10話 石板と避暑
「……暑い」
私はチェストの上で、ガックリと項垂れた。語気を強めたが、誰にも届かず空回りだ。
いくら窓際が気に入っている私でも、この暑さではそこに近寄ることができない。
差し込んでくる日差しは暑いを超えて痛い。そのまま寝ていたら、干物になってしまいそうだ。
仕方なく部屋の奥にあるチェストの上にいる。
それでも前足はだらり、尻尾も力なく垂れ下がっている。完全にやる気がでない。
森の奥とはいえ、真夏は真夏だ。木々が日差しを遮ってくれるとはいえ、今日は風もなく、空気がじっとりと重い。毛皮の内側に熱がこもって、じわじわと体力を削られていく。
おまけに、いつも寝そべっているクッションがいけない。冬場はあれほど頼もしかったのに、今ではただの熱源だ。おかげで私はクッションにも居座れず、日差しから隠れている。
「川とか湖に涼みに行きましょうか?」
メルがふんわりとした口調で提案してくる。
涼しげな顔で紅茶を飲んでいるのが、また腹立たしい。
「森はもうこりごりだ」
私は即座に切り捨てる。原生龍の件を思い出すだけで、背中の毛が逆立つ。何より家の外の方が暑いのに、外出などできるはずもない。
私は目を細め、天井を睨みながら小さく唸った。
「何か涼しくなる魔法はないのか」
「雪を降らせたり、氷を生み出す魔法はありますけど」
「それをさっさとやってくれ」
「さすがに家の中ではできませんよ。床がビショビショになります」
珍しくメルの言い分が正論だった。
私はむっとしつつも反論できず、ぐったりと耳を伏せる。窓の向こうから流れ込む熱気は、もはや空気というより壁だ。
「冷風を送るのもいいですが、魔法を使いっぱなしになるのは疲れるんですよね」
メルは少し考え込むよう言う。
「風の精霊とか、その辺にいないのか」
メルは顎に手を当てて考え込む仕草をした後、ため息交じりに首を振る。
「さぁ。見つけに行くにしても、外に出ないといけませんね。捕まえる準備もいりますし」
「じゃあ、却下だな」
俺は短く言い放つ。面倒な手間やリスクを考えると、今すぐ実行できる気がしない。
「じゃあクッションを、氷みたいにして冷たくするってのはどうだ」
私は床に腹ばいになったまま、片目だけ開けて言った。
「……冷たく?」
メルは一拍置いてから、首を傾げる。思いもよらない発想だったのだろう。
「そんなこと、できるかしら」
「魔法ならできるだろ」
投げやりに言い捨てつつも、声の端にはわずかな期待が滲んでいた。
この暑さから救われるなら、理屈なんてどうでもいい。私は犬みたいに舌を出して、尾をぺたりと伸ばす。
「氷が溶けて水浸しになるのは困りますし、冷たすぎても直接触れませんよね」
メルはそう言いながら、顎に指を当て、天井を見上げたまま考え込む。口がわずかに開いたままで、ぼんやりしているように見えるが、これは彼女が本気で思案しているときの癖だ。
室内には、じっとりとした暑さと、思考の沈黙が落ちる。
やがて、その視線がふっと一点に収束した。迷いが消え、代わりにひらめきの光が宿る。
「あ」
短い声だが、それだけで何かを思いついたことが、はっきりと伝わってくる。
私は期待を込めてメルの方を注視する。
「ちょっと試してみたいことがあるわ」
そう言い残し、メルは軽い足取りで研究室へ向かう。ローブの裾が揺れ、扉が閉まる音がした。
「……試す、だと」
私は眉間に皺を寄せて、訝しげに見つめる。
何か良くないことになりそうな気がした。
「頼むから、爆発だけはやめろよ……」
研究室の中からは、何やら物が動く音がする。何をしているのかわからないが、嫌な予感しかしなかった。
この状況だと、危機的状況に陥っても、動くのが億劫だ。爆発しても逃げ遅れる。
しばらくして、研究室の扉が静かに開いた。
きしりとした音とともに姿を現したメルの手には、一枚の石板が抱えられている。
なるほど、これを引っ張り出すのに、大きな音がしていたわけか。
