第2話 いつも通りの夫。
「…あの日も普通の日だった。いつも通りの夫だった。普通に笑っていた」
「……」
「何があったのかねぇ。私たちは30年も夫婦をしてきたし、娘もいい子に育ったし、娘婿も娘の幼馴染で…漁師の息子で、気のいい子だし、孫だって3人もいた」
「……」
「宿だって、家族が暮らすのに困らないほどの稼ぎはあった。何がそんなに辛かったのかねぇ」
「……」
「あの時さ、お茶でも飲んでから行けと言えばよかった」
波待亭から続く上り坂を杖をつきながら上がってきた宿のばあ様が、私でさえ何度も聞いたいつもの話を始めていた。アリシアは話をさえぎらないようにそっとお茶のカップをテーブルに乗せる。
聞き役に徹している先生の前にもカップを置くと、アリシアはそのソファーとテーブルしか置いていない小さな客間から出て、ドアをそっと閉める。
今日もその客間からは海がよく見える。水平線と交じり合うような空も青い。
海に向けて置かれた椅子。二人の後姿。
***
先生が住んでいるこの山小屋はもともとあのばあ様の離れとして建てられたものらしい。旦那さんが<事故>で先立たれて、しばらくしてから娘夫婦に宿を任せてこの山小屋で暮らしていたが、年には勝てずに昨年、宿に戻った。先生は使用人の様な仕事をしながら7年近くここに住み込んでいたが、
「夜にランプの明かりを切らさないこと」と「訪ねてきた人にお茶を出す」を条件に譲り受けたらしい。
私は住み込みの女中兼秘書として昨年から雇われたが、買い出しに村まで下りたりすると、村の人たちが話しかけてきた。特に村でなんでも売っている雑貨屋のおかみさんは恰幅の良いにぎやかな人で、情報通で何でも教えてくれた。時々品出ししていた旦那さんにたしなめられるくらい。だから私の知っていることと言えば、そういった噂話しかない。
先生は…自分自身のことはほとんど話さない。
私も私自身のことは特に聞かれもしないので、話したこともない。話すようなたいした過去もない。
ひっそりと暮らしているが、やることは意外と多い。
水は近くのビクター牧場の牛の水飲み場になっている泉から汲んでくる。
山小屋の後ろに小さな畑があるので、必要な野菜は育てている。緩やかな坂を10分も下ると波待亭があるので、お風呂はそこで入らせてもらう。そこからもう少し降りると漁港。市も立つ。その奥に広がる村の商店で必要なものは一通り買える。
この山小屋の少し上に見晴らし台と村の人が呼ぶ高台がある。そこは海に向かって断崖絶壁になっているので、宿から登ってくる道に沿って丈夫な柵が廻されている。
ばあ様の旦那さんが暇を見てこつこつ作ったらしい。危なくないところにベンチが一つ置かれている。その隣に、旅人の日陰になるようにと宿のばあ様が植えた樫の木が見上げるくらいに育っている。
そこから左に折れていくと、水を汲みに行く牧場の脇に沿って一番近くの街に降りる近道になっている。
そうしてこの山小屋には、時折、客人がふらりと訪ねてくる。
今日の様にいつものばあ様だったり、先生の友人だったり、村の人だったり…初めてここを訪れる人も……。
私はその度に今日の様にそっとお茶を出す。
先生は黙って客人の話を聞く。




