第140話
胸糞回。
――ヴァール・ハインツ邸 地下実験棟。
鉄と血の匂いが、湿った空気に沈んでいる。
白い光の魔導灯が、冷たく無機質な床を照らしていた。
中央には、鎖に繋がれた少年。
首元には黒い金属の輪――隷属の首輪。
それが淡く青く光るたびに、ソータの身体がびくりと震える。
その反応を、ヴァール・ハインツは無感動に観察していた。
「……ふむ。体内魔力量、予想より安定しているな。精神干渉による変動値もわずかだ。これは使える」
ソータの顔は汗に濡れ、唇は乾いてひび割れていた。何度も命令を拒もうとした。そのたびに、首輪の術式が痛みと恐怖を流し込む。悲鳴を上げれば、その声すら命令違反とみなされ、さらに罰が加わる。
――泣くことすら、許されない。
ようやくヴァールが実験装置の記録盤を閉じた。
満足げに頷き、手袋を外す。
「よし。次の段階に入るぞ」
「……つぎ、の……?」
ソータの声は掠れていた。
目の焦点はもう合っていない。
「これから出てくるものに対し――それを“適度に殺す”魔法をかけろ」
「……ころ、す……?」
意味が、理解できない。
理解したくなかった。
「そうだ、殺すんだ。完全にではない。死なぬ程度に、しかし致命的に。対象の生命力をどの程度の魔力で殺せるか測るためだ」
淡々とした口調。
それはまるで、日常の報告のようだった。
実験室の奥の格納庫らしき場所から運ばれてきた鉄格子の中で、何かが蠢く。
最初は小さなネズミのような魔物だった。
ソータは震えながらも、命じられるままに小さな炎を放つ。
焼け焦げる匂い。短い悲鳴。
ヴァールは満足げに頷く。
「ふむ、いい反応だ。その調子で次」
そうして次々に出てきたモンスターを無感情に殺していく。
標的は次第に大きくなり、今度は中型の獣型モンスターになる。
牙を剥き、唸り声をあげるモンスター。
だが、ソータの心はもう麻痺していた。杖を握り、火の弾を放つ。
短い悲鳴と共に魔物が崩れ落ちる。
ヴァールは静かに記録盤に指を走らせた。
「順調だ。では――最終段階に入る」
彼がスイッチを入れると、格納庫の奥で重い音が鳴る。まるで自動のベルトコンベアで物が運ばれる工場のようだ。
鎖のすれる音、鉄の軋み。
奥の格納庫からゆっくりと前に押し出された檻の中に、人影が見えた。
「……は?」
ソータの脳が、拒絶する。
檻の中にいたのは――皺の刻まれた顔の老いた獣人だった。
服はぼろぼろで、両手は鎖につながれている。
怯えた瞳が、ソータを見た。
ヒト、だった。
モンスターなんかじゃない。
「ま……って、これ、人だよ!? な、なんで――」
「命令を遂行しろ」
「殺せって……この人を!?」
「“対象”だ。感情を挟むな」
ソータの手が震えた。
杖の先に魔力が集まる。
違う。やりたくない。
でも首輪からの術式に脳が、体が、焼かれるように痛む。
体が勝手に動く。
心が叫ぶ。
頭の中に、痛みが走る。
「やめろ……やめろ、やめろやめろっ!!」
声が裏返り、涙があふれる。
「ヤダ、嫌だっ!! 嫌だあああああああああっ!!!」
閃光。
杖の先から魔力の奔流が解き放たれた。
老いた獣人の叫びが、地下の空間に響き渡る。
焦げた匂い。
崩れ落ちる音。
そして、静寂。
ヴァールはゆっくりとソータのもとへ歩み寄り、淡々と告げた。
「いい反応だ。精神汚染率、予測値の範囲内。お前は、よく“壊れず”に済んだ」
その言葉が、冷たい水のようにソータの耳に落ちた。視界の端で、焦げた肉がまだ動いている。
ソータは嗚咽を漏らすこともできず、ただ膝から崩れた。
ヴァールは微笑みもせず、実験記録を閉じる。
「さて――これで、魔力を適度に操れぬ者にも適用できるかもしれん」
その目に映るのは、人ではない。
“材料”だった。
焦げた肉の臭いが、まだ空気の奥にこびりついている。
魔導灯の光は白く、冷たく、どこまでも人の気配を拒んでいた。
ソータは、両膝をついたまま動けずにいた。
何も考えたくなかった。
だが、ヴァールの靴音が近づく。
それだけで、また心臓が痛いほどに跳ね上がる。
「立て」
短い命令。
首輪が青く光る。
反射的に、ソータの体が従った。
足元は震えているのに、立ち上がることを止められない。
ヴァールは記録盤に手をかざし、淡々と指示を続けた。
