第3話 駆け落ちしなかった少女。
「…それでね」
日傘をさして波待亭から坂道を上ってきた上品なワンピースを召した奥方。道の両脇にはマーガレットが咲き乱れている。
たまにふらりと訪れるこの方は座りなれた椅子に深く腰を下ろして話を続ける。
「私はその人と駆け落ちをする約束の場所に行かなかったのよ。あんなに愛していると繰り返したのにねぇ」
「……」
すっかり夏の日差しになったが、海風が吹き込んでくる山小屋の客間は風が通って涼しい。薄いカーテンが風に揺れている。キラキラと水面が光っている。
私はそっとその奥方と先生にお茶を置く。
「もうすぐ…親が決めた婚約者との結婚式が目前で、逃げ出すならそのタイミングしかなかったの。でも…ほら…そんなことしたら家名に傷がつくでしょ?」
「……」
「それに…屋敷の馬番の青年と逃げても……。私は、結局、貧乏暮らしが怖かったんだわ」
「……」
「でもね、もし、あの時、あの人と逃げていたら?何万回も考えたわ。貧乏でも愛のある暮らしをしていたのかしら?」
「……」
海に向かって並んで座るお二人。奥方の白くなりかけた髪には大きな宝石の付いた髪飾りがついている。相変わらず先生は何も言わないでじっと彼女の話を聞いている。
そっとドアを閉める。
本棚が並んだ廊下の向こう側のダイニングに座って待っている奥方の侍女にもお茶を出す。奥方が16歳で嫁いだ時からずっと奥方についているという。
彼女も、いつものように座りなれた小さなダイニングの椅子にちょこんと座っている。
「もう40年も奥様を見てまいりましたわ」
奥方は16歳で嫁いで、たくさんの使用人に傅かれて、お子様も3人恵まれた。
家を任されて奥方として采配してきた。お子様方も立派に育て上げた。今は孫に囲まれて穏やかに暮らしているらしい。
「それでも時折、ため息をつかれます。傍から見ると順風満帆な人生でございますのにね」
軽蔑しているわけでも、呆れているわけでもなく、不思議で仕方がないと言った口調だ。そうつぶやいてから侍女はお茶を飲み始めた。
客間の話し声はここまでは届かない。




