14話 強襲
霆鳥の雛を拾ってから、3日ほど経った。
あの日の夕方辺りから、雨は降り続けていて、いまだに止む気配がない。
森の雨は葉を叩き、幹を滑り落ち、やがて細かな霧となって空間を満たす。視界は淡い白に溶け、窓の外の景色は輪郭を失って退屈になっていた。
雨音は規則正しく屋根を叩き、部屋の中まで湿った空気を運んでくる。
窓ガラスには水滴が流れ、外の世界と切り離されたような感覚になる。
室内はその分だけ静かで、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。湿った木の匂いする鳥籠の中にいる雛は、時折小さく羽を震わせてはまた眠りに落ちる。
メルが採ってきた雛鳥用の木の実はまだ山のように残っていて、茶色の粒が籠の隅に積まれている。
当面の食い扶持には困らない。
この雨の中、食料を調達しに行くのは億劫だ。
雛の様子は相変わらずだった。
日々は毛繕いと食事と眠りだけで淡々と紡がれ、時間はゆっくりと籠の中を流れていく。まったく良いご身分だ。
羽根の汚れは落ち、翼の裂け目は塞がって包帯も外れている。金色の産毛が、光を反射させて輝いている。もうとっくに元気になって、飛び立てそうな雰囲気だ。
ただ、問題は相変わらず魔力の流れだ。
霆鳥の羽には成長とともに独特の魔力が巡るはずだが、こいつの羽根は外見こそ金色の綿毛を覗かせても、内側で何かが詰まっているように感じられる。手を翳しても、微かな振動しか拾えない。自然治癒で戻るものなのか、それとも外からの手当てが必要なのか、確信は持てないままだった。
何より気になるのは、まだ一度も羽ばたこうとしないことだ。小さな翼は時折ぎこちなく伸びるが、空気を掴むような力強さはない。窓の外の雨音が規則正しく屋根を叩くたび、雛は目を細めて身を縮める。外の世界が白く溶けて見えない今、飛ぶ練習の機会も奪われているのだろう。
或いはこいつはまだ一度も飛んだことがない個体かもしれない。
そうなれば早く親元に戻さなければ、飛ぶことを教えられもしないし、ここからひとりでに居なくなることもない。
私は籠のそばに座り、雛の呼吸を数えた。そこから思考を探ろうとするが、どうにも退屈ですぐに諦める。
意思の疎通ができない相手と二人きりでいるのは、思ったよりも疲れる。
寝ても起きても、視界の端に必ずあの小さな金色があるのだ。夜になれば籠の格子越しに小さな胸の上下が見え、朝になれば毛繕いの仕草が目に入る。
気が休まらない、というわけではないが、真面目に考える気力も湧かない。
不本意だがメルと一緒に寝た方がマシだ。
しかしそれを提案すると、メルは眉を寄せる。
雛を一人にできないから、私はクッションで寝て欲しいと言うのだ。
そんなことなら、メルがクッションで寝ればいい、と心の中で毒づく。だが彼女はにこりと笑って首を振り、「この子をよろしくね」と言ってくる。
言葉の軽さに腹が立つ反面、その無邪気さに根負けしてしまう自分もいる。
メルは窓から鳥籠を移すつもりもないらしく、結果として3日間ずっとこのままだ。
仕方なく、日中は私が部屋をうろついたり、クッションのない棚の上にいる。もはや追い出された形だ。私の特等席だったチェストの上は、今や雛のものとなっている。
「こいつはいつ飛んでいくんだ?」
私の声は短く、苛立ちを隠せなかった。窓の外では雨が細く糸を引き、世界を白く溶かしている。籠の中の雛は相変わらず無邪気に羽繕いを続け、こちらをちらりと見上げるだけだ。
「さあ、でも雨が降っている間は無理でしょうね」
メルは肩をすくめ、ページの合間に顔を上げる。
テーブルの上に置かれたランプの光がメルの頬を柔らかく照らし、穏やかな表情がそこにある。
「そんなことでは、困るのだがな」
「タズは自分の居場所にこの子が居て欲しくないだけでしょ」
「分かっているなら早く退けてくれないか」
近頃のメルといえば、雨読に耽っている。
もう雛がいることにすっかりと慣れてしまったらしい。時折顔を上げては雛を覗き込み、また本に戻る。読書に没頭するその表情は穏やかで、平和に見える。
「霆鳥なんだ。むしろこの天気が本来最良のコンディションのはずだろ」
私は窓の外の空気を睨むように見やった。雷雲を巣にするという霆鳥の習性を思えば、雨と嵐はむしろ追い風のはずだ。だがこいつは羽ばたく気配すら見せない。胸の奥に、苛立ちと不安が混じる。
「そうかもしれないけれど、まだ雛鳥よ。たぶん晴れている時の方が飛びやすいわ」
メルの声は柔らかく、しかし力がある。
私は雛鳥の様子を眺めながら、目を細めた。
