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13話 霆鳥の雛

 窓辺のクッションは午後の光をたっぷり吸い込み、ほどよく温かい。

 そこに寝転ぶと、私自身もまるで陽の光になったかのようにふんわりと包まれる。

 クッションの外側から一本の糸がほつれて、間抜けに飛び出している様子が目の端に映る。

 私が伸ばした脚で軽く弾くと、糸はふわふわと不規則に揺れ、やがて元の位置に戻った。

 それがたまらない。私は真新しいものよりも、こうした使い古されたものを好む。ただの愛着ではない。ボロい方が気を引くものが多いのだ。

 一度、メルがクッションを新調しようとしたことがあったが、必死に止めた。まったく魔女には風情というものがない。

 しばらく私はクッションのほつれと向き合っていた。

 これが今日の仕事になるといってもいいだろう。これで糸が元の位置に戻らないようなことがあれば、一大事だ。


 私が仕事に本腰を入れるために、姿勢を正した、そのときだった。

 カンと軽い音がした。窓ガラスに何かが当たったらしい。続いて蝶番がずれるような、金属が擦れる低い音が混じる。

 葉っぱにしては重く、小石にしては鈍い。重さがありながら、どこか柔らかさを含んだ物体のように思えた。

 私は息を止めるほどでもなく、しかし自然と身を固くして片耳だけを動かした。ほぼ同じタイミングで目を向けると、外の光に溶けかけた影が一つ、地面に落ちていったように見えた。

 糸のほつれに気を取られていた時間が、急に遠くなった。

 警戒を強める。敵襲ではない。そんな気配があれば、ここまで近寄らせない。

 何らかのトラブルだろう。私の仕事の邪魔をするとはいい度胸だ。

 私はゆっくりと立ち上がり、窓に近づいていった。

「今の、聞こえた?」

 背後では魔導書を読んでいたメルも動きを止めて、こちらの様子を見ていた。

 杖を下ろし、眉がわずかに寄っている。

「聞こえたとも。特に危ないものではないだろう」

 私はヒゲを揺らして意識を向けながら、窓枠に前足をかけて外を覗いた。


 庭の芝生は朝露に光り、空気はまだ冷たかった。そしてその上に小さな影を見つけた。影は丸く、黄金色の毛玉のように見えるが、よく観察してみると、それが生き物であることがはっきりした。

 毛は柔らかく光を受けて淡く揺れ、若草の緑に対してまるで小さな太陽が落ちてきたかのように目立っている。そこから細く頼りない脚が伸びている。

 それから人間の爪ほどの小さなくちばしが震えていた。瞳は瞑っているのか、毛で覆われているからか、よく確認ができない。

 翼が生えているのに、その向きは不自然で、本来あり得ない角度で折れ曲がっている。折れた箇所からは赤い線が草に垂れ、鉄の匂いが混じった。

 思わず息を呑んで膝をつくと、小さな生き物は私の気配に目を細め、かすかな鳴き声を漏らした。

 声は砂利を噛むようにかすれていて、風前の灯のようだった。

 先ほどの音は、こいつが空から落ちてきて窓にぶつかった音だったのだろう。

 窓ガラスに残る小さな傷と、庭に散った羽毛の欠片が、残っている。


「タズ?」

 後ろから、メルの足音。

 彼女もしゃがみ込み、金色の小鳥を見て息を呑んだ。

「……傷ついてるわね」

「まだ生きてる。だが長くはもたん」

 小鳥は、かすかに鳴いた。

 助けを求めるというより、ただ生きている証のような声だった。

「何だこいつは。ヒヨコか?」

「家畜はこんな森にはいないわよ。それに光り輝いているわ」

 メルは一瞬、目を伏せる。

「この子は、霆鳥(アルフェリス)の雛ね」

 その声は低く、確信を含んでいた。

 メルは窓から身を乗り出して、その雛を掬い上げると、すっと目を細める。私もその指先に視線を寄せると、羽毛の根元にまだ柔らかな綿毛が残っているのがわかった。

「あぁ、雷雲を巣にする変なやつか」

 メルの口元に苦笑が浮かぶ。

 古い民話にも出てくる、空を住処にする鳥。大きな個体は雷を呼び、巣はいつも黒い雲の縁にぶら下がっているという。大人の羽は金色に輝き、導電性を帯びているため、魔法の研究者や工匠が珍重する素材になるらしい。

