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11話 秋夜の月

 秋の夜は、音が多い。

 この家が森に囲まれているせいだろう。

 静けさの余白を埋めるように、あらゆる音が絶え間なく流れ込んでくる。

 草むらでは鈴虫が細く澄んだ声を重ね、どこか高い枝の上では、コオロギが乾いた調子で刻むように鳴いている。夜風に揺れた木の葉が擦れ合い、さらさらと微かな囁きを立てるたび、その奥で、名も知らぬ獣が枝を踏み鳴らす音がした。遠くでは、夜行性の鳥の低い鳴き声が一度だけ響き、やがて森に溶けていく。

 慣れてしまえば、それらはただの背景音だ。

 気に留めるまでもなく、意識の外へ追いやれる。普段の私なら、そうしている。

 だが、今日は違った。

 どの音も妙に耳につき、消えてくれない。

 ひとつひとつが主張してくるようで、胸の奥に小さなざわめきを残していく。

 私は尻尾の先をわずかに揺らし、目を細めた。どうにも、収まりが悪い夜だ。

 

 原因を考えてみようか。

 もっとも、思い当たることが多すぎて、どれから疑えばいいのか分からないのだが。

 まず、今日の夜ご飯だ。ささみが、ほんの少しだけ焦げていた。致命的ではないが、あれはあれで気分を害する。外側だけが固く、香りもどこか苦くなっていた。

 あるいは最近、ニコラが訪問して来ないことかもしれない。

 そうなると、当然またたびの供給も途絶えている。これは由々しき事態だ。精神衛生に関わる。

 それとも、もっと些細な理由か。さっきから髭の一本がどうにも収まりが悪く、気になって何度も撫でつけた。気づけば数十分も、無言で格闘していたのだから、自分でも呆れる。

 まあ、色々だ。

 理由を突き止めたところで、今さらどうなるものでもない。

 窓は少しだけ開いていて、ひんやりした空気とともに、澄んだ月明かりが室内へと流れ込んでくる。

 秋月だ。白く、静かで、やけに輪郭がはっきりしている。この環境を楽しめないなんて、どうかしている。

 私は静かに立ち上がり、尻尾を一度だけ振る。気分転換に、メルの寝室へ行くとしよう。

 

 月の光に照らされて、私の影が床に落ちる。

 私の耳、背中、尻尾。美しいシルエット。見慣れた輪郭だ。

 そのはずだった。

 ふと影が、すっと伸びた。私が動いていないのに、だ。

 もちろん命令もしていない。

「……?」

 私は両目を見開いた。眠気が一気に覚めて、髭がピンとなる。まさかそんなことが起こるはずがないと思ったが、床の影はわずかに揺れ、形を変えた。それから尻尾が大きく揺れて、体を震わせる仕草をした。

