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第24話 夫を見殺しにしたご婦人。

「どうなさった?」


山小屋にご婦人を連れ帰ると、ばあ様が暖炉に火を入れて待っていた。

ご婦人のショールもワンピースは霧雨に濡れていた。ダイニングの椅子を勧めて、濡れたショールを預かって空いている椅子の背もたれに干した。


「…私は…」


暖炉に向かって並べた椅子に座ったばあ様が、ご婦人の次の言葉を辛抱強く待っている間、台所でお茶の準備をする。


「…あの日も夕方から雨が降り出しました。すぐそこに立っている人も見えないほどの濃い霧で…私は婚家から逃げるのなら今しかないと思いました」

「……」


「私の生家は貧乏な子爵家でした。嫁ぎ先の商家は、軍需で金回りの良い家でした。貴族とのつながりがあると、販売経路が増えますので…そんなこともあって請われて結婚をいたしました。夫になった人は…お酒さえ飲まなければいい人でした」

「……」

「毎晩のように会合に出かけ…景気が良かったりすると人は何か勘違いしてしまうのでしょうね。お酒をもう少し慎まれたらいかがですか、と言った私のことが気に入らなかったようで…お貴族様が偉そうに、と…暴力が始まりました。笑いながら…殴るのです」

「……」


アリシアは静かに、お客様とばあ様の前にお茶の入ったカップを置く。


「夫はお酒を飲んで帰ると…私が寝室で眠ったふりをしていても髪を掴んで引きずるようになりました。私の顔は殴られて青く腫れあがり、背中や腕や足は蹴られた跡が付きました。使用人が止めると、今度は物に当たります。本棚は倒され、窓ガラスは割られ…止めに入ってくれた使用人まで怪我をするようになって…私は小さな息子に害が及ぶ前に、婚家を子供を連れて出る計画を立てました。誰にも知られないように」

「……」


そっと椅子の背に干したショールを裏返してから…私は台所に戻ってジャガイモの皮むきを始めた。ご婦人のワンピースは紺色だったが、霧雨に濡れて喪服のようにも見える。


「婚家から川沿いに下がったところに一つ小さな橋があって、その橋を渡ると教会がすぐそばに建っていました。私は胸にしっかりと息子を抱いて、大きなスカーフを被って…慌てて出てきたのでそれをよく結びもしないで走り出しました。その日の川はいつもより水量が多くて、ごうごうと音まで立てていましたが、私は夢中で走りました。濃い霧で視界が利かないので柵沿いに走って…一番初めの橋を渡る。考えていたのはそれだけでした」

「……」


ばあ様がお茶を一口飲んで、カップを置いた。

話しているご婦人の手は膝の上で硬く握りこまれていた。


「雨粒が大きくなったころ、私は橋を渡りました。ここまで来たら教会はもうすぐでした。ほんの少し安心した、その時…すぐ後ろで私は名を呼ばれてぎょっとしました。酒臭い夫が、にやにやと笑いながら私に手を伸ばしていたんです。いつものように私の髪を掴もうとしたのか、頭にかぶったスカーフを力いっぱい引っ張りました。そして…その勢いのまま…雨で水量の増えた川に足を滑らせたんです」

「……」

「私は…落ちていく夫を、流されていく夫を見ませんでした。ただただ先に走りました。教会のドアを叩いて…救いを求めたんです」

「……」


「夫が昨晩、酒に酔って足を滑らせて川に落ちて溺死した、と、翌日陽が高くなってから婚家の弁護士が教会まで私を迎えに来ました。随分と下流で遺体が引き上げられたと聞きました。私は…妻として、跡取り息子の母として、夫の葬式をあげに婚家に戻りました」

「……」


「あの時…助けを呼ぶべきでしたか?夫が川に流されたと?助けるべきでしたか?」


ばあ様は答える代わりに、その節くれだった手でご婦人の手をさすった。





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