23話 戻る
夜が更けて、まもなく日付が変わろうかというころ、研究室の扉がようやく開いた。
ぎぃ、と軋む音とともに姿を現したメルは、髪をぼさぼさに乱し、頬には煤を付けていた。
随分と悲惨な格好だったが、その表情だけは妙に晴れやかだ。その理由はすぐに分かった。
「できたわ」
誇らしげに掲げられた手には、小さな薬瓶が握られている。
中には淡い銀色の液体。光の当たり具合によっては透明にもなるが、それがいっそう恐ろしい。
「人間に戻れる薬の完成よ」
一目見ただけでは、上手くいったのかどうかは分からない。思わず耳と髭をピンと立てる。
「本当だろうな?」
「たぶんね」
「怖いから、妙な言い方はやめろ」
私は即座に身を屈める。いつ爆発してもおかしくなさそうだ。
だがメルは気にした様子もなく、薬瓶をダイニングのランプへ透かして満足そうに眺めていた。
「それじゃあ早速飲んでもらいましょうか。ニコにゃんはどこ?」
なんだ、ニコにゃんって。
ほんとに人間に戻す気あるのか?
私は嘆息しながら、部屋をぐるりと見渡す。
タンスの上。ベッドの下。ダイニングの椅子。
すぐに目に付くはずの空色の毛玉が見当たらない。
「……ん?」
嫌な予感がした。もう一度見回すが、どこにもいない。
家の中が妙に静かだった。
メルも異変に気付いたらしい。薬瓶を持ったまま周囲を見回している。
「え、どこにいったの?」
「……知らん」
「知らん?」
メルの声が一段低くなった。
私は視線を逸らす。
まずい。ものすごくまずい。
朝からずっと一緒だった。というか付き纏われていた。
しかし先ほど猫パンチを偶然当ててしまってからは、ニコラ猫がどこかにいってしまい、そこから姿を見ていない。
もちろん家のどこかにいるとは思っていたから、意識すら向けていなかった。
「まさか」
メルの眉がぴくりと動いた。
「見てなかったの?」
「いや、見てなかったというか……」
「タズ」
メルの頬が膨らむ。珍しく怒っていた。
「あなたに任せたわよね?」
「ぐっ」
何も言えずに押し黙る。
さすがに弁明のしようがない。
「悪かったよ……」
私の言葉を受けて、メルはきりりと眉を傾けて、切り替えた。
「うん。とにかく急いで探さなくちゃ。外に出ちゃったのかしら」
家の中で見つからない以上、それしか考えられない。
自我がなくなり猫になったニコラなら、何の考えもないまま、外へ出ても不思議ではなかった。
私は窓の外を見る。
この時期は冷え込む。しかも獰猛な魔獣が冬籠りの準備のために夜でも彷徨いている。
何の能力もない、魔法も使えない野良の猫1匹で歩かせるには危険すぎる。
「絶対、ニコにゃんを見つけるわよ」
私たちは慌ただしく家を飛び出す。とはいえ、あまりにも手がかりがない。
「なんか捜索に使える魔法はないのか?」
「前もって居なくなるのを言ってくれてたら、追跡できたのに」
メルは不服そうに、頬を膨らませる。
「そんな計画的に行方不明にはならんだろ」
この広大な森を探すには、手分けするしかないようだ。
「私は川の方を見てくるわ」
「じゃあ私は北の方だ」
短いやり取りだけ交わし、それぞれ別の方向へ走り出す。
森は思った以上に暗かった。月明かりだけが頼りだ。
木々の影は長く伸び、昼間なら見慣れた道もどこか別の場所のように見える。
私は枝から枝へ飛び移りながら、空色の毛並みを探した。
呼んでも意味はない。
そもそも今のニコラは完全な猫だ。返事を期待できる状態ではない。
そのうえ人間のころだったら避けられる危険も、猫の好奇心で飛び込むかもしれない。
森には魔獣もいる。崖もある。流れの速い川もある。考えれば考えるほど、不安になっていった。
私は速度を上げる。
落ち葉が舞い上がり、木の幹を蹴る音が森へ響いた。だが見つからない。
足跡も。匂いも。音も。痕跡がない。
手掛かりらしい手掛かりが何一つなかった。
焦りが少しずつ募っていく。
「……ちっ、どこ行きやがった」
思わず舌打ちする。
頭に浮かぶのは最悪の想像ばかりだった。
もし魔獣に襲われていたら。もし崖から落ちていたら。もし二度と見つからなかったら。
