第137話
夜も更け、城の灯がほとんど落ちた頃――ヴァール・ハインツは、書斎の窓辺に立ち、闇の向こうを見つめていた。外は月も薄く、風が石畳を這う音だけが耳に残る。
やがて彼は懐に手を入れ、ひとつの小さな玉を取り出す。淡い青光を帯びたそれは、掌の上で静かに脈打つように揺らめいた。
――《帰還の勾玉》。
自らの屋敷へと転移できる遺産アイテム。本来なら冒険者たちが喉から手が出るほど欲しがる代物だ。だが、今となってはこの世界で現存する数はごくわずか。
五年前の鉄の侵略者との戦いのあと、その製造技術は跡形もなく失われた。
かつて、無理を押して手に入れたこの勾玉を魔法使いだった妹に渡したが、結局それを使わぬまま逝き、再び手元に戻ってきた。
「異種族にすがり、共存を掲げた王侯貴族たちが……今では人間族至上主義を唱えている。恐れを忘れぬまま、憎悪を信条に変えただけだ。――滑稽なものだな」
小さく笑いを噛み殺し、ヴァールは奥の扉を開けると、そこには居室空間があった。だが、普通の室内とは違うのは、鉄と血の臭いがしている。
その中に隷属の首輪、魔力抑制の腕輪、そして鎖で繋がれた少年――ソータがいた。
ヴァールが一歩足を踏み入れた瞬間、ソータは怯えではなく、敵意の色を宿した瞳で彼を睨みつけた。
「許可はもらった」
ヴァールの声は淡々としている。
「お前はこれから、私の屋敷に連れていく。光栄に思え――屋敷の者以外で足を踏み入れた者は、これまで一人もいない」
ソータは震える唇で、途切れ途切れに声を絞り出した。
「……お、こ……とわり、だっ……!」
ヴァールはその抵抗を愉快そうに見下ろす。
「おやおや、あまり反抗的な態度をとると――」
言葉の終わりと同時に、首輪の魔法陣が青白く光った。ソータの体がびくりと跳ね、喉から押し殺した悲鳴が漏れる。
「――そうだ。首輪の術式が反応する。お前の体は、すでにこちらの支配下にある。無駄な抵抗は、やめておくことだ」
ヴァールの声音は、あくまで静かだった。怒気も情もなく、ただ観察者のような冷たさだけが残る。
ソータの苦しげな呼吸が、鎖の鳴る音に紛れて小刻みに響いた。ヴァールはそれを意にも介さず、勾玉を取り出し、もう片方の手でソータの頭に軽く手を置き、息を吐く。
「――さて、実験を始めよう。“人間の限界”を、確かめるためにな」
青い光が室内を満たし、視界が一瞬、白に染まった。その直後、部屋の中から二人の気配は――完全に消えた。
──
屋敷の一室が淡く光を放ち、視界が歪む。次の瞬間、冷たく乾いた薬品の匂いが鼻を刺した。
そこはヴァール・ハインツの屋敷――いや、屋敷というより、今では実験施設と呼ぶ方が正確だった。
白く磨かれた石床、壁に並ぶ魔導管、整然と並んだ魔法陣と魔道具。中央の台座には、拘束用の装置が組み込まれた寝台が一つ。それは、生きた人間のためのものではなく、試料を置くためのものだった。
ヴァールは淡々とした動作で帰還の勾玉を懐に戻し、手袋をはめ直す。ソータは膝をつきながらも、床に手を突いて立ち上がろうとした。その動きだけで、鎖が音を立てる。
「ここは……どこだよ……っ」
「私の屋敷だよ。と言っても、地上の迎賓室ではないがね。ここは――研究棟。軍務局から正式に認可された“特別区画”だ」
ヴァールは手元の帳面をめくりながら、魔力反応を計測する水晶を台の上に置く。その水晶が、ソータの魔力に反応し、僅かに光った。
「ふむ……やはり面白い。耳長族の血でも、竜人族でもない。純粋な人間の構造を保ちながら、体内に異質な魔素循環があるとは」
「な、に言って……」
「言葉にするなら“異世界干渉”。この世界において自然発生するはずのないエネルギー流。通常の魔法体系で説明がつかない。――お前が異物であることの、何よりの証拠だ」
一瞬、ソータは目を見張ったが、歯を食いしばって抵抗した。
「……そんなもん、勝手に決めつけるなっ!」
「では、ひとつ。試そうじゃないか。火球を出すイメージで手に魔力を集めろ」
「うっ……!」
命じられたことを実行しようと反応する体と、拒否しようとして術式が作動して呻くソータに対し、ヴァールは面白そうに片眉を上げた。
「反応速度、声帯の震え、体温変化――どれも、極めて人間族だ。しかし、集まる魔力量は、その魔法を放つのに最適な量に調整されている……実に、興味深い」
机に置かれた書類をパラリと捲る音が、妙に響く。
「冒険者ギルドは、異種族を利用している。貴族の政治では物理的な支配を……だが、私は違う。“理解”こそが真の支配だ。異物を理解すれば、支配は完全になる」
ソータはその言葉を聞きながら、目を伏せた。息を吸うたびに、体の奥で何かがざらりと軋むような痛みが走る。
ヴァールが近づく足音が石の床を打つ。
「安心しなさい。痛みを与えるつもりはない。少なくとも――“観察対象”としてのお前が、壊れるまでは」
その瞬間、ソータは鎖を強く引いた。カシャン、と音を立て、首輪が発光する。激痛が脳に走り、体が痙攣した。それでも、ソータは睨みつけたまま言った。
「……ぼくは……お前の……ものじゃ、ない……!」
ヴァールは、まるで詩でも詠むように微笑んだ。
「ならば証明してみせろ。お前自身が“人間”であると。私の手の中で――ね」
そして、背後の魔法陣がゆっくりと輝きを増していった。白光が広がるたびに、ソータの影が細く、長く、引き伸ばされる。その光景を、ヴァールは冷たい美しさをたたえた眼で見つめていた。
そして、ヴァールの胸中には、ひとつの確信が芽生えていた。
――この少年の存在こそ、異界への扉を開く鍵になる、と。




