19話 川喰らいの討伐
「ただいま〜」
腑抜けた声とともに扉が開き、メルが帰ってきた。
左手には杖、そして右手には大きな木製の桶を抱えている。中に入っているのは裏の川で汲んできた生活用水だ。
私の家で使う水は、森の外れを流れる川から汲んでいる。軒先で雨水を溜めているが、それだけでは心許ない。
飲み水、料理、薬品の調合。魔術実験にも使うため、水はいくらあっても困らない。
森の中を15分ほど歩いた先。岩場の合間を縫うように流れる、小さな清流。
そこを行き来するのが、ここに住むうえで日課となっている。
「……なんだか今日は川の水量が少なかったわ」
メルが水を掬った桶を覗き込んで、不思議そうに首を傾げていた。
「雨も減っているからな」
私は片目を開いて呟く。
秋の終わりから冬前にかけて、この辺りは雨が減る。川が痩せるのは、よくあることだ。大したことではない。
しかしメルは少し考え込むように唇へ指を当てる。何か思うところがあるらしい。
「それにしたって、この減り方は不自然だわ」
「何か異変が起こっているのか?」
「そうね。いつもの川幅に水の跡が残っていたから、急激に減ったんだわ。どこかで止められているかもしれない。調べなきゃ」
メルはそういうと、研究室に引っ込み、奇妙な黄緑色をしたポーションを持って戻ってくる。
それを桶の中に一雫入れると、張っている水面に杖を当てる。
ふわりと前髪が浮いたのと同時に、水玉が空中に浮かんでくる。
メルはその水玉に魔法を念じると、淡い紫色の光を放つ。
「……魔力の跡がある」
じっと眉を寄せたメルは、慎重に口を開いた。
「面倒なやつか?」
「ええ。おそらくね」
その顔は真剣ながらも、どこか楽しそうな表情に見えた。
こういうときは碌なことにならない。
まぁいつものことだ。
するとメルは研究室に向かうと、体が隠れるほどの魔導書を抱えてきて、リビングのテーブルに積み上げる。
それから杖を当てて、パラパラとページを進めていく。まるで風が本を読んでいるかのようなスピードだ。果たしてあれで、目を通しているのだろうか。
私の疑問をよそに、メルは3冊目の真ん中あたりで、ページを止める。
「あぁ、たぶんだけど、上流に沱尾碼が居着いたのね」
「……あぁん?」
聞き慣れない名前に、私は耳を傾けた。
するとメルは古い挿絵の載ったページを、私の方に向けてくる。
そこには巨大な蛇のような生き物が描かれている。異様に長い胴体。岩のような鱗。
そして尾の周囲には、渦を巻く水流。
「水脈に棲み着く魔獣よ。大きな川や地下水路を縄張りにするの」
「それが川を堰き止めてるのか」
「そう。川喰らいなんて、言われているわね」
メルはページをめくりながら続ける。
「沱尾碼は自分の巣を作るために川の流れを変える習性があるの。放っておくと周辺の水脈まで歪む」
「……つまり?」
「このままだと、水不足になる」
それだけでは終わらないわ、とメルは静かに付け加えた。
「流れを塞がれ続ければ、いずれ上流側で水が溢れるわ。最悪、一帯の森ごと氾濫するかもしれない」
「うわ、迷惑極まりないな」
「でしょう?」
メルはぱたりと本を閉じた。こちらを向いた顔はすでにやる気に満ち溢れている。
「というわけで、討伐しに行きましょう」
「嫌だが?」
「行きましょう」
「断る」
メルが私を連れて行くのは、魔力探知が苦手で魔獣を探すのが困難だからだ。
しかし今回は違う。沱尾碼とやらは川上にいることがわかっている。つまり川を辿れば確実に見つけられるのだ。
私が一緒に行く必要などまったくない。
「私1人だと、苦戦するかもしれないし」
「嘘つけ」
私は牙を剥いて、吐き捨てる。
そんな化け物いてたまるか。
「こういうのは弟子を使え」
「そんなすぐには呼べないでしょう」
「まったく肝心なときに使えないな」
メルは私の悪態など気にする様子もなく微笑む。
「ほら、タズが一緒なら安心だもの」
「その言い方ずるいんだよな、お前」