掌より一回り大きい程度のそれは、角が丁寧に削られ、表面は驚くほど滑らかだ。だが磨き上げられた宝石のような光沢はなく、鈍く落ち着いた色合いで、光を受けると深く沈むように反射する。
「それは何だ?」
私は重い顔を伏したまま、半眼で問いかけた。
「この前、クリスタルを調達したときに、一緒に採れた石板です」
「あぁ……そういえば、あのとき色々と持ち帰っていたな」
脳裏に、山のように積まれた素材や、用途不明の鉱石が蘇る。どうやら、その中の一つが引っ張り出されてきたらしい。
私は石板を眺めながら、嫌な予感とも期待ともつかない感覚に、そっと耳を立てた。
メルは石板を軽く掲げて見せる。
「鉱石と同じで、魔力を溜め込んで安定させる性質があるみたい。封じ込める、という方が正しいかしら」
メルはテーブルに石板を置くと、ためらいなく指先を滑らせて魔法陣を刻み始めた。
爪先で描く線は細く、石の表面に触れるたびに微かな火花のような光が走る。
彼女の指先が通った跡には、淡い蒼白の光が滲み出し、幾何学的な紋様が次々と結ばれていった。
線は単なる円や三角ではない。小さなルーンが等間隔に刻まれ、交差するたびに小さな結節が生まれる。光はただの装飾ではなく、内部で流れる魔力の経路を示しているらしく、メルが最後の符号をなぞると、線の中を淡い魔力の流れが滑るように走った。
「成功ね」
彼女が小さく息を吐く。
言葉は短いが、その声には実験が完了したときの冷静な満足が含まれていた。
私は警戒を解かないまま、ゆっくりと近づく。石板の縁から漏れる光は冷たく、触れると肌が締めつけられるような感覚が走った。
そっと前足を乗せると、冷たさが肉球を通して毛の内側まで染み渡る。
ひんやり、というよりも澄んだ空気とでも言うべき感触だ。光の線は微かに脈打ち、触れた部分から小さな振動が伝わってくる。まるで水流のような光だ。
「これはいいな」
私は短く鼻を鳴らした。じんわりと、しかし確実に熱を吸い取っていく感触だ。
「そしたら、これをこうして」
メルは石板をクッションの下に滑り込ませると、手早く位置を整えた。私はそれに合わせてクッションの上へと移動する。すると不快だったクッションの籠った熱が、嘘のように和らいでいく。
布地が毛にまとわりつき、石の冷たさが背中越しに伝わってくる。
「……やればできるじゃないか」
いつもは失敗してばかりだが、たまには魔女の研究も役に立つらしい。
「……ん?」
クッションに身を沈め、ようやく極楽を取り戻した、そのときだった。
ふと、鼻先に違和感が走った。暑さとは違う、もわっとした匂いが毛穴の奥をくすぐる。クッションの方からだ。そう直感して、私はゆっくりと顔を上げた。
「……クッション、洗った方がいいかしら」
私より先にメルがぽつりと呟く。声は軽いが、言葉の端に本気の気配が混じっている。
「は?」
思わず短く返す。
鼻先に残る匂いを確かめるように、もう一度クッションへ顔を近づける。 湿り気を帯びた野性と熟れた果実のような余韻が同居する匂いだ。
せっかく快適なクッションになったというのに、台無しだ。
「夏だし、汗も吸ってるでしょう?」
メルは肩をすくめる。言い方は他愛ないが、目は真剣だ。
私が「待て。今いいところだ」と言いかけると、言葉は喉の奥で止まった。
メルの手が私の背中を掴むんだからだ。
クッションごと強引に引き剥がされ、毛が逆立つほどの衝撃が走った。
メルはさっさとクッションを掴むと、石板を取り除き、洗濯物を入れるかごへと放り込んだ。動作には感情がなく、まるで日常の家事をこなすかのように淡々としている。
「おい、待てって言っただろ」
啖呵を切るが、まるで意味がない。反対にメルは家事モードにスイッチが入ったかのように目を輝かせた。洗濯かごを抱えたまま、ふざけた調子で言う。
「ついでにタズも洗いましょうか」
その言葉に、思わず眉が跳ねる。
私は反射的に距離を取り、床の上を滑るように後退した。
「お風呂はヤダ!」
