隣の客間を開けた。
「先生?」
いつものソファーにも先生の姿はなかった。
薄っすらと明るい沈みかけた陽の光を浴びて、壁に掛かったマーガレットの絵が浮かびあがる。
「先生?」
足の裏からゾワゾワと何かが上がってくる。
宿のばあ様のいつもの話が…耳元で聞こえた。
いやいや、ただの散歩かも知れない。そう…そう思いたかった。
【…あの日も普通の日だった。いつも通りの夫だった。普通に笑っていた】
アリシアはもう一度先生の部屋に戻ると、部屋履きのままデッキから外に飛び出した。
【何があったのかねぇ。私たちは30年も夫婦をしてきたし、娘もいい子に育ったし、娘婿も娘の幼馴染で…漁師の息子で、気のいい子だし、孫だって3人もいた】
暮れかけた見慣れたはずの景色の中で、樫の木の葉が揺れている。
ワンピース姿の先生が、見晴らし台の柵にもたれ掛かっているのが見える。
【宿だって、家族が暮らすのに困らないほどの稼ぎはあった。何がそんなに辛かったのかねぇ】
アリシアは自分の足が上手く動いてくれなくて、もつれて転んだが、すぐ立ち上がって、また走った。
【あの時さ、お茶でも飲んでから行けと言えばよかった】
「先生!」
アリシアが精一杯叫んだ声は、自分でびっくりするほど震えていた。
上手く走れない。もう一度転んで、また立ち上がって、先生にしがみついた。
息が切れて、呼吸が荒くなる。先生は振り返らなかった。
先生のワンピースを震える手で握りこむように掴んだまま、アリシアは先生の背中に顔を埋めて泣きだした。
「…先生、一緒に家に帰ろう?ね?」
泣きながらやっとそう言った。
長い一日だった。お日様がようやく水平線に沈んでいく。