結局、何を言っても敵いはしない。私はいつものように、面倒事へ付き合わされる羽目になるのだった。
森の空気は冷たく、地面は湿っていた。
魔獣も森も、冬に向けて、着々と準備を進めているのだ。沱尾碼の巣作りもその一環らしい。
川のせせらぎも、下流で聞いた時よりどこか重たい音に変わっていた。
メルは周囲を警戒しながら、ゆっくり歩を進める。
「思ったより荒れてるわね……」
視線の先。
そこには、不自然に倒れた木々があった。根元からへし折られた大木。抉り返された地面。川岸の岩も、何か巨大なものに削られたみたいに砕けている。
しかも、それが一箇所ではない。
川沿いに点々と続いていた。
「……通っただけでこれか?」
「ええ」
メルはしゃがみ込み、崩れた土へ触れる。
「沱尾碼は大きいだけの魔獣じゃないの。周囲の土砂や水脈を操って、川そのものを作り変える習性があるわ」
「迷惑過ぎるな」
「そのうえ縄張り意識が強い生き物だからねぇ」
彼女は崩れた川岸を見上げ、小さく眉を寄せた。
「下手に力任せで戦うと、甚大な被害になるわ」
「つまり慎重にやる必要があるってことか」
「ええ、一応対策は考えているけど、上手くいくかどうか……」
珍しくメルの声音にははっきりした警戒が混じっていた。
ただでさえ川沿いは足場が不安定だ。そこへ土砂崩れでも起きれば、一気に周囲が崩壊する恐れがある。
私はぬかるんだ地面へ視線を落とす。嫌な場所だ。湿気も多いし、足も汚れる。
あぁー、めんどくさい。
「やっぱり帰っていいか?」
「駄目でーす」
私はため息を吐きながら、再び川上へ目を向ける。
その時だった。
鼻先を、妙な臭いが掠める。
「……ん?」
私は足を止めた。メルが振り返る。
「どうしたの?」
「臭う」
「臭う?」
私は川辺へ近づき、水面を睨む。
濁った流れ。その奥から、鉄錆みたいな生臭さが漂っていた。普通の泥水とは違う。
もっと重く、粘つく臭い。
「近いぞ」
私は低く呟く。
「おそらく土の中に潜ってる」
「……もう縄張りに足を踏み入れてしまったようね」
空気が変わった。森が妙に静かだった。
風も、鳥の声も止んでいる。まるでこの一帯だけが、息を潜めているみたいだった。
メルもすぐに杖へ手を添える。
ぴくり、と反射的に耳が動いた。
咄嗟に力を解放して、後方へと跳ぶ。
「避けろっ!」
私の声と同時に、メルは浮遊魔法を使って飛ぶ。
その直後に、地面が盛上がり巨大な岩のようなものが姿を現した。
次の瞬間。轟音。川そのものが暴れたような。
「っ!?」
濁流が壁みたいに持ち上がり、こちらへ叩きつけられる。岩ごと押し流す勢いだった。
私は地面から出てきたソイツの影にすっぽりと覆われる。
「……でかいな」
思わず声が漏れる。
沱尾碼。
その巨体は、もはや蛇というより岩山だった。
黒灰色の鱗は濡れた岩肌みたいに鈍く光り、長い胴体がとぐろを巻いて、川を何重にも塞いでいる。その隙間を縫うようにして、水が辛うじて流れていた。
周囲には削られた土砂と折れた木々。ここ一帯そのものが、奴の巣になっているらしい。
爬虫類特有の何を考えているのか判らない鋭く黄色の眼光は、じとっと私を捕らえていた。
いくら力を解放したとはいえ、下手に動いたら、噛み付かれる。
私は身構えたまま、沱尾碼の方を睨み返し、姿勢を低くする。
すると不意に上空から声が降りかかる。
「タズ、そのまま引き付けて!」
「無茶言うなよ」
私が悪態を吐いた瞬間、沱尾碼の頭部が視界を支配する。
「うおッ!?」
私はまたそれを回避すると、視界に映らないよう、背後へと回り込む。
しかしそれがいけなかった。沱尾碼が大きく身体を起こすと、川の流れそのものが意思を持ったみたいに暴れ狂う。
岩が砕け、木々が薙ぎ倒されていく。
「このっ、面倒な……!」
私は飛び散る水を避けながら、崖側へ駆けた。
氾濫する川は泥や岩を含み、混濁としている。沱尾碼の鱗と見分けがつかなくなって、まさに川の化身のような様相だった。
濁流の中に紛れて、黄色い瞳がこちらを捉える。
また向かってくる…!