 背筋に、ぞわりと冷たいものが走る。

「……何だ、このヘンテコな現象は」

 私が影に悪態をつくと、影はまるでこちらの様子を窺うように、ぴたりと動きを止めた。

 そして次の瞬間、私が前足を引くより先に、影のほうが一歩、踏み出した。

 そしてチェストに登ってくると、悠然と私の目の前を通り過ぎて、外へと行ってしまった。影だから物理的に遮るものはない。窓も通り過ぎていった。

 あれはもう、私じゃない。

 私はクッションから跳ね起き、月明かりから逃げるように床へ降りた。足元を確かめると、いつもの自分の影がどこにもないことに気づいて、胸の奥がひんやりとする。

「……メル」

 低く呟き、私は迷わず廊下へと駆け出した。木の床を滑る爪の音が、やけに大きく響く。

 私は扉に体当たりする勢いで、メルの寝室へと飛び込んだ。

「起きろ、メル!」と叫ぶが、返事はない。

 ベッドの前に立っているのは、確かにメルの輪郭だった。

 月明かりが届くはずのないこの部屋で、その姿はぼんやりと霞んでいる。

 小さい体躯に、左右にはねた癖毛。見慣れたシルエットがそこにある。だが輪郭は水に溶ける墨汁のように流動的で、不安定だった。

「……メル?」と、眉間に皺を寄せて訝しむ。

 返事はやはりない。こいつはメルなのか。

 私は一歩、また一歩と近づいた。

 近づいてみて、ようやく理解する。

 影だ。メルの形をした、薄く歪んだ影。

 顔のあるべき場所は曖昧で、足元は床と溶け合っている。

「……やっぱりか」

 呆れと寒気が同時に込み上げる。影は私の視線に気づいたのか、わずかに揺れた。

 そして音もなく、するりとほどけるように移動すると、壁の影が逃げるように溶け込み、やがて完全に気配が消えた。


「……また何か、余計なことをしたな」

 私は舌打ちをして、今度こそ、とベッドの上へとジャンプした。

 掛け布団をかきあげて、覗き込む。

 そこにはいつものメルがいた。無防備に、ぐっすりと眠っている。口はだらしなく開いていて、寝顔は寝ている時ですらどこか阿呆な面を見せている。

「……おい」

 体をゆすって呼んでみるが、反応はない。

「やれやれ」

 もう一度深く息を吐いた。胸の奥で我慢の糸がぷつりと切れる音がしたような気がした。

「必殺、猫パンチ!」

 勢いよく右手を振り抜き、メルの右頬に喰らわせる。

「ふわっ!」

 ようやくメルが体を起こした。髪は枕に乱れ、半分閉じた瞳がこちらをぼんやりと捉える。寝ぼけ眼のまま、彼女は何が起きたのか理解しようとするように辺りを見回した。

「おい、どうなっている?」

 俺の問いに、メルは目をこすりながら首を傾げる。まだ眠気の残る声で、ぼそりと答えた。

「何の話?」

「ランプをつけてみろ」

 俺は短く命じる。メルは手早く布をどけて芯に火を灯す。火花が小さくはじけ、オレンジの光がゆっくりと部屋を満たしていく。ベッドや家具の影が壁に映る。

 しかしそこには、私の影もメルの影もない。

「あら、どういうこと?」

「影が、勝手に動いた。いや、動いたなんてもんじゃない。完全に別の生き物になっていた」

 メルはランプの炎を見つめながら、真面目な顔に戻る。

「どこに行ったのかしら」

「さぁ、家の外に逃げたからな」

「うーむ……放っておいていいものじゃ、ないですよね」

 メルは森の闇を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

「そうだろうな」

 私は短く応じ、尻尾を一度、地面に打ちつけた。

 相変わらず呑気なものだ。放っておいていいわけがない。影に主導権を奪われるかもしれないし、日に当たれないかもしれない。

「とっとと探しに行くぞ。考えてる間に、厄介ごとは増える」

 言い終えるより早く、私は戸口へ向かう。

 メルは何も言わず、ローブの前を留め直し、ランプを手に取った。


 私たちは並んで外へ出る。

 足元で草が擦れ、遠くで何かが枝を踏む音がした。踏みしめる獣道は不気味さを増大させる。

 いくら満月だと言っても、森の奥はまだ深い影に沈んでいる。私は暗闇でも問題ないが、魔女にとっては厄介だろう。いつもより歩くペースが遅い。

「で?」

 低く問いかける。

「どうして、こうなった?」

 声が自然と荒くなるのを止められなかった。

「……まさか、また魔法を使ったんじゃないだろうな」

 メルは少しだけ視線を逸らし、曖昧に笑う。

「たしか、その……生命魔法を」

「やっぱりか!」

 思わず尻尾が床を打つ。

「どれだけ失敗すれば気が済むんだ。影に命を与えるなんて、聞いたこともないぞ!」

「でも、影が動くなんて魅力的ではあるでしょう?」

「めちゃくちゃを言うな!」

「影が思い通りに動けば、分身みたいになると思ったのだけれどね」

 メルは苦笑しながら言い、視線を足元へ落とした。

「それが、このザマか」

 メルは肩をすくめて、小さく息を吐く。

「……反省はしてるわよ」


 月明かりは雲に遮られ、木々の間は墨を流したように暗い。

「見つかる気がしないな」

「影ばかりだもの……」

 影に潜まれたら、どうしようもない。足音も、気配も、何一つ掴めない。

「何か手がかりはないのか?」

「たぶん、生命魔法だけじゃなくて、秋月の魔力も関係しているわ」

 メルは夜空を見上げ、まんまるな月を指さした。

 澄んだ光が森を満たし、普段よりも魔力の流れがはっきりと感じ取れる。

「この時期は、自然の魔力が魔女の魔法にも影響を与えるの。とくに満月は強い力を持っている。影が動いたのもそのせいかもしれないわ」

「じゃあ影が月光に導かれているかもしれないのか」

「そうね」

 森の闇が、私たちのやり取りを黙って聞いている。

「月の光が1番当たっていそうなところを探すか」

 私は一度、深く息を吐いた。

 メルはようやく表情を引き締め、杖を握り直した。

 