「次の実験に移る。――“魔法抵抗個体”の制圧試験だ」
鉄扉が音を立てて開き、実験室の奥から低い唸りが響く。
そこに現れたのは、黒い甲殻を持つ魔獣。
六本の脚で床を叩き、赤い瞳を光らせていた。
「《バジリスク種・改良個体》。高位魔法抵抗を持つ。通常の冒険者では単独での撃破は不可能だ」
ヴァールの説明は、まるで講義のように淡々としていた。
その口調が、余計に冷たかった。
「……もう、やめて……」
ソータの声は、乾いた音のようにかすれていた。
「命令を遂行しろ」
再び、首輪が光る。
脳髄に焼けるような痛みが走る。
その痛みの隙間に、言葉が流れ込む。
――攻撃しろ。
――敵を焼け。
――命令を実行せよ。
「や、だ……っ!」
そう叫びながらも、体が勝手に杖を構える。
魔力が渦を巻き、空気が震える。
ヴァールは冷静に記録盤を操作し、注視する。
ソータの瞳が光を帯びた。
青く、冷たい光。
「《フレイム・ランス》」
低く呟いた瞬間、炎の槍が放たれた。
轟音。
衝撃波。
次の瞬間、バジリスクの頭部が蒸発した。
残された巨体は、数秒遅れて崩れ落ちる。
部屋の空気が震え、ヴァールの口元が驚愕でわずかに動いた。
「……一撃、だと?」
彼は近寄り、死体を検分した。炭化した外殻、融解した内部組織。通常の高位魔導士でも、単独では貫通できない。
だが、ソータは――ただ一度、言葉を紡いだだけ。
ヴァールの瞳が揺らめいた。
冷静を装うが、抑えきれない何かが滲む。
「……すばらしい! いや、これは理論値を超えている!」
「…………」
「ソータ。君は本当に、奇跡だ」
嬉々とした声。
だが、その奥には何か別の色が混じっていた。
ヴァールはふと、目を伏せた。
長い沈黙のあと、低く呟く。
「この力を持った君が、五年前にいたならば――」
その言葉は、自らの喉で途切れた。声の震えを、彼自身が押し殺す。
何かを思い起こすかのように、胸元の帰還の勾玉を指で撫でる。
しかし次の瞬間、彼の表情は再び抜け落ちた。
「……実験を続ける」
感情を閉じ、記録盤に指を走らせる。
鉄扉が再び開き、さらに巨大な魔獣が現れる。
黒い羽を持つ二首竜――《ナグ・ラフル》。
古代竜種の亜種。
その存在自体が“魔力の塊”とされ、単独で王国の都市を一つ滅ぼすとまで言われた存在だ。
「これを一撃で仕留められたならば、君の魔力量は“兵器”として登録できる水準に達する」
「……もう、やめてよ……お願い……」
「命令だ」
その言葉が、鎖よりも重く心に沈む。
首輪の術式が反応し、青白い光がソータの体を包んだ。
震える唇が、勝手に動く。
己の意思ではない。
刻印された命令が、彼の喉を通して言葉を紡ぐ。
涙が頬を伝いながらも、杖が再び掲げられた。
「――《イグニス・レクイエム》」
瞬間、空気が変わった。
光が――音を呑み込んだ。
世界が白に染まる。
温度は感じない。
それなのに、肌が焼ける錯覚だけが走る。
ナグ・ラフルが咆哮を上げた。
だが、その声は届かない。
光の奔流が、咆哮を呑み込み、骨を、鱗を、存在を――燃やし尽くしていく。
音も、影も、残らない。
ただ“光”だけがあった。
白い炎。
それは炎というより、“祈り”に近かった。
ヴァールの頬に、淡い光が反射する。
その瞳には狂気にも似た輝きが宿っていた。
「……見ろ。魔法抵抗Aランクの竜種が、触れる間もなく消滅だ。信じられん……これほどの純度の炎を、人の器が――」
息を呑み、言葉を切る。
「……実験成功。これで、私は“神の領域”に手をかけた」
目の前でソータが倒れる。体中の魔力を絞り出し、痙攣しているのだ。
その瞳から、涙がこぼれた。悲しみでも苦痛でもない。
何か、大切なものを壊してしまったことを理解する涙だった。
だが、その涙さえも、ヴァールにはただの「データ」に過ぎなかった。
「記録:発動時間三秒。魔力消費率百パーセント。精神汚染レベル、臨界突破――再使用は困難だな。……だが、兵器としては完璧だ」
微笑の端が歪む。
冷酷で、美しい笑みだった。
その足元で、ソータは力なく呟く。
「……兄さん……きっか、さん……ごめ……な、さ……」
その声を、誰も聞くことはなかった。
ただ白い残光だけが、まだ壁に滲んでいた。
まるで――誰かを弔うために残された、鎮魂の灯のように。




