第138話
夜明け前、王都を包む霧の中。
整然と並ぶ軍務局の兵列が、郊外にある侯爵邸の前に沈黙していた。
「――軍務局令第十二条、ならびに治安維持法第七項に基づき、セリオ侯爵邸を査察する」
ヘーゼルの声が、冷たく響く。
王都に住まう貴族で、その言葉に逆らえる者はほぼいなかった。
鉄製の門が軋む音を立てて開かれ、兵たちは次々と屋敷内へ踏み込む。
煌びやかな外観に似つかわしくない、地下へ続く隠し通路が発見されたのは、ほんの数分後のことだった。
「中佐、こちらに未登録の地下区画があります!」
副官の報告に、ヘーゼルは静かに頷いた。
「やはりな。――開けろっ!」
扉が開かれた瞬間、こもった湿気と鉄の臭いが吐き出される。その奥に地下牢があり、鎖につながれた鬼人族の男がいた。
橘花。
その名を呼ぶより早く、彼の身体がゆっくりとこちらを向く。
「……あれ? ヘーゼルさん?」
予想外の人物が来て驚く橘花に、ヘーゼルは短く答える。
「軍務局だ。ここの侯爵に対する違反が見つかり捜査の結果、この牢を見つけた状況だと認識してくれ」
ヘーゼルの指示で兵が橘花の鎖を外すと、金属音が乾いた響きを残した。
なんとなく察した橘花は自由になった腕を下ろし、「ヘーゼルさん、ギルドの査察官だと思ってだけど、結構偉い人だったんですね」と微笑んだだけの態度と言葉に「感想はそれだけか」と呆れるヘーゼル。少し悩んだ様子を見せた橘花から「ちゅーさ、って呼んだ方がいい?」と首を傾げられ、ため息混じりに「やめてくれ」と返す。
だいたいヘーゼルの肩書きやこうした軍務局を動かす姿を見た者は、媚びてくる者も少なくない。だが、橘花の性格を考えれば想定内の反応だった。
「この牢……登録記録がありません」
調査を終えた副官が報告する。
「魔法封印も独自式、施術者の署名も偽造です」
「――決まりだな」
ヘーゼルの声に、後ろに連れてこられていた屋敷の責任者であるセリオ侯爵が蒼白になる。
これでセリオ侯爵の失脚は決定的だった。
橘花はその騒ぎを背に、一度だけ隣のヘーゼルを見ながら問う。
「……私以外に、誰か捕まってませんか?」
「確認させよう」
ヘーゼルは手早く通信石で指示を飛ばす。
やがて、次々と報告が返ってくる。
「該当者なし。地下牢はこの一室のみ」
「収監記録もこの一件だけです」
「……そうか」
橘花は静かに目を伏せる。
その顔に、ほんの一瞬だけ陰が差した。
だが副官が、最後の報告書を手に駆け込んできた。
「中佐――一点、気になることが」
「何だ」
「この邸の出入り記録です。使用人と貴族関係者の名は全て照合済みですが……」
副官は紙をめくり、目で一行をなぞる。
「昨日の時刻を最後に、軍務局付の特別査察官――ヴァール・ハインツ殿が、この屋敷を“出ていない”記録になっております」
ヘーゼルの眉がわずかに動く。
「……彼が? ここへの派遣許可は確かに出ていたが」
「入場記録はあります。しかし、退出の記録が一切ありません。屋敷内のどの部屋にも姿がないとの報告です」
静寂が落ちた。
橘花はその会話を黙って聞いていたが、ゆっくりと立ち上がり、低く呟いた。
「――ヴァール、か」
その声には、怒りとも警戒ともつかぬ熱がこもっていた。
ヘーゼルはすぐに指示を飛ばす。
「屋敷の全区画を再捜索っ! 転移痕も確認しろ」
「了解!」
だが、どれだけ兵が走り回っても、ヴァール・ハインツの姿は見つからなかった。
正式記録にはセリオ侯爵邸駐在とされていたため、居室も用意されており、そのヴァールの居室として使われていた石壁には、うっすらと魔力の揺らぎが残っている。
――転移の痕。
ヘーゼルはそれを見つめ、唇を固く結んだ。
「逃げたか……あるいは、計画のうちか」
橘花は、その光景を見つめながら小さく呟く。
「奴は、“何か”を持ち出したな」
朝日が屋敷の外壁を照らす頃、その言葉だけが、地下の冷気の中で長く残った。
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朝日がのぼり、慌しかった音もなくなり、窓の外で兵の足音が遠ざかっていく。
セリオ侯爵の部屋の一角を借りて、司令室がわりに使っていたヘーゼルは報告書を閉じ、疲労を滲ませた指でこめかみを押さえた。
その向かいで、救出された橘花が無造作に椅子へ腰を下ろす。
「……ヴァールってヤツ、ヘーゼルさんは知ってるんですか?」
唐突な問いに、ヘーゼルの動きが止まる。
視線を上げたとき、その瞳にはわずかな警戒が走っていた。
「知っているが?」
「牢の中にいる時に来た。あ、名前は後で見回りの兵に教えてもらったから知ってる。なんか、こっちを観察してるみたいな奴でさ。顔も名前も忘れがたいタイプだったから」
橘花が軽口を叩くが、ヘーゼルの表情は笑わない。
彼は小さく息を吐き、声を潜めた。
「……ヴァール・ハインツ。軍務局所属の“特別査察官”だ。表向きはな」
「表向き、ね。じゃあ裏は?」
「“特務執行部”の指揮官のひとりだ」
「特務……って、なんです?」
「……暗殺部隊だ」
ヘーゼルの低い声に、部屋の空気がわずかに冷える。
橘花は思わず眉を上げた。
「暗殺って……そんなの、堂々と所属してていいんですか?」
「堂々とはしていない。だから“特務執行部”なんだ」
橘花は椅子の背にもたれ、息をついた。
どう考えてもろくでもない話だ。
「で、そのヴァールってのは、何してたんです?」
「セリオ侯爵の屋敷に“軍務局から貸し出し”という形で派遣されていた。……が、屋敷の記録では、“入ったまま出ていない”」
「逃げたってことですか?」
「そうだとすれば、逃げた先が問題だ。彼のような男は、ただ逃げるために動く人間じゃない」
ヘーゼルの言葉に、橘花は少し真顔になる。
確かに、牢で見たあの眼――何かを試すような視線を思い出す。
「……屋敷の中、全部調べたんですよね?」
「ああ。だが、何かがおかしい」
「おかしい?」
「“持ち出した形跡”がある。だが、何を持ち出したのか、記録が一切ない。」
橘花は少し沈黙した。
その“何か”の正体を想像するには、まだ材料が少なすぎる。
けれど、ヴァールのあの言葉が脳裏をよぎった。
――“頼る相手を奪えば、心は崩れる”。
「……嫌な予感しかしないな」
橘花がぼそりと呟く。
ヘーゼルは短く頷き、視線を窓の外に向けた。
「ヴァール・ハインツ。奴の動きは、軍務局でも掴めない。追うには……王族の許可が必要だ」
「……つまり、普通の手段じゃ、手出しできないと」
「ああ」
橘花は腕を組み、ため息をついた。
救出は終わったはずなのに、胸の奥には新しい不穏が芽を出していた。