 森を抜けると、視界がふっと開けた。

 なだらかな丘だ。

 雲の切れ間からこぼれた月明かりが、草原を淡く照らしている。銀色の光が地面をなぞり、影を長く、くっきりと伸ばしていた。

 この辺りで1番月明かりが当たる場所だ。

 私たちは丘の下で足を止める。

 自然と、見上げる形になった。

 するとそこに、不自然な影がいた。丘の頂に2つ。逆光で輪郭だけが浮かび上がるが、表情はない。風に揺れることもなく、ただ月を見上げるように立っている。

 メルが一歩前に出て、目を細める。

「私たちの影よ」

「どうすればいい?」

 私が尋ねると、メルは少し考え込み、杖を胸元に引き寄せた。

「えっと……もう一度、生命魔法をかければ元に戻るはずよ」

「信用していいんだろうな」

「……たぶんね」

 私は丘の上から視線を離さず、前足に力を込めた。

「よし。やるしかないな」

 尻尾を低く構え、唸る。

「先に動きを止めるぞ。影の動きは私そのものだ。好き勝手に逃げられたら厄介だぞ」

「わかったわ」

 メルも表情を引き締め、杖を構える。


光障壁(ルフ・イレイラ)!」

 メルの声と同時に、丘の頂を中心に四方から光が立ち上がった。

 淡く透き通った光の膜が弧を描き、逃げ場を塞ぐように影たちを囲い込む。

 丘の下にいても、目を覆いたくなるほどの眩い光だ。

 影は一瞬だけ揺らいだが、すぐに抵抗するように形を歪める。

「ちっ、素直に捕まる気はないか」

 次の瞬間、私はメルの浮遊魔法で地面を離れた。

 足元の草がみるみる遠ざかり、丘の斜面が眼下に広がる。


 私の影が、ふっと上方へ跳ねた。

 メルが放った光の壁を、悠々と避けてしまう。

「……さすが私の影だな」

 感心している場合ではない。

「先に行くぞ」

 私は空中で体をひねり、浮遊魔法を途中で解除した。

 一瞬の落下感。だがすぐに体勢を整え、尻尾を大きく振る。

「逃がすか!」

 空を裂くように、尻尾が影へと叩き込まれる。

 影は紙のようにたわみ、距離を取って着地した。

 丘の上では、メルがすでに彼女自身の影と向き合っている。メルの影は本体と同じく運動能力が低いらしく、すぐに捕まってしまったようだ。

「さて、どうしてやろうか」

 私は影と向き直る。

 目の前にいるのは、私そのもの。

 同じ背丈、同じ構え。飛び込む隙がないし、向こうもこちらのことを分かっているだろう。

「まったく、面倒な相手だ」

 影が低く身構える。私も同じように、前足に力を込めた。

「逃すわけにはいかないな」

 どちらともなく、同時に踏み込んだ。


 影は、あからさまに逃げに徹してきた。

 左右に小さく跳ね、わざと隙を見せるように見せかけては、直前で軌道を変える。

 木の影を利用し、丘の起伏に紛れ、こちらの視線を外そうとする。

「……フェイントか」

 だが、無駄だ。

 動きの癖も、踏み込みの間も、呼吸のタイミングもすべて、嫌になるほど分かっている。

 私が一歩詰めれば、影も一歩引く。

「何か急ぎの用でもあるのか?」

 影は何も言わない。表情もない。しかし私の邪魔が影にとって迷惑であることは、動きを見ればわかる。

 全速力で逃げようとした瞬間には、すでに進路を塞いでいる。思考している分、こちらの方が有利だ。

「さっきは不意打ちだったがな」

 低く唸り、距離を詰める。

「こうなったら、逃がさん」


 その瞬間だった。

