21話 食事あるいは餌
その後、研究室では慌ただしい時間が続いた。
もっとも、慌ただしいのは主に私だけだったが。
「にゃー!」
「大丈夫大丈夫」
「にゃあっ!」
「うんうん」
「にゃーーーーっ!」
「あぁ、そうだな」
私たちの言葉はニコラに伝わる。反対にメルはもちろん私もニコラの発する猫語は解らなかった。
ニコラは必死に何かを訴えているのだろうが、会話にはならない。ボディランゲージで何とか意思の疎通を行うしかなかった。
不便極まりないし、ニコラの動きも猫になりたてでぎこちないから半分くらい分からないままだ。
ただ一つだけ確かなことは、ニコラ本人はかなり焦っているようだった。
そりゃそうだ。風邪薬を飲んだら、いきなり猫になったのだから。
「で、戻せるんだろうな?」
私はニコラの相手をしながら研究机で作業をするメルに尋ねる。
メルは分厚い魔導書をめくりつつ、小さく頷いた。
「うーん。あの薬を作ったときに、元に戻す想定をしてなかったですからねえ」
「何でだよ」
考えるだろ、普通は。
メルは棚から資料を引っ張り出し、薬品の配合記録を確認し始める。
机の上には何冊ものノートが積み上がり、床には羊皮紙が散乱していた。
いつも以上に酷い有様である。
「猫化ポーションと風邪薬を間違えたのは確実ね」
「そんなことは私にもわかる」
戻れる見込みの薄さにニコラがしょんぼりと耳を伏せた。
もしかしたら一生このままかもしれないという悪夢さえ過ぎった。
「量からして、そんなに効力は続かないと思うのだけど」
「時間が経てば元に戻るのか?」
「だと思うけど、使ったことないから分からないわ。まずはその素材を調べないとね」
「いい加減だな」
その後もメルは遅くまで研究を続けた。
資料を漁り、薬品を調べ、何度か試作品まで作っていたが、そのたびに首を傾げている。
どうやら一筋縄ではいかないらしい。
窓の外がすっかり暗くなった頃。ついにメルは本を閉じた。
「駄目ね、一日じゃ解決しないわ」
あっさりした結論だった。
ニコラは絶望したように、尻尾をはたりと伏せる。
「にゃ……」
今にも泣きそうな声である。メルはそんなニコラ猫をそっと抱き上げた。
「大丈夫よ」
柔らかい声だった。
「数日以内には戻せると思うわ。原因となった素材は突き止めたから」
まるで一つの問題が解決したと言わんばかりの口調だった。
「原因はお前だよ」
私は低く返す。
素材は問題ではない。
薬瓶を取り違えた張本人の話だ。
ジロリと視線を突き刺すが、非難と呆れを込めたそれを、メルは柔らかな笑みとともに受け流した。
「まあまあ、そんなことより、もう遅いですから、ご飯にしましょうか」
メルはいつもの調子でそう言った。
弟子な猫になった状況をそんなことで片付けるなよ。よく平常運転を維持できるものだ。
メルがしばらくキッチンに立ったあと、食卓には豪華な食事が並んだ。
ただし、猫用の、である。
床に置かれた小皿の上には、湯気を立てる温かなスープと、魚を練って固めた団子、それから森で採れた木の実を煮込んだ素朴な料理が並んでいた。
質素だが、漂う香りはなかなかのものだ。
問題は、それを前にしているのが猫になったニコラだということだった。
「お前は順応しすぎだよ」
さっきまで人間だった弟子に向けて、よくも躊躇いなく、猫用の食事を作れるな。
ニコラは複雑そうに耳を伏せた。
人間としての尊厳も何もあったものではない。
「うまく食べられるかしら」
メルが微笑ましそうに呟く。こいつはサイコパスなのだろうか。
主人ながら、こういうところが毛が逆立つほど恐ろしい。
当のニコラは、小皿の前で固まっていた。
しばらく葛藤した末、おずおずと顔を近づける。
「にゃー……」
そして意を決したように舌を伸ばした。
ぺろり。温かなスープの表面が小さく揺れる。舌を引っ込めると、顔の周りにスープが付いて、それをまた舐める。
その仕草は完全に猫だった。
だが本人にとっておいそれと受け入れられないのだろう。耳がぺたりと伏せられ、表情には言いようのない複雑さが滲んでいた。
その姿を見ながら、私は何とも言えない気分になった。かなり堪えていることが伝わってきた。
それでもなんとか食事を終えると、外はすっかり夜になっていた。
本来ならばニコラはもう帰っている時間だが、今日は帰すわけにはいかない。
魔法も使えないし、このまま時間が経っても人間に戻る保証もない。
「じゃあニコラは私の寝室を使って」
メルが当然のように言った。
「にゃ?」
私はゆっくりと顔を上げた。
「……待て」
「なぁに?」
「お前の寝室を使うなら、私はどこで寝るんだ」
メルはきょとんとする。数秒考えたあと。
「窓際のクッションでいいんじゃない?」
言いやがったな。
「たまにあそこで寝てるでしょう?」
「それは私が好きなタイミングで寝てるだけだ」
重要なのは選択権である。
ベッドを追い出されたのとは話が違う。
「にゃあ」
ニコラの猫まで申し訳なさそうに鳴いた。
すると文句も言いづらい。病人相手に寝床を争うほど、私は狭量ではないのだ。
「はぁ……」
私は大きくため息を吐いた。
気付けば流されるまま話が進んでいるが、仕方ない。私は諦めて窓際のクッションへ飛び乗る。
「今日だけだからな」
外に見える夜空には、雲の切れ間から月が覗いていた。
寝る場所そのものに、不満があるわけじゃない。
不満なのは状況だけだ。
「……明日には戻ってろよ」
ぼそりと呟く。
寝室の方から「にゃあ」という小さな返事が聞こえた気がした。
頼りない返事だ。まぁ本人にはどうしようもないから仕方ない。
そして私は目を閉じる。
今日一日の出来事を思い返すのも馬鹿らしくなりながら。




