第139話
執務室の扉の外で、小さな足音が二度、ためらうように止まった。
兵士の低い声が聞こえる。
「……ヘーゼル様、ひとり、お話ししたいと申し出た者がいます」
「入れ」
短く告げられた声に続いて、扉が開く。
現れたのは、まだ十歳そこそこの少年だった。
小さな体に大きすぎる制服。
袖口から覗く手は震えているが、瞳は真っ直ぐにこちらを見ていた。
ヘーゼルが一瞥して言う。
「小姓か?」
「は、はい。セリオ侯爵家の……アルテンと申します」
小さな声ながら、胸に手を当てて礼をするその所作には、幼いながらも貴族の家の子息として叩き込まれた礼儀が感じられた。
だが、その目の奥にある怯えは隠せない。
無理もない。――つい数刻前まで、仕えていた主の屋敷が罪の現場として押収され、兵士たちが家中をひっくり返していたのだから。
橘花はそんな少年を見て、ふっと目を細めた。
どこかで見覚えがある。
「……もしかして、地下の見回りに来てた子か?」
アルテンがはっとして顔を上げる。
「お、おぼえて……」
「覚えてるよ。あの時、お前、びくびくしてたろ。だから、飴やった」
橘花が苦笑を浮かべながら言うと、アルテンは思わずポケットを握った。
小さな包み紙の感触が指先にあった。
――あの朝、こっそりもらった、小さな琥珀色の飴。
恐ろしい地下牢の巡回で、唯一、あたたかい記憶として残ったもの。
「……はい。あの時の……」
アルテンの声が少し震える。
でも、目はもう怯えていなかった。
ヘーゼルが椅子から身を乗り出した。
「アルテン。君が話したいことというのは?」
少年は唇を噛み、しばし迷ったあと――決意したように、言葉を吐き出した。
「……運ばれていく檻を、見たんです。中にいたのは、人間の男の人でした」
橘花とヘーゼルの視線が交わる。
空気が、一瞬で張り詰めた。
「特徴を言えるか?」
ヘーゼルの声が低く落ちる。
「十六か十七歳くらい。首輪をしてて、奴隷みたいでした。手枷もあって……でも、服は冒険者のものでした」
「髪や瞳の色は?」
「フードをかぶっていて見えませんでした。でも……泣いてたんです」
アルテンの声がかすかに震えた。
「見ちゃいけないって分かってたのに、目が離せなくて……。本当は、怖くて。このことを話したら罰をもらうと思ってました。でも……」
橘花が静かに言う。
「でも?」
「……あの人が、もしかしたらそこの鬼人族さんの探してる人かも……って思って……」
少年は一瞬ためらい、そして小さく手を握り締めた。
「……その檻を運んでたの、見覚えのある人でした。たしか――軍務局の紋章をつけてた人がいました」
その言葉に、橘花とヘーゼルは同時に目を細める。
――軍務局。
その名が出た瞬間、部屋の温度が一段階下がった気がした。
ヘーゼルは低く呟く。
「……ヴァールの連中か」
「あ、はい。ヴァール隊長さんの部下の方でした」
アルテンが言い終わると同時に、ヘーゼルは深く息を吸い込み、立ち上がった。
「……ありがとう。君の話が、命を繋ぐかもしれない」
アルテンは小さく頷いた。
その表情は、年齢に似合わぬほど真剣だった。
「よく話してくれたな。次に渡す時は、もっと甘い飴にするよ」
アルテンの唇が、わずかに震えながら笑みに変わった。
そして兵士に導かれて部屋を出ていく。
その小さな背を見送りながら、橘花はぼそりと呟いた。
「飴ひとつで、あの子は勇気を出したんだな……」
「……ああ。だが、その勇気が教えてくれたことは――重い」
ヘーゼルの声は、鋭い怒気を孕んでいた。
今の情報が、ヴァールの屋敷へ繋がる糸になる。
ヘーゼルはすぐに動き出すつもりだった。
「そういえば――君に伝えておかねばならないことがある」
「……何か、嫌な予感しかしないんですけど」
書類を束ねながら、ヘーゼルが何気なく言った言葉に、橘花が顔を上げる。
「ガンジが軟禁されている」
その一言で、室内の空気が凍りついた。
「――は? ガンジさんが!?」
声が裏返った橘花に、ヘーゼルは静かに頷く。
「ああ。ギルドに君の“共犯の疑い”で拘束された。君の冤罪を証明しようと王都中を駆け回っていたらしいな」
橘花の手が震えた。
「そんな……何でそこまでしてくれたのに……!」
胸の奥から怒りとも悲しみともつかない声が漏れる。
「ギルドにとって、“君に味方する者”は全員、危険分子だ。見せしめの一環だろう」
ヘーゼルは冷静に言いながら、机の上に一枚の封書を置いた。
「ただ、彼の件はこちらでも手を打っている。正式な取り調べになる前に、別の部署へ移送させる手筈を整えた」
「……そんなこと、どうやって」
「君のせいでな。いろいろな部署が騒がしい。その混乱を利用させてもらった」
橘花は頭を抱えた。
「もう……だからって、そんなことまでしてくれなくても!」
「貸しを作っておくのは悪いことではない」
ヘーゼルは淡々とした声で言う。
「君が借りと思うなら、後で返してくれてもいい」
橘花は大きく息を吐き、つい笑ってしまった。
「ほんっと、頭のいい人ってそういうところ抜け目ないですよね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「……でも、嫌味がないからまだマシです。そういう人、嫌いじゃないですし」
ヘーゼルはほんのわずかに目を細め、笑みともつかぬ表情を浮かべた。
「それは光栄だ。では次に――“特別区画”に入るための手筈を整えようか」
「……はいはい、どうせもう逃げられないんでしょ、私」
橘花は苦笑しながら椅子から立ち上がる。
「逃げない方が賢明だ」
「知ってますよ、そういう言い方ずるいんですって」
互いの視線が一瞬だけ交わる。
その瞬間、互いに――もう後戻りできない、と悟っていた。




