第142話
高い鉄柵の向こう、灰白の石造りの館が立つ。
軍務局直属の区画ゆえ、外から見れば完璧な秩序の象徴。
だが橘花の視線は、その地下に沈む“何か”を感じ取っていた。
「こちらが入域許可証です」
「確認しました。通行は問題ありません。どうぞ、お入りください」
副官のガウルが封書を差し出したそれを受け取った門番は、問題がないことを確認すると封書を返し、軍礼を返した。
今回対応に出た監査官ロイド・フェルナーは、年若いながらも隙のない男だった。
金縁の眼鏡越しに相手を見下ろす目は、どこか測りかねる無表情。
彼の背後では、軍属と思しき者たちが一糸乱れぬ姿勢で並んでいる。
ヘーゼルは無駄な言葉を挟まず、淡々と応じた。
「軍務局長の承認を得て、ヴァール・ハインツの研究施設を臨時監査する」
「承知しております。ですがーー」
ロイドがわずかに顎を引いた。
「今回の許可は、あくまで特別区への入域および上層区画の閲覧に限られています。実験施設、保管庫、あるいは地下構造への立ち入りは、局規第七十五条の制限対象です。監査官としても、許可範囲を逸脱することはできません」
言葉の端に、事務的な棘が混じっていた。
――“監査”と“査察”は、似て非なるもの。
後者が権限を伴う強制調査であるのに対し、前者はあくまで資料確認と面談にとどまる。
つまり、ヴァールが許可をしない限り、軍務局ですら思うように踏み込むことはできない。
ヘーゼルは短く息を吐いた。
「なるほど、形式上は“臨時監査”だな。しかし――」
その瞳が一瞬だけ橘花へ向けられる。
「我々が求めるのは、書面では見えぬ“現場の真実”だ」
それを察したロイドの目がわずかに細まる。
「それでも、許された範囲を逸脱することはできません。……軍務局長命令であっても、規定は規定です」
ロイドは一歩も引かない。
微笑とも皮肉ともつかない薄い表情が、そのまま盾のように立ちはだかった。
淡々と告げられる“規定”の壁に、橘花は内心でほぞを噛んだ。
それでも顔には出さず、ただ静かに次の手を考える。
特別区画となっているヴァール・ハインツ邸に足を踏み入れると、橘花は無意識にヘーゼルの後ろに付く。
身長は一八五センチあるため、歩幅が大きくなりがちだが、ここでは小さく刻むしかなかった。
周囲の壁や床はきれいに磨かれているが、どこか硬質で冷たい空気が漂い、普通の邸宅とは違う緊張感が橘花の神経を刺激する。
迎賓館のような応接間に通されると、橘花は違和感を覚えた。
天井の高さ、豪奢な装飾――だが、装飾の下には厳重な警戒の匂いが漂う。
簡易マップに地下の施設を示唆する影が映る。それを見て思わず口をついた。
「ヘーゼルさん、ここ、地下もある?」
その瞬間、監査官ロイド・フェルナーの視線が鋭く橘花を射抜く。
「橘花殿、なぜそのような質問を?」
冷徹な問いに、橘花は咳払いをして言い訳する。
「感覚的に……足が地面についてないっていうか。高いところに登ったような感覚がしたんです。人間族に説明するのは難しいんですが」
「そうか、野生の勘か」
ヘーゼルは静かに微笑むが、対するロイドは目を細める。
目に映る橘花の異種族としての感覚――無防備に見えるが、彼の目には異常な勘の鋭さとして映った。
「異種族は、我々とは感覚が異なるのですね」と、僅かに肯定のような言葉を漏らすものの、その瞳は警戒で光っていた。
橘花は小さく息を整え、ヘーゼルの後ろに身を寄せる。だが、心の奥底で地下への不安がざわつく。
この邸宅が単なる屋敷でないことは、周囲の無言の監視や重厚な床の響きからも容易に察せられた。
ヘーゼルは橘花の肩にそっと手を添え、視線をロイドに向ける。
「ロイド殿、地下の管理状況も確認させていただけますか」
「現時点で局命が及ぶのは地上区画までです。地下は軍機密に該当します」
「やはり地下があるそうだ、橘花」
ロイドの静かだが明確な圧を含む声に対し、ヘーゼルは聞きたいことを聞き出せたと不敵に笑みを返した。
