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Pandora Ark Online.  作者: ミッキー・ハウス
交錯の王都編
149/155

第141話

ーーパキン。


静かな室内に、ひときわ澄んだ音が落ちた。

橘花の手の中で、茶器が裂けるようにひび割れ、二つに割れて紅茶が淡く机を染める。


「……あれ?」


何が起こったのか、一瞬理解できなかった。

割れた茶器を見つめたまま、橘花は目を瞬かせる。

手に力を入れた覚えもない。温度差で割れたにしては、不自然すぎる。


「大丈夫か、橘花」

「え、あ……はい。でも、すみません。茶器が……」


こぼれた紅茶が、まるで血潮のように卓上を広がっていく。

湯気が立ちのぼるその光景に、妙な既視感があった。


ヘーゼルの副官ガウル・アーゼスがすぐに反応し、落ち着いた声で指示を出す。


「温度変化かもしれませんね。すぐに新しいものを」

「そんなに気温も変わってないのにな……」


橘花は割れた茶器を見下ろしながら、小さく呟く。

胸の奥が、かすかにざわついていた。



橘花に新しい紅茶が手渡される頃に、ヘーゼルも書類を揃え終えた。


「これを至急持っていけ――特別区に入るための手続きだ」


ヘーゼルが机にある封筒を差し出す。


「エルド閣下に連絡を取る。承認されれば出入りの許可が降りる」

「了解しました」


ガウルが立ち上がり、受け取ったそれを待機していた若い将校に差し出す。


「カイル少佐、必要書類を携えて閣下の執務室へ。至急だ」

「はっ」


短い返答とともに、カイルは敬礼をして封筒を受け取った。

その動作は正確で、いかにも軍人らしい――が、出ていく前、彼の瞳がちらりと橘花をとらえる。


ほんの一瞬。

けれどそこにあったのは、明確な「敵意」だった。


橘花は思わず首を傾げる。


(……え、今の何? なんか悪いことしたっけ?)


カイルが扉を閉めて出ていくと、沈黙を破るようにガウルが苦笑した。


「気にしないでください。彼、ヘーゼル様を今でも“中佐”と呼ぶほど慕ってるんですよ」

「中佐?」


橘花が聞き返すと、ガウルは少し懐かしそうに頷いた。


「以前の階級です。ヘーゼル様が戦場で指揮を執っていた頃からの部下で……命を救われた者も多いんです。だから、ああして隣にいるあなたを羨ましく思うんでしょうね」

「あー、なるほど。アイドルの隣にいるスタッフを妬む、みたいな感じ?」


橘花は苦笑しながら肩をすくめた。


「私、別にファンの推しポジ狙ってるわけじゃないんだけどなぁ」

「はぁ…おしぽじが何かわかりませんが、ご理解いただけたなら幸いです。理屈では分かっても、気持ちはそうはいかないものです」


ガウルが静かに言う。

橘花は少し考えてから、ふっと息を吐いた。


「……ま、わかります。ヘーゼルさんみたいな人なら、慕われるのも無理ないですし」


そう言いつつも、心の中では別の考えが浮かんでいた。


(出歩くとき、あの人に遭遇しないようにしとこ。……絶対、ああいうタイプは睨むだけじゃ済まなそうだし)


ガウルが報告書をまとめながら、どこか楽しげに呟いた。


「ふふ、気をつけてくださいね。カイル少佐は忠義深い分、視野が狭い」

「……なるほど、了解しました」


橘花は苦笑を返しながらも、軽く背筋に冷たいものを感じていた。



数時間後――執務室の空気が変わった。

重厚な扉がノックされ、出て行ったカイル少佐が戻ってくる。


「報告いたします。エルド閣下より、特別区入域の許可が下りました」

「早いな」


ヘーゼルが顔を上げ、静かに頷いた。

彼の迅速な仕事ぶりはいつもながらだが、今回ばかりは眉をひとつ上げた。


「ただし――条件付きです」

「条件?」


橘花が首を傾げるのを横目に、カイルが続けた。

カイルは、懐から一通の書簡を取り出して差し出した。

封蝋は、軍務局の中でも特に上層の者しか使えない紋章。

ヘーゼルが封を切り、静かに目を通す。


「……やはりな」


低く漏れたその言葉に、橘花は不安げにのぞき込む。


「な、なんて書いてあったんです?」

「“入域の際、監査官を同行させること”――それが条件だ」

「監査官?」

「特別区は軍務局の直轄領域だ。本来、外部の人間――つまり私たちのような者が入るには、王族の特命か軍務局長の直許可が必要だ。今回はそのどちらでもないから、監査官を同行させて、行動を記録するというわけだ」