声が大きくなったのを自覚して、さらに一歩、二歩と逃げる。だが相手が悪い。メルは楽しげに口角を上げ、軽やかな魔法の気配を漂わせる。
「おい、猫は滅多に洗う必要はないぞ」
「はいはい、暴れないの」
囁くような声と同時に、空気がふっと柔らかくなった。
次の瞬間、私の体がふわりと宙に浮く。床から引き剥がされ、重力に逆らったことで毛が逆立つ。頼りがないの不安定さに、思わず前足をばたつかせる。
「卑怯だぞ!」
「便利でしょう?」
そのまま浴室へと連行される。
白いタイルが整然と並ぶ狭い空間。壁に反射する光が柔らかく滲み、天井の灯りがぼんやりと輪郭を溶かしている。この清潔さと無垢な雰囲気に、虫唾が走りそうだ。
「ほら、入って」とメルが言う。
声は相変わらず軽く、だが押しても引いてくれない雰囲気だ。
私は床に触れるタイルの冷たさを感じながら後ずさる。だがメルの手は素早く、肩を掴まれてそのまま浴室の中心へと引き寄せられた。
シャワーの金属が冷たく光り、蛇口の金属音が小さく鳴る。
そこからお湯が出てきて、湯気が立ち込めていた。その向こうで湯船が湯を受ける音がして、白い泡がふつふつと立ち上る。空気には石鹸とハーブの混じった匂いが漂い、
メルは手際よくシャワーを調整し、ぬるめの湯を流し始めた。冷たかったタイルの感触は、湯気に包まれると不思議と和らぐ。
「暴れると危ないからね」とメルがからかうように言うが、そんな余裕はない。
桶にぬるめのお湯が張られ、私はそこへそっと入れられる。
「フニャーッ!」
全身が水に触れた瞬間、情けない声が漏れた。毛皮が重くなり、自由が奪われる感覚。
抵抗しようと前足を踏ん張るが、ぬるい蒸気が毛穴を緩め、次第に力が抜けていく。嫌な予感と同時に、どこか安心する自分がいるのが腹立たしい。
「ほら、じっとして」
メルの手が、泡立てた石鹸を持って迫ってくる。
「やめろォ……!」
必死に抵抗するが、泡は容赦なく背中へ、腹へ、尻尾へ。
泡がまとわりつき、石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。
メルはくすくすと笑って「もう少しだよ」とだけ言った。
「ナァー……」と、思わず情けない声が漏れる。
最初は力を入れて抵抗していたのに、ぬるい湯気と指先の丁寧な動きに、次第に筋肉がほどけていくのが分かる。手つきは思ったよりも慎重で、泡を立てる指先が毛の根元まで行き届くたびに、くすぐったさと心地よさが交互に体を巡る。
メルの方を睨みつけるが、くすくすと笑いながらも目を細めてこちらを見ている。
その視線に腹が立つのを必死で隠しつつ、尾の先をわずかに振るわせてみせると、メルは「動くと泡が目に入るわよ」とからかうように言い、さらに丁寧に洗い続ける。
シャワーの水が泡を洗い流すと、体から重さが一つ消えたように感じられた。
水滴が毛を伝って床に落ちる音が、規則正しく耳に入る。メルは手早くタオルを取り出し、包むようにして私をくるりと巻いた。
タオルの温もりが冷えた毛を包み込み、濡れた匂いがふわりと立ち上る。
「はい、おしまい」
メルの声は淡々としているが、どこか満足げだ。私は濡れたまま、ぐったりと床に伏せる。タオルに包まれたまま目を細めると、外の世界が少しだけ遠ざかったように感じられる。力が抜けた体に、悔しさと安堵が入り混じる。
彼女はタオルをぎゅっと絞り、私の毛並みを整えるように撫でてから、心地よい温風を送る魔法を軽くかけた。
温かな風が毛を乾かし、湿り気を飛ばしていく。
魔法の温度は過不足なく、心地よさだけを残していった。
乾いた毛はふわりと戻り、タオルの中から抜け出した。
「あぁ最悪だった」
私は新しいタオルを咥えると、急いで石板のあるチェストの上まで戻る。そしてタオルを敷いて寝転がれば、簡易的なクッションの完成だ。
あまりふかふかではないが、すぐに眠気が襲ってくる。
遠くなっていく現実の中で、「……覚えてろよ」と小さく唸ると、メルはくすっと笑ったような気がした。