 だが、こんな雛じゃ意味はないな。まだ綿毛ばかりで、導電性のある羽根は生えていない。

 私はメルの手の中にいる雛の胸元に耳を向けて、かすかな鼓動を確かめた。鼓動は弱く、呼吸は浅い。

「空で襲われたのか?」

霆鳥(アルフェリス)はね、普通の鳥とは生態が違う。成鳥は雷雲の縁に巣を作るから外敵を寄せ付けない。雛は嵐の季節に合わせて孵る。だから雛が襲われることは滅多にないはずなの」

 私はその説明を聞きながら、庭の向こうの空を見上げた。

 いつの間にか雲は低くなっていて、ところどころに黒い塊が浮かんでいる。

 風が草を撫で、どこからか湿った香りが漂い始めた。空気が微かに振動しているような、金属が鳴る前触れのような感覚だ。

 雛はかすかに目を開け、私たちを見上げた。瞳はまだ濁っていて、我々のことを理解してはいないようだ。

 もしはっきり見えていたら、慌てて逃げ出している。

「とにかく今はこの子の手当てね」

 その声は低く、少し警告の色も含まれていた。

 

 窓を閉めると、部屋に静けさが戻る。

 メルはテーブルの上に広げたハンカチの上へ、そっと霆鳥(アルフェリス)の雛を置いた。

 指先はいつになく慎重で、まるで薄氷を踏むように動く。

「生命魔法は使うなよ。面倒なことになるだけだ」

「わかってるわよ」

 ただでさえ、雛は危険な状態だ。魔法をかけ間違えて、死んでしまいましたでは、取り返しがつかない。

 さすがのメルも正攻法の治療でいくらしい。

 羽は泥と煤で汚れ、ところどころ逆立っている。羽毛の間に隠れていた皮膚は擦りむかれ、細かな切り傷が幾筋も走っている。血は鮮やかな赤ではなく、ところどころで乾きかけていて、黒ずんでいる。

 翼を広げようとするたびに小さな痛みが走るらしく、雛はかすれた声で鳴いた。

 羽軸のあたりに触れると、メルの指先にごく小さな異物感が伝わった。骨がわずかにずれているような、紙を折ったときのような不自然な硬さと軋み。触診のように軽く押すと、雛は目を細め、羽をぎゅっと抱え込むようにして身を縮めた。

