第1話 波待亭。
その日もいつもと変わらない朝だった。6月下旬。空は澄んでいた。
娘婿は漁港に魚を仕入れに出かけ、私と娘は宿泊客の朝食の用意を始める。昨夜のうちに仕込んでおいたパンの焼ける匂いが漂う。
夫は裏の畑からキュウリやレタスを摘んで台所に届けると、私たちの宿から海沿いの見晴らし台まで続く柵の点検に出かけた。
「ついでにビクターの所に寄って牛乳を貰ってきてちょうだい」
私が声を掛けると、いつものように夫が帽子をひょいと上げて、にこりと笑う。
田舎町の漁港の近くで私たち家族は、波待亭という宿屋を営んでいた。
湾に面して建てられている二階建ての宿は20人も泊まればいっぱいになってしまうほどの小さいものだったが、家族で経営するのには丁度いいサイズだ。
野菜は裏の畑でたいがいの物は夫と娘婿が作っていたし、鶏も飼っているので卵や鶏肉も手に入る。
見晴らし台と私たちが呼んでいる断崖絶壁の高台から左に降りていく道を少し行くと、ビクターという老人がヤギと牛を放牧している農場があって、牛乳を分けてもらえる。
何ら変わらない、いつもの朝だった。
客の朝食が終わると、デッキでお茶を飲む客や出立する客の対応に追われる。
ひと段落すると、客室の掃除に入る前に家族で朝食をとる。娘婿は仕入れた魚をさばき終わって席に着いた。夫はこの時間に遅れることは珍しかったが、ビクターに捕まって話し相手にされているのだろうとたいして気にも留めなかった。一人暮らしのビクターは話が長いことでこの辺では有名だったから。
娘と10歳になる孫と一緒に、連泊以外の客室を掃除する。
ごみを出して、シーツと枕カバーを取り換えて、拭きあげたテーブルに花を飾る。この時期ならその辺に沢山咲いている白いマーガレットの一輪挿し。もう少ししてマーガレットの花が終わると、ラベンダーやミントの葉だったり。
最後の部屋にマーガレットの一輪挿しを飾り終わる頃、お昼になった。
早めのお客様が入り始めるころまでに、簡単な昼食をとる。畑に出ていた娘婿が帰ってきたが、そこにも夫の姿はなかった。
「お父さんたらまだかしら?頼んでいた牛乳がチーズになっちゃうわよね?」
そんな娘の冗談にみんなで笑っていた時に、漁港の方から人が駆けてきた。
赤銅色によく日に焼けた、ティムという青年だった。船から降りて真っすぐここまで走ってきたのだろう、作業着のまま、大汗をかいていた。
「奥さん…旦那さんが…」
「?」
娘がティムに水の入ったコップを差し出している。彼はそれを一息に飲むと、
「旦那さんが…断崖から落ちたようで…うちらの船で拾い上げて…」
「…え?」