そんな考えを振り払うように首を振る。
その時だった。
ドォンと、森の静寂を引き裂くような轟音が響いた。地面がわずかに震える。
木の影に留まっていた鳥たちが一斉に飛び立ち、森全体がざわめいた。
私は反射的に立ち止まる。
「……なんだ?」
こんな夜更けに聞こえてくるような音じゃない。
しかもかなり近い。
「まさか」
私は音のした方角へ視線を向け、地面を蹴る。
手がかりがない以上、何か騒動があった時点で、動くべきだ。胸騒ぎだけが、やけにはっきりと大きくなっていた。
落ち葉を蹴散らし、岩を飛び越え、暗闇に覆われた森を一直線に進む。
木々の切れ間へ飛び出した瞬間、私は足を止めた。
「……ちっ」
そこには巨大な影が蠢いていた。
月明かりの届かない森の奥で、とぐろを巻くように身をくねらせている。
木の幹ほどもある長大な胴体。それを覆う黒緑色の鱗。そして獲物を探すように揺れる金色の瞳。
黝蛇。蛇型の魔獣だった。
暴れ始めると、操作系の魔法で地震のように地面がうねり、手が付けられなくなる。
その上、無駄にデカくて速い。厄介なやつだ。
私は周囲を見回す。空色の毛並みは見えない。
ニコラがいるのか。もう逃げた後なのか。
それともさっきの轟音とともに腹の中に入れられたか。
「まずいな」
黝蛇も、こちらへ気付いている。気配を消す余裕もなく駆けつけたせいだ。
巨大な頭がゆっくり持ち上げると、蛇特有の縦長の瞳孔が私を捉える。
間合いに空気が張り詰める。先に動くしかない。
私は深く息を吸った。体内の魔力を解放する。
ぞわり、と全身の毛が逆立った。筋肉へ力が流れ込んで、感覚が研ぎ澄まされる。爪が立って地面にめり込んでいく。
「悪いが」
私は前脚を構える。
「今は急いでるんだ」
地面を蹴った。視界が流れる。
黝蛇が反応するより速く、懐へ潜り込む。このスピードがあればただのデカい的だ。地面の操作魔法も私を捕らえられない。
そして長い腹部へ狙いを定めて、前脚を上に振り抜く。
「猫パンチ!」
黝蛇の巨体が大きく歪み、そのまま上へ吹き飛んだ。
鱗は硬いが関係ない。
何本もの木々をなぎ倒しながら転がっていき、そのまま動かなくなった。
先ほどよりも大きく地面が揺れ、それが収まると森に静寂が戻った。
息を吐きながら、私は周囲を見回す。
「ニコラ!」
返事はない。
黝蛇が獲物もいないのに暴れ出すとは考えずらい。何かいたはずだ。
すると少し離れた岩の隙間に空色の毛玉らしきものがみえた。
私は慌てて駆け寄った。
そこにいたのは小さく丸まったニコラ猫だった。
隙間で身体を縮こませ、耳を伏せている。
どうやら黝蛇に追われて、ここへ逃げ込んだらしい。
こんな経験はないだろうに、賢明な判断だ。
「……無事か」
声を掛ける。ニコラ猫は小さく身を竦ませた。
それから怯えた顔を上げる。
「にゃ……?」
「その」
気まずかった。
正直、己の非を認めるのは得意じゃない。
私は渋々という体で、一歩ずつ近付いていく。
言葉が続かない。しばらく唸るような沈黙が続く。
だが丸っこい毛玉に見つめられ、私は観念した。
「悪かった」
小さく呟く。
「少しやり過ぎた」
ニコラはしばらく瞬きを繰り返していた。
理解しているのか分からない。
だが、やがて恐る恐る立ち上がる。
そしてゆっくり近付いてきた。
「……にゃ」
小さく鳴く。
次の瞬間、額が私の肩へこつりと触れた。
身体を擦り寄せる。いつもと同じ甘えるときの仕草だった。
私はしばらく動かなかった。
やがて小さく息を吐く。言葉が通じないのは不便だが、どうやら許されたらしい。
私はもとの姿に戻りつつ、緊張の糸を解くように、大きく息を吐いた。
しばらくすると、森の奥から枝を踏み分ける音が近付いてくる。
「タズ!」
聞き慣れた声だった。
木々の間からメルが姿を現す。
どうやら急いで来たらしい。肩で息をしていた。
「こっちから凄い音が聞こえたから、来てみたけど」
私は呆れたように鼻を鳴らす。
「遅いぞ」
足元ではニコラ猫がメルの姿を見つけ、嬉しそうに尻尾を立てている。