「チッ。いっそのことニコラに診てもらったらどうだ」
私は舌打ち混じりに言った。ニコラは生命魔法に長けている。雛の魔力の流れを診て、何か手当てができるかもしれない。
「……あの子もいくら生命魔法が得意だとはいえ、霆鳥の健診はしたことないんじゃないかしら」
メルは首を傾げる。
たしかに、霆鳥は特殊だ。成鳥の羽は導電性を帯び、魔力の扱いも独特だ。ニコラが治せる保証はない。
ただこのまま何もしないというのはむず痒い。
「あいつは次いつ来る?」
「さあ、示し合わせているわけじゃないし」
「まったく、必要なときに来ないな」
私は外を睨み、大きく息を吐く。この雨で、ここに来る予定を先送りにしているのかもしれないな。
やはり雨はさっさと止んでもらった方がいい。
「ねぇ、ちょっとこれを見て」
するとメルがページをめくりながら、得意げに本を差し出してきた。そこには霆鳥の生態が図とともに細かく記されていた。雷雨が渦巻き、親鳥が巣を守る図解。
それから翼を仰いで、周囲の鉛雲が渦を巻くように描かれている。
「ふぅん、ずっとこれを調べていたのか」
記された内容は図鑑というよりは、伝承といった感じだ。まだその生態には謎が多い。
「しかし物騒なことが書いてあるな」
自分や家族に危害が及んだ場合は、雷雨を呼び寄せて、人間の街を濁流に呑み込んでしまったことがあると書いてある。
いくら口承で盛られているとはいえ、やはり強大な力を持つことは間違いない。
ぼんやりと本を眺めていると、ふと、私は嫌な推論に行き着いた。
「おい、もしかして、この雨……」
「そうなのよね」
どうやらメルも同じ結論に辿り着いたらしく、すぐに首を縦に振る。
「おいおい、不味くないか」
メルは眉尻を寄せて、外の雨を見つめる。
ここ数日の空模様は不穏だ。ただの自然現象だといいが。
「かと言って、この雛を外に連れ出すのもね」
メルがそう言い終わらないうちに、空が唸った。
窓ガラスが一瞬だけ震え、部屋の空気が引き締まる。
次の瞬間、耳をつんざくような雷鳴が庭を引き裂き、光と音が同時に押し寄せた。
まずい。普段なら警戒して音などで反応できたが、雨でまったく気づかなかった。
私は気を逆立てて、外を睨む。 庭に落ちた影は、想像を超えて大きかった。
確認するまでもない。成鳥の霆鳥だ。
黒い雲を背負うようにして舞い降りる。
翼は広げれば私たちの家一軒を覆い尽くすほどで、羽毛は深い漆黒と煤色が混ざり合い、ところどころに金色の光条が走る。羽根からは青白い火花が散り、バチバチと破裂音を鳴らす。
鋭いくちばしは鉤状に曲がり、足には鉤爪が光る。目は嵐のように冷たく、切り刻まれそうな鋭さを湛えている。
鳥籠の中で雛がピーピーと鳴き声を上げる。
小さな声は成鳥の存在にかき消されそうになりながらも、必死に呼びかけているようだ。格子越しに見上げるその瞳は、先ほどまでの無邪気さとは違い、親を求める切実さを帯びていた。
私は思わず後ずさる。メルも立ち上がり、顔色を変えずにはいられない。
雨粒が一瞬逆巻くように跳ね上がった。成鳥は低く唸るような声を上げ、空気が振動する。部屋の中の温度が一度下がったように感じられた。
「おい、これ、私たちが攫ったと思われないか」
私の声は震えを含んでいた。冗談めかして言ったつもりが、喉の奥では本気の恐れが膨らんでいる。
霆鳥の視線がこちらに向けられ、鋭い光が窓ガラス越しに刺さる。
霆鳥は明らかに怒っていた。羽を大きく広げるたびに空気が震え、羽毛の縁から青白い火花が散る。雷を纏ったその体は、ただ大きいだけではなく、嵐そのものが具現化したかのような威圧を放っている。
「どうする? 話を聞いてもらえそうな雰囲気じゃないぞ。倒すか?」
「いや、ちょっと待って」
メルが静止する。
よく見るとその怒りには疲弊の影が差している。羽根の艶はところどころ乱れ、翼の付け根には泥と煤が混じった痕が残る。目の奥にある鋭さが、時折かすんで遠くを見やるように揺れる瞬間がある。怒りは本能から来る防衛の炎だが、その炎を燃やす燃料が尽きかけているようにも見えた。
怒りと疲れが同居するその姿は、単なる敵意に染まったものではない。その複雑な感情の厚みが、私たちの動きを鈍らせていた。
空気が裂けるような雷鳴の余韻がまだ耳に残る中、ふと冷たい風が窓辺を撫でた。
次の瞬間、庭の上空からもう一つの影がゆっくりと降りてきた。
霆鳥の威圧に対して、その影はまるで舞台に降り立つ女優のように優雅で、しかしどこか危うい光を放っている。
