第28話 フィッシュ・パイ。
その夜、なんだか寝付けなかったアリシアは、明日のパンをこねていた。台所に小さいランプを一つだけつけて。ばあ様は早々に眠ってしまった。
ただいま、と言えるのも奇跡なら、おかえり、が言えるのも奇跡なのかもしれない。
…そんなことを考えながら、パン生地に力をこめる。
先生は帰って来るのかな…。そんなことをふと考える。
先生は…訳ありそうだが、どう見ても…高位貴族の子息のようだ。しかもあの美貌だ。ほっとかれているのが不思議なくらい。婿に欲しいという家だってあるに違いない。
才能も…それに伴った所得もある。今回の急なお出かけだって、実家に帰られたのかもしれない。それか…ゴードンさんと王都でまた一緒に暮らすのかもしれない。
もしもそうなら…私は帰るところもないんだし、波待亭で働かせてもらおうかな。今度出来るという缶詰工場で働いてもいい。
それでも私は今日みたいに…夕方になったら一人で大きなランプを玄関先に下げるんだろう。
来る日も来る日も…ほんの少し踵を浮かして、坂道を眺めて。
生地を寝かせて、濡れたふきんをかぶせて、手をよく洗う。
玄関のドアの隙間から、玄関先に灯したランプの灯りが室内に漏れている。
あの犬は……待っていたんだろうな、最後まで。
ふとそう思う。鼻の奥がツンとする。
ドアが開いたら青年が帰って来るだろうと、ドアの前で待っていたかもしれない。それとも…いつも帰ってくる道の見える窓から外を見ていたかもしれない。
家族に外に出してもらって、だんだん薄くなっていく青年の匂いを嗅いだかもしれない。
ほんの一日で、家も家族も捨ててきた私が……何を考えてるんだか。
アリシアは自虐的な笑みを浮かべて……エプロンでごしごしと顔を拭くと、台所のランプを持って自分の部屋のドアを閉めた。




