22話 自我
窓から差し込む淡い朝日で、私はゆっくりと目を覚ました。
窓の外には静かな朝の空気が満ちている。押し付けられたとはいえ、クッションの上で目覚める朝も悪くない。
いつものように欠伸をひとつ。問題は解決していないが、それでも朝は新鮮で艶やかだ。
そして寝転んだまま身体を伸ばそうとして、違和感に気付いた。
近い。何かが近い。ゾクリと気配を感じる。
嫌な予感を覚えながら視線を下ろす。
「……」
そこには水色の毛玉、正確には猫になったニコラの姿があった。いつの間にか私のクッションへ侵入し、ぴったり身体を寄せて丸くなっている。
「おい」
私がシャボン玉に触れるような声を掛けると、ニコラ猫は嬉しそうに耳を立てた。
「にゃっ」
そしてさも当然のように擦り寄ってくる。
頬をぐりぐり。喉を鳴らしながらぐりぐり。
「やっ、やめろ」
私は反射的に飛び退いた。
背筋にぞわりと寒気が走る。何だそのニコラらしからぬ行動は。
昨日まで猫になったことに戸惑っていたはずなのに、その片鱗がまったく感じられなかった。
「にゃあ?」
ニコラ猫は不思議そうに首を傾げる。
その仕草まで、愛想を振り撒く子猫そのものだ。
私が呆気に取られて立ちすくんでいると、ニコラ猫が再び近寄ってくる。
そして、ぺろと舌を出して、私の毛に触れる。
「ひっ」
思わず変な声が出た。舌を頭側から、尻尾の方へ、丁寧に舐められ毛繕いされた。
猫同士ではただのコミュニケーションであり、挨拶のようなものかも知れないが、ニコラにやられるなんて気味が悪いだけだ。
「やめろ! やめろって!」
私は慌てて距離をとり、逃げる。だがニコラ猫は悪びれない。
声をかけてダメなら、距離を取るしかない。不本意ながら、クッションの上から飛び降りて逃げる。しかしニコラ猫は楽しそうに追いかけてくる。
ぺろ。ぺろ。
「おい、ニコラ!」
「にゃー」
全く伝わらない。人間だった頃の羞恥心も遠慮もない。ただ自然に猫として振る舞っている。
「……おい、ニコラ」
私は怖くなって、小さく呟く。
当の本人はそんな不安など知らず、楽しそうに迫ってくる。
私がニコラ猫から逃げ回っていると、寝室の扉がきぃ、と音を立てて開いた。
寝癖のついた銀髪を揺らしながら、メルが欠伸混じりに姿を現す。
どうやら今起きたらしい。
窓から差し込む朝日を眩しそうに細め、それから部屋の様子を見回した。
そして走り回るニコラ猫と、必死に避けている私を見て、ぱちりと瞬きをする。
「あら」
数秒の沈黙。
それから、実にのんびりとした声で言った。
「おはよう。2人とも、仲良しね」
その一言で、私の中の何かが切れた。
「そんなわけあるか!」
思わず怒鳴る。ニコラ猫は驚いて耳を伏せた。
だが私は構わずメルを睨みつけた。
「見て分からないのか!? こいつの様子が変なんだ!」
「変?」
メルは首を傾げる。
まるで本気で分かっていないような顔だった。
「朝から様子が猫っぽいんだよ」
言った瞬間にも、ニコラ猫が私の脚へ身体を擦り寄せてきた。
私は慌てて飛び退く。
「ほら見ろ!」
「にゃあ」とニコラ猫は不思議そうに首を傾げている。
メルはそんな様子を眺めながら、ふむ、と小さく頷く。
「たしかに少し猫らしくなってるわね」
「あぁ、昨日まではもっと人間としての自我が残っていたぞ」
少なくとも、こちらの話を理解していたし、猫になって戸惑っていた様子だった。
だが今は違う。
私の尻尾を見れば追いかけるし、隣にいれば身体を寄せてくる。話しかけても、応えてくれない。
マタタビを与えたら牙を向けて食いつくだろうし、毛糸玉でも転がしたら爪を出して飛びつくだろう。