その影は人型だった。黒いローブを纏っているのかと思いきや、艶やかな黒のドレスが身体の線を滑るように靡いていた。長い脚を覗かせていて、ドレスと同じく黒いブーツを履いている。
髪は夜のように深く、肩から背中へと流れ、時折雨粒がその艶を跳ね返す。
唇は深紅で、瞳は猫のように細く光り、笑うと口元に小さな影が落ちた。
全体の佇まいは、どこからどうみても魔女だ。
彼女は軽やかに空中に浮遊すると、雨や霆鳥を気にする様子もなく、こちらを見下げた。
声は低く、絹を裂くように滑らかだった。
「あら、こんなところに家?」
その一言に含まれた好奇心は、決して無邪気ではない。
まるで宝物を見つけた子供のような、しかし同時に獲物を狙う鷹のような目つきだ。
霆鳥は彼女を視界に入れると、一瞬身を硬くし、羽根に帯びた青白い火花がぴくりと踊らせた。
だが魔女は恐れる様子もなく、ゆっくりと霆鳥の方へ近づいた。
私たちは息を呑んだ。メルは本を抱えたまま立ち尽くしたままだ。
霆鳥は魔女を睨むと、低く唸りを上げる。それから羽に光を集める。
空へ浮かぶ魔女はにやりと笑い、挑発的な仕草で髪をかき上げた。
「まあまあ、騒がしいわね。まだ私に敵わないと分からないの?」
その声には甘さと毒が混じり、どこまで本気なのか判別がつかない。
鳥籠の中の雛は、ピーピーとさらに大きく鳴いた。
魔女はその視線を楽しむかのように杖を取り出し、軽く空を叩いた。
次の瞬間、霆鳥の羽から雷が迸った。
金属を引き裂くような臭いが鼻腔を突き、空気が震えるほどの轟音が庭を引き裂く。
思わず爪を立て、床に足を踏ん張った。胸の奥が押し潰されるような重圧と、毛の根元を逆立てる静電気が全身を走る。窓ガラスが微かに鳴り、ランプの炎が一瞬だけ揺らいだ。
音が収まり、耳鳴りが薄れていく頃に目を開けると、そこにはまったく変わらない様子の魔女が立っていた。雨に濡れた髪も服の裾も乱れておらず、顔には薄い笑みが残る。
どうやら攻撃は完璧に防がれていたらしい。私は力を抜いて膝をつき、震える手を握りしめる。
「強いな、あいつ」
状況から推察するに、霆鳥はあの魔女に巣を襲われたのだな。
それでこの鳥籠の中にいる雛とはぐれ、魔女の相手をしながら、探しにきたと言うわけだ。
あの霆鳥が遅れをとる強さとなると、あの魔女は只者じゃなさそうだ。
「まずいわ」
表情が引き締まる。霆鳥はまだ羽を震わせ、胸のあたりで青白い脈動が残る。
だが、よく見るとその怒りには疲弊の影が差している。羽根の艶がところどころ乱れ、目の奥が遠くを見ているように揺れる瞬間がある。
魔女は杖をゆっくりと振りかざし、唇の端で楽しげに笑った。
「お返しよ」
その声は絹のように滑らかで、同時に刃物の冷たさを含んでいた。
空気が再び引き締まり、庭の雨粒が逆巻くように踊る。
その瞬間、メルは動いた。ページを閉じる間もなく、扉を開けて外へ飛び出していった。
私は息を呑み、窓越しに見守る。メルは霆鳥と魔女の間に立ち塞がると、両手を広げて何かを唱え始めた。彼の周りに淡い光の輪が生まれ、空気がひんやりと震える。
雷の放射がその輪に触れると、火花はふっと消え、音が丸く吸い込まれるように弱まった。
攻撃は無力化された。魔女の杖先から放たれた一撃が、メルの張った結界に当たって弾かれ、雨粒とともに散った。霆鳥は一瞬身を硬くしたが、メルの存在に気圧されるように羽を小さく畳む。庭に残る静電気がゆっくりと解け、空気の重さが戻ってくる。
魔女は眉を上げ、興味深げにメルを見た。
まさか自分の攻撃が止められると思っていなかったようだ。
「邪魔しないでもらえる?」
その声には苛立ちと好奇が混ざる。
「こんなところに住むような田舎魔女風情が……」
しかしその言葉を受けても、メルは決して後退しない。それどころかまったく相手にしていない様子で私の方に目を向ける。
「タズ、その子と霆鳥のこと、任せてもいい?」
相変わらず軽い口調と、無邪気な笑みが鼻につく。
まったく世話が焼ける。よくピクニックのような気分でいられるものだと呆れが胸を満たすが、同時にその無邪気さに肩の力が抜ける自分もいる。
仕方ない、呆れ果てた顔で私は口角をニヤリと上げ、体に力を込めた。
全身の毛が逆立ち、血の巡りが一気に速くなるのを感じる。皮膚の下で小さな電流が走るように、指先まで熱が通った。青白い光が私を包み込み、窓際へと自然に足が向く。
鳥籠の中の雛は相変わらずピーピーと鳴いている。
私は爪で引っ掻き、鳥籠を破る。「掴まってろよ」とだけ言って、雛を担いで背中に乗せた。
それから窓を開くと、メルの方を、ふと見上げた。
「さっさと終わらせろよ。メル」