しかし直後、巨体が唸りを上げた。
「氷牢河!」
青白い魔法陣が川面へ広がった。
すると暴れ狂っていた水流が、一気に凍りつく。濁流ごと、巨大な氷塊へ変わったのだ。
川に浸かっていた沱尾碼の動きが止まる。巨体の半分が氷に呑まれ、岩場へ縫い止められていた。
これがメルが言っていた対策か。川の動きさえ止めれば、氾濫はしない。
相変わらず無茶苦茶な質量だ。
だが、完全には止まらない。
氷に縫い止められたまま、沱尾碼の巨体が激しくのたうつ。
岩場が震え、嵐みたいに吹き荒れた。
「タズ!」
「分かってる!」
私は足元の岩を蹴り上げ、その勢いのまま一気に跳躍した。
視界が一瞬で開ける。眼前には、暴れ狂う沱尾碼の顔面。
「うっ、らぁッ!」
渾身の猫パンチを叩き込む。
もう一発。今度は爪を立たせてやる。衝撃が鱗を震わせ、巨獣の頭部が大きく揺れた。
黄色い瞳がぎょろりとこちらを向く。
「ほら来い、でかぶつ!」
次の瞬間、濁流が槍みたいな勢いで一直線に襲いかかってきた。
「うおっ!?」
私は空中で身体を捻り、近くの岩場へ飛び移る。
直後、背後で轟音が炸裂した。沱尾碼の鱗が岩壁へ叩きつけられ、巨大な岩盤が粉々に吹き飛ぶ。
「もう少し囮お願いねー!」
「言い方が軽いんだよ、お前は!」
私は迫り来る濁流を避けながら、岩場を次々と飛び移る。
沱尾碼が暴れるたび、川そのものが牙を剥いてくるようだった。
飛び掛かってくる沱尾碼が岩壁を削り砕いて、大木をまとめてへし折った。
崩れた岩場の中央で、上空を見上げると、杖を掲げたメルを中心に、魔力が渦を巻いている。
風が唸り、周囲の砕けた巨岩がゆっくりと浮かび上がった。
「岩傴宙」
低い詠唱。
すると浮遊した巨岩が、雪崩みたいな轟音とともに落下した。
逃げ場を塞ぐように。谷そのものを埋め尽くすように。
巨岩が次々と沱尾碼へ叩きつけられる。
岩盤が砕け、濁流が爆ぜた。沱尾碼が絶叫する。
だが、まだ倒れない。
「これで終わりよ」
メルが静かに杖を振り下ろした。
空中で停止していた最後の巨岩が、ゆっくりと傾く。
それは、まるで処刑杭だった。鋭く尖った岩塊が、一直線に落下する。
巨岩は沱尾碼の頭部へ突き刺さり、分厚い鱗ごと貫いた。
谷全体が揺れる。凄まじい衝撃音が山々へ反響し、遅れて土煙が噴き上がった。
しばらくして暴れていた濁流が、ゆっくり静まり返っていく。
残ったのは、崩壊した岩場と、杭みたいに縫い止められた巨大な沱尾碼だった。
崩れた岩場の上で、私は大きくため息を吐いた。
「……まったく、とんでもない目に遭った」
私は濡れた毛並みを乱暴に払う。泥だらけだ。最悪である。
「大丈夫よ、タズは素早いもの」
「雑な信頼を向けるな」
メルはくすくす笑いながら、崩れた岩にもたれかかる。その様子は、ついさっき巨大魔獣を仕留めた直後とは思えないほど呑気だった。
「でも、ちゃんと上手くいったでしょう?」
メルの言葉に、私は周囲を見渡す。
するとメルの狙いがようやく分かった。
川を塞いでいたはずの沱尾碼が、河岸に打ち上げられていた。
しかもメルが放った魔法によって、岩石が川の地形を作り、より強固な流れとなっている。
堰き止められていた流れは、もう元に戻り始めていた。濁っていた水も少しずつ澄み始めている。
なるほど、わざわざ時間をかけているかと思ったら、面倒なことをしたものだ。
「ふん、結果論だ。あやうく私も岩壁ごと吹き飛んでたぞ」
私は声を荒げる。
だがメルはどこ吹く風だ。
さらさらと川の流れを見つめながら、小さく笑う。
「まぁまぁ」
「まぁまぁで済ませるな」
「ほら、川も戻ったし」
「……ったく」
私は小さく鼻を鳴らした。
「次は絶対来ないからな」
「そう言って、いつも来てくれるじゃない」
「お前が無理やり連れてくんだろうが」
「ふふ」
メルは楽しそうに笑う。
「帰りましょうか、今日のご飯はちゃんと豪華にするわ」
「最初からそう言え」
私は尻尾を揺らしながら歩き出す。
後ろでは、川が静かに流れていた。森へ、水の音が戻っていく。
まるで何事もなかったみたいに。