「このままだと、こいつ本当に猫になるんじゃないか?」
私は低い声で言った。
「それはまずいわねえ」
メルは顎に指を当てながら頷いた。その口調には欠片ほども危機感が感じられない。
まるで「今日は雨が降りそうね」くらいの気軽さだった。
私は深々とため息を吐く。
「お前な……」
原因を作った本人が一番呑気なのだから救いがない。
その間もニコラ猫はそんな私の足へ頭を擦り付けている。
やめろ。今はそれどころじゃない。
「とにかく、すぐに人間に戻すポーションを作ってくれ」
「可愛いのにねえ。分かったわ」
メルは少し渋りながら頷いた。迷う余地があるのが恐ろしい。
「じゃあ、タズはニコラのお世話をお願いね?」
「は? なぜだ?」
「研究室に入ってくると危ないから」
もっともらしい理由だった。
研究室の床には薬品が転がり、机には試作途中の魔道具が山積みになっている。
猫となってしまったニコラが入り込めば何をしでかすか分からない。
危険なのは目に見えている。
「くっ、分かったよ」
私の返事に、メルはにっこり微笑む。その笑顔が妙に腹立たしい。
そして何事もなかったように研究室へ向かう。
私はその背中を刺すように睨みつける。だが当然、振り返りはしない。
代わりに足元から「にゃー」と呑気な声が聞こえた。
視線を落とす。ニコラ猫は澄んだ目でこちらを見上げていた。私はため息を吐くしかなかった。
それから時間だけが過ぎていった。
窓から差し込んでいた朝の光はいつの間にか角度を変え、昼を越え、夕暮れの色へと移ろいつつある。
だが、研究室の扉は閉じられたまま。
どうやら研究は難航しているらしい。
メルは朝から一度も姿を見せていなかった。
昼食すら食べに出てこない。
中から聞こえるのは、紙をめくる音やガラス器具の触れ合う微かな音。
ときおり扉の隙間から、不穏な光が漏れ出してくる。緑だったり。紫だったり。とにかく不穏な色だ。そのたびに部屋の中からぼふん、と空気が押し出されるような鈍い音が響く。
いつもなら窓際のクッションへ身体を沈め、聞こえないふりを決め込むが、今日はそうはいかない。
私が窓際のクッションへ移動すると、当然のようにニコラがついてくる。
私が食器棚の上に移動しても、やはりついてくる。
そして毛繕いやら、添い寝やらをする。まったくもって暑苦しい。
「……おい」
「にゃ」
悪態をついても、返事は軽やかだ。
さらにそのまま尻尾を私の尻尾へ絡ませようとしてくる。
私は即座に距離を取る。だが意味はない。少しするとまた寄ってくる。
そして満足そうに喉を鳴らし始めるのだ。
人間だった頃のお前はどこへいった?
私になす術はなく、ただニコラ猫の満足がいくまで身を寄せるしかなかった。
猫という生き物は群れない。そう思っていた。
だが複数で暮らす場合には、独特の距離感があるらしい。
私は1匹でいる時間がほとんどなかった。
「にゃー」
また寄ってきた。
添い寝で寝静まったところを抜け出しても、すぐにこれだ。
この家で隠れられるのは、リビングとキッチン、後は寝室くらいのものだ。かくれんぼはすぐに終わる。ニコラ猫は私を見失っても、すぐに探しにくる。
「やめろ」
またしても飛びついてきたニコラを、私は反射的に迎え撃ってしまった。
振るった前脚がニコラ猫の鼻のあたりに当たる。
もちろん手加減したつもりだったが、じゃれ合いとしては、かなり強く当たってしまった。
ぱしん。
乾いた音が響く。
「にゃっ……!」
ニコラ猫は目を丸くした。
耳が伏せられ、髭が悄げる。信じられないというような顔だった。
私はしまったと思ったが、今さら遅い。
ニコラはそのまま距離を取り、部屋の隅へ逃げていった。