 影の輪郭が、ふっと滲んだ。次いで、青白い光が内側から滲み出す。

 影だというのに、毛並みが逆立つのが分かる。

 輪郭が鋭くなり、存在感が一段、いや二段、跳ね上がった。

「……おいおい」

 思わず呆れて、苦笑するしかない。

「力の解放。そんなことまでできるのか」

 影は前足を低く構え、体を沈めた。踏み込む刹那だ。

 私も力を使わないと、対応できない。

「くそ、間に合うか」

 そう呟いて体勢を整えようとした瞬間、まばたきの間に世界が変わった。

 地面を蹴る鋭い音が耳を裂き、影が私の目の前からするりと消えたのが見えた。

「しまった」

 声にならない声が喉に詰まる。胸の奥が冷たくなり、血の流れが速くなるのを感じた。

 やばい、これじゃ一から捜索し直すしかない。

 そう思った瞬間、空気が一段と張りつめる。 

光環結界(ルフ・アストラーム)!」

 夜気を裂くように、メルの声が響いた。

 次の瞬間、頭上から、半球状の光が落ちてくる。

 星屑を散らしたような紋様が走り、逃走のために踏み込んだ影を、ぴたりと包み込んだ。

「っ……!」

 影が暴れる。だが、光の壁はびくともしない。

 間髪入れず、メルが続ける。

生相解呪(ヴィタ・リリース)!」

 光が一気に収束した。

 まるで息を吸い込むように、影の輪郭が薄れていく。

 青白い輝きは霧散し、抵抗する気配も、意思も、急速にほどけていった。

 そして影は、消えた。

「……」

 足元が、ふっと暗くなる。

 見下ろすと、そこにはいつもの影がある。

 私の動きに忠実で、遅れも、ズレもない、ごく当たり前の影。

「……戻った、か」

 尻尾を軽く振ると、影も同じように揺れた。

 私は一息ついて、夜空にある満月を見上げる。


 異様に、疲れた。

 全身が鉛のように重く、前足に力を入れるだけで、じわりとした倦怠感が広がる。

 影が力を解放した影響だろうか。私はその場に座り込み、ひとつ大きく息を吐いた。

「よかったです……」

 丘の上から降りてきたメルが、胸に手を当て、安堵したように微笑む。

 彼女の足元にも、すでに影が戻っている。無事に回収できたようだ。

 本当に心底ほっとした顔だ。

 それを見て、胸の奥が、少しだけむず痒くなる。

 メルが私の影を捕らえたことが嬉しいような。それと同時に、妙に悔しいような。

「勘違いするなよ」

 私は顔を背けたまま、ぼそりと言う。

「私が本気で力を解放してたら、あんな影みたいに捕まらんからな」

「そうですか? 動きは本物そっくりでしたけど」

「中身までは再現できていない。あれは所詮、影だ。格が違う」

 メルはきょとんとした様子で、瞬きをする。

「でも動きはそっくりって、タズが言ったんですよ」

「……」

 一瞬、言葉が止まる。私は小さく舌打ちし、踵を返す。

「もういい。用は済んだだろ。帰るぞ」

 わざとぶっきらぼうに言い捨て、そのまま歩き出す。

「ま、待ってください」

 後ろからメルの足音が追いついてくる気配がしたが、振り向かない。

 月明かりに照らされた丘を下りると、草が足に触れてさらさらと鳴いた。

 夜気はひんやりとしているのに、妙に身体の内側だけが熱い。

 家に帰ればクッションも、窓辺も、静かな夜もある。私は何も言わず、そのまま帰路を進んだ。

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