ヘーゼルの説明に、橘花は頬を引きつらせた。


「……つまり“監視付き”ってことですよね?」

「察しが早くて助かる」


ヘーゼルは口元だけで微笑む。

その微笑が、逆に事態の厄介さを物語っていた。


「その監査官って、どんな人なんです?」

「……エルド閣下の直属だ」

「閣下って、めちゃくちゃ偉い人じゃないですか! その人の直属ってやっぱり偉い人ですよね」


橘花の素直な驚きに、副官が肩をすくめる。


「偉いというより、“面倒な人”ですね。局内でも融通が利かないことで有名です」

「面倒って……どのくらい?」

「“眉一つ動かさずに味方を切り捨てる”くらいには、ですね」


副官が軽い調子で言うが、その瞳は笑っていなかった。

ヘーゼルは机上の書類をまとめ、印を押すと立ち上がった。


「特別区の現地時間で、明朝六時に入域。……監査官は現地で合流するそうだ」


橘花は肩を竦めて苦笑する。


「朝っぱらから命懸けの潜入、ってわけですね」

「正式手続きだ。潜入とは違う」

「そうでしたね。合法的潜入、ってやつか」


その軽口に、ヘーゼルがほんの少しだけ笑った。


「……君に関わると、面白いほど問題が舞い込むな」

「だからそれ、私のせいじゃないですって!」


橘花の抗議に、部屋の空気が一瞬だけ和む。


しかしその背後で、カイル少佐は一歩退きながら、橘花に視線を投げた。

今度は敵意ではない。

けれど――探るような、複雑な色がそこにあった。


⸻


夜も深まった頃、馬車が石畳の道をゆっくりと進む。

軋む車輪、馬の蹄の音が静寂を裂く。

橘花は窓越しに夜空を見上げ、苦笑した。


「……また捕まる側に戻ったみたいだな」


隣の席でヘーゼルが小さく息を吐く。


「違う。今回は救う側だ」

「そりゃ頼もしい」

「ただし、敵地のど真ん中だがな」


その言葉に、馬車内の空気がわずかに引き締まる。

運転を任された兵士がルームミラー代わりに後方をちらりと見たように、橘花も後ろの荷台に置かれた護衛兵たちの視線を感じる。



到着したのは、王都中心部からさらに外れた、立入禁止区域の入口。

重厚な鉄門、結界の魔法陣、見張りの兵士たち。

馬車を降り、ヘーゼルが軍務局の書簡を掲げ、入域手続きを進める。


橘花は小声でつぶやいた。


「ここ、本当に王都の中ですよね……?」

「正式には“王都管理外領域”。軍務局直轄だ。王族の目も届かない」

「……やばくないです?」

「だから監査官がつく」


そのとき、低く冷たい声が背後から響いた。


「――ヘーゼル査察官。お久しぶりです」


振り返ると、夜明け前の薄明かりに一人の男が立っていた。

整った軍服、寸分の乱れもない姿勢。銀縁の眼鏡の奥の瞳は氷のよう。

彼の立つ空間だけ、空気がわずかに重く沈むようだった。


「監査官――ロイド・フェルナー。エルド閣下直属、特別監査局所属」


ヘーゼルが名を呼ぶと、男は一礼もせず、淡々と答える。


「特別区入域の同行、現地行動の監視・記録を命じられています。貴方たちの全行動は私の監視下に置かれます」


その冷たい言葉に、橘花は無意識に背筋を伸ばした。

ヘーゼルは小さく息を吐き、淡々と答える。


「出発する。準備は整ったか?」

「問題ありません」


ロイドは即答する。


鉄門がゆっくりと開き、封印術式の音が風に乗る。

馬車がゆっくりと進み、特別区――ヴァール・ハインツの領域へと足を踏み入れた。


橘花は馬車の揺れに身を任せ、胸の奥で小さく呟いた。


「……嫌な予感しかしない」


隣のヘーゼルが静かに答える。


「正しい勘だ。だが、進むしかない」

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