グッと奥歯を噛み締めたロイドは、それ以上は答えず、じっと橘花を観察する。
長身で大男に見えるが、顔立ちはまだ青年のように見えるその姿――「油断なく見張るべき相手……いや、勘が鋭い者にすぎないか」と、自身の思考を押し込めるように視線を外した。
橘花は、ヘーゼルが冷静に事を運ぶその背中を頼りに、簡易マップを駆使してこの区画から地下へのルートを探る。
しばらくして橘花は簡易マップから、地下につながる入り口の存在を見つけた。
視線をそっとヘーゼルに向け、耳元で低く囁く。
「私が偶然を装って地下施設へ強行突入します。ヘーゼルさん、全員を連れて降りてきてください」
ヘーゼルは眉をひそめ、静かに問い返す。
「……違法じゃないのか」
橘花は即座に答える。
「違法なのことしてるの、この施設の方です」
ため息をつき、ヘーゼルは少し考え込む。だが、やがてゆっくりと頷いた。
「何をコソコソ話しているんです?」とロイドから耳打ちの理由を尋ねられ、二人は打ち合わせもないまま自然な芝居に移行する。
「橘花殿がトイレに行きたいそうだ。ここで借りられるか聞かれただけだ」
橘花は、まさかヘーゼルから下の理由を出されるとは思わず頬を染め、声が少し高くなる。
「……すみません。その、勝手に動けないと聞いているので、ヘーゼルさんに確認したんです」
この微妙な演技が、他者の目には自然な反応として映った。羞恥に顔を赤らめる橘花の仕草は、緊張の中で最も無防備に見える。
ロイドからは、控えめだが確かな声が返ってきた。
「トイレなら、外に出て借りられます。案内をつけますので、どうぞ」
橘花はわずかに口元を引き締め、息を整える。視線はロイドの気配を意識しつつ、軽く頷いた。
「ありがとうございます」
橘花はヘーゼルと別れる形で、そのまま先を歩いて案内する警備の目を自然に避けながら外へ向かう。向かった通路の片隅で、目的の地下への入り口――大きな開き戸が視界に入った。扉は重厚で、普通の人間ならまず開けられない代物だ。
橘花はふと立ち止まり、扉に手を触れる。演技で微笑みを浮かべ、わざとらしく感嘆の声を上げる。
「こんな頑丈に人間族は作るんですね。私が寄りかかっても大丈夫なくらいだ」
ロイドに見られぬよう、力を込めるタイミングを測る。周囲の警備はヘーゼルの方に集中していて、橘花の方に注意を向けていない。
橘花は体重をゆっくりと扉に預ける――ちらりと視線だけ振り返れば、ヘーゼルは微かに息を詰め、目だけで合図を送っている。
橘花は軽く後ろに体を引き、そして“人が押し開けるには意味のない一点”へと、拳ではなく掌底を静かに当てた。
力を叩きつけるのではなく、細く、鋭く、一点に集約して――押し出す。
一瞬の静寂の後、扉がギシリと軋み、重みを感じながらも橘花を受け入れる。
「……もうちょい」
わずかに金属が悲鳴を上げた瞬間、扉は音もなく枠ごと“内側”へと傾く。
その瞬間、力をさらに込める。橘花は寄りかかる状態で扉と一緒に地下の階段へ落下した。
落ちていく感覚と共に暗がりが一気に周囲を覆い、冷たい空気と鉄の匂いが鼻をつく。
ーーガンッ、ガラ、ガッシャーン!
扉が最下層の床に落ちて耳に痛いほどの音を響かせる。
落下の衝撃を緩衝しながら、身体能力を総動員して受け身をとった橘花は、ひとまず膝をついて周囲の闇を見渡した。
かすかな湿気と薬品の匂い。息を呑むほど静かで、上階の喧騒が嘘みたいだ。
視界の端で――簡易マップが“明滅”した。
地下階に足を踏み入れたことで、今まで灰色にぼやけていた情報が、一気に色彩を取り戻す。
霧のように曖昧だった輪郭が、嘘みたいに澄みわたっていく。
そして。
仲間を示す黄色のマーカーが、ひとつ。
「ーーくそっ、あの野郎の虚言だったらよかったのにっ!」
簡易マップの灯火に、進むべき闇を見据えた。
その胸の内に灯った覚悟は、落下の衝撃よりもはるかに重く、そして静かに燃えていた。