 メルは息を詰め、唇を噛んでから低く囁いた。

「大丈夫、落ち着いて」

 その声は雛だけでなく、自分を落ち着かせるためのもののようだった。消毒液をつけたガーゼを折りたたみ、雛の翼の下にそっと当てて、動かないように優しく固定する。

 それから力を入れすぎないように、翼を元の位置に戻すと、包帯で巻いて固定する。

 室内の静けさの中、雛の小さな胸の上下だけが確かな時間を刻んでいた。


 すると雛は、かすかに首を動かした。まるで自分が今置かれている状況を把握するかのようだった。

 その拍子に、ほんの一瞬だけ、羽の奥が淡く光る。

「まだ魔力が淡いわね」

 メルが息をひそめて言う。

 メルは小さく息を整えると、杖を持たずに片手を伸ばした。

 指先から淡い緑の光がにじみ、庭の土から若い枝がすっと伸び上がる。

 枝は絡み合い、しなやかに曲がりながら、あっという間に小さな鳥籠の形を成した。

 葉は柔らかく、内側には乾いた苔が敷かれている。即席にしては、ずいぶん手慣れている。

「……おい」

 私は思わず声を出した。

「まさか、飼う気か?」

 メルは作業を止めず、ちらりとこちらを見る。

「飼う、って言い方はひどいわね。保護よ、保護」

 そう言って、雛をそっと両手ですくい上げる。

 雛は抵抗する力もなく、弱々しく羽を震わせただけだった。

「しょうがないじゃない。このまま放っておくわけにはいかないわ」

「……お人好しだな」

 私は鼻を鳴らす。

「庭に放っておけば勝手に回復して、勝手に飛んでいくだろ」

 いくら雛とはいえ、自然治癒力もそれなりにあるはずだ。

 だがメルは、籠の中に小鳥をそっと置きながら、首を横に振った。

「無理よ。たぶんこの子を襲ったのは、ただの猛獣じゃない。傷の雰囲気を見ても、悪意を持ってターゲットにされている感じだわ」

 メルは少し言うのを躊躇ってから、もう一度私に向き直って言った。

「魔女かも」

「……こいつの巣まで辿り着ける魔女が現代にいるとは思えないがな」

「ええ。だから心配なの」

 木籠の中で、小鳥は小さく身じろぎし、かすかな声を漏らした。

 そのたびに、葉がさらりと揺れる。


 問題は、その鳥籠の置き場所だった。

 メルはそれを持ち上げると、チェストの上、私のクッションのすぐ横に据えた。

「……おい」

 クッションの温もりと匂いが混じるその場所は、私のための特等席だ。私は不機嫌を隠す気もなく、籠を睨みつけた。

 言葉は短く、冷たさを含んでいた。

 籠の中の雛は私の視線に気づかないふりをして、嘴で羽をついばむ。

「そこは私の場所だぞ」

 私の声に、メルは肩越しに軽く笑った。

「いいじゃない。ここが1番見晴らしと日当たりがいいもの」

 彼女の声はいつもの通りに柔らかく、それでいて譲る気配はなかった。

「あのな……」

 私の場所、という言葉にはただの物理的な占有以上の意味があった。ここで昼寝をし、ご飯を食べて、考え事をする。私の時間の中心であり、生活そのものなのだ。

 それをこんな小鳥に侵食されるのは、到底納得ができない。

 雛は毛繕いの合間に、折れた翼をぎこちなく伸ばしてみせた。羽軸の不自然な角度が、薄い影となって鳥籠の芝に落ちる。

 これが治るまでと考えると、数日はかかるだろう。

「やはり追い出せ」

 私は顎を窓の外にクイっと突き出す。

 空はまだ落ち着かない。遠くで低い雷鳴がごく短く震え、風がカーテンを揺らした。

 メルは籠に近づき、そっと格子を撫でるようにして言った。

「空で何が起きているのかな」

 その声には、ただの観察以上の含みがあった。特等席を譲るかどうかで議論するつもりはないらしい。

「おい、話は終わっていないぞ」

 すると雛が羽を震わせ、かすれた声で鳴いた。

 籠の中では、霊鳥の雛が小さく羽をすくめ、こちらを見上げていた。

 何だその目は。被害者面しやがって。

 音は小さく、しかし確かな存在感を持って部屋に残る。

 籠に顔を寄せたメルが、ふいに喉からかすかな声を出した。

「ほらこの子もお願いしてるよ」

 まるで雛の真似をするかのように目をうるうるとさせ、口元を震わせる。

 演技めいた仕草なのに、その目は本気で潤んでいる。バカなのかこいつは。思わず心の中で毒づくが、同時に笑いがこみ上げる。ここで本気で怒っても、結局自分が損をするだけだと分かっている。