その様子を見て、メルはほっとしたように表情を緩めた。
「ニコにゃんも無事で良かったわ」
「にゃあ」
ニコラが返事をする。
「それじゃあ、急ぎましょう」
メルは先ほどまでの穏やかな表情を引っ込めると、小さくしゃがみ込んだ。
「これ以上は良くない気がするわ」
ニコラは首を傾げる。
状況を理解しているのか、していないのか。
だがメルが差し出した薬瓶には興味を示した。
瓶の中では銀色の液体が月光を反射して揺れている。
「今度は大丈夫よ」
その言葉にどれほど信頼性があるのかは分からない。とはいえ他に選択肢もない。
メルは薬瓶の蓋を開けて、ニコラの口元に近づけていく。
ニコラもそれを感じ取ったのか、鼻をひくひくと動かしている。
「ニコラ」
メルは優しく呼び掛けた。
猫の姿のまま、ニコラはじっと薬を見つめる。
小さな耳がぴくりと揺れた。猫の姿のままではあるが、表情には不安が滲んでいる。
私は知らず知らずのうちに息を止めていた。
「にゃ」
ニコラは首を傾けて、薬を飲み干した。
次の瞬間。
淡い光がニコラ猫の身体を包み込んだ。
白銀の粒子が舞い上がり、小さな猫の輪郭がゆっくり変化していく。
伸びる手足。戻る体格。消えていく毛並み。影がどんどん伸びて変化していく。
やがて光が収まると、そこには見慣れた少女が立っていた。
いつも通りのニコラだ。
本人も自分の手を見つめ、何度も握ったり開いたりしている。
「戻った……!」
どこにも異常はないらしい。
その様子に私も少しだけ安堵した。
「良かったな」
「はい! 師匠も、ありがとうございました」
「いえいえ、無事でよかったわ」
元はといえば、その阿呆師匠が蒔いた種なのだから、礼を言う必要はないのだがな。
ここで口を挟む必要はない。ひとまず解決してよかった。
そう思ったのだが、私の方を見たニコラの表情が固まる。
「……あ」
何かを思い出したらしい。
「どうした?」
「えっと……」
ニコラの顔がじわじわ赤くなる。耳まで真っ赤だった。
「まさか」
その様子を見て、私は嫌な予感を覚えた。
何となくだったが、考えないようにしていたことだ。
ニコラは震える声で、呟いた、
「記憶が、残ってます……」
「え、どういうこと?」
メルが首を傾げる。
「猫になってしまった後の記憶が、残っていまして」
「全部か?」
「……はい、全部です」
終わった。私は天を見上げた。
今日一日の出来事が脳裏を駆け巡る。
ニコラ猫が私の後をついて回ったこと。身体を擦り寄せてきたこと。勝手に隣で寝ていたこと。そして毛繕いまでも。
「でも猫っぽい動きをしてたじゃない」
「あ、あれは私の意思じゃないですけど、記憶だけあるんですって」
そんなことあるのか?
いや、しかし信じるしかない。あの赤面顔が物語っている。
猫としてのじゃれ合いだったからギリギリ許容したが、ニコラの記憶に残っているのであれば、大問題だ。
「ふざけるなよ、恥ずかしい!」
思わず叫んだ。
ニコラは顔を覆う。
「だ、だって覚えてるんです!」
「忘れろ! 気色悪いだろ!」
「無理です!」
悲鳴みたいな応酬だった。
ニコラが恐る恐るこちらを見る。
私が頭を抱えた。顔が熱い。
姿形も言動も猫だったから許せていたが、あの頃の記憶が残っていたとなれば、添い寝も毛繕いも思い出したくもない。
2人して視線を逸らす。
気まずい。ものすごく気まずい。
そんな私たちを見ながら、メルだけが「ふふっ」と微笑んでいた。
「お前のせいだからな!」
「し、師匠。少しだけ記憶を消すポーションはありませんか?」
ニコラがすがるように尋ねる。
「あるわよ。この前作ったから、よかったら」
「おい、ニコラ! 懲りろよ。絶対に全部の記憶がなくなるからな」
「ちょっと、タズ! 失礼ね」
「じ、じゃあタズさんで試しましょうよ」
「ふざけるなよ。ニコラ!」
「だって、気色悪いって言ったじゃないですか。サイテーですよ」
「まぁまぁ、二人とも。とりあえず少量で試してみましょう」
「だから嫌だって!」
私たち3人の言い争いは、しばらくの間、静かな森に響き渡った。