 私は無意識に手を伸ばし、籠の格子に触れた。柔らかい枝の感触が指先に伝わり、同時に自分の中の頑なさが溶けていくのを感じた。

「……分かったよ」

 言葉は短く、私自身が驚くほどあっさりと出た。

 メルの顔に柔らかな笑みが広がり、雛はそれを見てまた小さく鳴いた。


「さて、と」

 メルは顎に指を当て、しばらく考え込むように窓の外を見やった。

 それから口を開き、いつもの軽さを取り戻した。

「この子のご飯は何がいいかしら」

 私は適当に肩をすくめて答えた。

「さあな。木の実とか、そういうのじゃないか?」

 鳥風情が何を食べるかなんて、詳しいことなど知らない。

「じゃあ、採ってこようかしら。雨が降る前にね」

 メルの目がきらりと光る。彼女は上機嫌にローブを羽織り、籠に向かって軽く会釈すると、庭へと出ていった。

 ローブの裾が床を擦る音、ドアの開く音が小さく響き、外の風がカーテンを揺らす。

「気をつけろよ」

 他の魔女の存在がチラついて私はつい口を出す。メルに限って、危険な目に遭うことはないだろう。

 メルは振り返りもせずに手を振り、「大丈夫よ」と返す。

 彼女の背中は軽やかで、森の緑に溶けていった。

 

 ドアが閉まると、部屋には静けさが戻る。

 私はふう、と小さく息を吐いた。籠の中の雛は、まるで何事もなかったかのように毛繕いを続ける。折れた翼は時折震える。だがその瞳には、どこか無邪気な好奇心が残っている。

 窓の外の空はまだ落ち着かず、遠くで低い雷鳴がごく短く震えた。

 私はクッションの縁に手を置き、雛の小さな呼吸を聞きながら、これから何をすべきかを静かに考えた。

 そして鳥籠の真正面にどっかりと陣取る。

「いいか」

 籠越しに、雛を睨む。

「勘違いするなよ。ここは私の窓際だ。お前が一時的に置かれてるだけだ」

 雛はきょとんとしたまま、小さく首を傾げた。

「昼寝の邪魔をしたら許さん。羽が治ったら、さっさと空に帰れ」

 聞いているのかいないのか。

 だが、説教は大事だ。最初が肝心だからな。

 私はクッションに座り直し、尻尾を一度、ぴしりと鳴らした。

 窓際を取られた鬱憤は、この説教タイムで晴らすことにした。

 しかしどうやら、まだ言葉が通じる段階ではないらしい。

 私がじっと見つめても、雛はただ小さく瞬きをするだけで、意味を理解している様子はない。時折、喉の奥でかすれた音を鳴らし、羽をきゅっと縮めるだけ。その動きすら、どこかぎこちない。

 まったく、手応えのない相手だ。

「……お前がさっさと傷を治せばいいのだがな」

 小さく呟き、尻尾をゆらりと揺らす。

 見たところ、外傷そのものはもう大したことはない。

 しかしメルが使った回復魔法は、あくまで応急処置だ。血を止め、骨や羽の形を戻す最低限の処置。それ以上の生命そのものの流れに踏み込む魔法は、あいつの不得手分野だ。

 籠の中の雛からは、かすかに魔力の淀みが感じられる。

 川の流れが途中で石にせき止められているような、不自然さ。

「……魔力循環が歪んでるな」

 だから飛べない。だから、ここまで落ちてきた。

 私は目を細める。

「やはり厄介なのに目をつけられたか」

 霆鳥(アルフェリス)の巣まで辿り着いて、親鳥を掻い潜り、雛を傷つける相手となれば、並の魔女じゃない。

 力目当てか、素材狙いか。どちらにせよ、ろくな理由じゃない。

 雛は小さく身じろぎし、羽の隙間から淡い光が一瞬だけ漏れた。

 雛はピーピーと鳴く。

 私はクッションに顎を乗せ、鳥籠から目を離さずにため息をついた。

「まったく。静かに昼寝もできん」

 私はため息をひとつ吐いて、メルの帰りを待った。

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