96 貴族の館へいらっしゃい
「すげぇ」
屋敷の中へ入ったテオバルトの第一声はそれだった。
広い。とにかく広い。
三階建てのアパートがそのまますっぽり入れられるような玄関ホールの床は大理石。じっくり見ると、化石らしきものも見つかった。
シャンデリアがあることを期待して天井を見上げたが、それは無かった。シャンデリアどころか、光源が見当たらない。多分、魔法で照らしているのだろう。
「掃除、大変だろうなー」
ぐるりと見渡して、テオバルトはそう呟いた。それを聞いた、先を歩くギルベルトが振り返る。
「召使が沢山居るんだろ」
「何処掃除したか分かんなくなりそうだ」
今度は、彼も肩をすくめて苦笑した。同じ意見らしい。
「お帰りなさいませ……あらっ、お客さまですか?」
「あぁ。出来れば父上にも会わせたいのだが、居るか?」
「執務室にいらっしゃいます」
「呼んできてくれ」
「かしこまりました、オーラフ様」
そのやり取りを聞いたテオバルトは、心の中で首を傾げた。
ここに来るまでに簡単な会話程度なら分かるようになったものの、彼等の会話は今一よく分からない。
「なんて?」
「旦那さんに合わせてくれるとさ」
「……ふぅん?」
二人はオーラフにより、応接間に通された。
やはり豪華な室内に、いくつかの細やかな細工が施された椅子がテーブルを挟むように置かれている。
ワゴンにケーキをのせた、一人の召使いが入って来た。目の前に置かれたケーキを見て、テオバルトは一瞬だけ舌を出して、唇を舐める。
ケーキって、こんなにいい匂いだったっけ?
「どうぞ、食べてくれ。まだあるだろうから、足りないのなら持ってこさせよう」
ギルベルトに訳してもらうと同時に、テオバルトはナイフを手に取った。
…………ナイフ?
あれ? なんでコレ? フォークは? こんなんで食べたら口切るぞ?
「オーラフ兄さん、彼女、アンタに何か恨みでも持ってるんじゃないですか」
ギルベルトが、部屋の隅に控えた召使をナイフで差し示して言った。視線の先のオーラフも、ナイフを指でつまんで弄んでいる。ぼんやりと虚空を見ながら、彼は呟くように言った。
「……イレーネだな」
「うふふっ」
可愛らしい笑い声と共に、人形のように可愛らしい、小さな女の子が現れた。
正確に言うと、テーブルの下からテーブルクロスを頭に引っかけつつ、這い出てきた。
「あぁ、前会った時、奥様のお腹の中に居た子ですか?」
「そうだ」
ひょいと眉を上げたギルベルトにそう返すと、オーラフは女の子に向き直る。
「こら、イレーネ! していい事と悪いことがあるだろう! お客様のフォークを、ナイフにすり替えるとは何事だ!」
馬鹿でかい怒鳴り声に、イレーネはびくっと首をひっこめ、手を胸元に持ってくる。そして「ふぇ」という声を上げたかと思うと、火が点いたかのように泣き出した。
「あーあ、妹泣かせた」
おろおろするオーラフに、馬鹿にしたかのような声を上げるギルベルト、大声を上げて泣くイレーネ。それを順々に見ながら、テオバルトは最後から二番目の欠片を口に入れた。
ギルベルトが立ち上がり、イレーネの方へと歩く。テオバルトも最後の一欠片を飲み込んで立ち上がった。
ギルベルトはイレーネをまたぎ、彼女の脇の下に手を入れて持ち上げる。
「そら、あまり泣くな。また叱られるぞ」
そう耳元でささやくと、彼女は余計激しく泣いた。
「悪くなってるじゃないか!」
「泣き疲れさせた方が早いかと」
当然ながら、オーラフの表情は納得していない。
テオバルトは手近に会ったナプキンを取ると、それでイレーネの顔を優しく拭いてやった。少しだけ収まったかな?
「よしよし、怖かったのか?」
ギルベルトが頭を撫でながら言うと、彼女は大きく頷いた。
テオバルトがジト目でオーラフを見ると、彼はすっと視線を逸らした。
「お兄様は、やっちゃいけないって言ってるだけなんだ。ほら、お客に怪我をさせたら大変だろう?」
ギルベルトはイレーネを抱き直し、自信の上半身ごとゆっくりと左右に回す。
「だから、やるのなら、被害の小さい悪戯にすることだ」
「ちょっと待て。悪戯を勧めるようなことを吹き込むな!」
「イタズラを通して、子供は賢くなるんですよ。どうすれば大人が驚くか、困らせることができるか……って。結構頭使うんです」
「な」と、突然話を振られ、テオバルトは反射的に頷いた。
「オーラフ兄さん、そういう訳で、簡単に悪戯を仕掛けられないように何らかの対策をすることをお勧めします」
オーラフは呆れたように、困ったように、大きなため息を一つ吐いた。
「イレーネの鳴き声が聞こえたが。何があった?」
ふいに扉が開き、大柄な初老の男が入って来た。彼を見たギルベルトが頭を下げる。
「お久しぶりです、フォン・コルネリウス侯爵。なんでもありませんよ。イレーネの悪戯を、オーラフが叱っただけの事です」
「……ギルベルトか!? 久しぶりだな!」
「えぇ。これは弟で、テオバルトと言います。まだちょっと言語を覚えていませんが、紹介だけ」
「ほう、弟が居たのか。よろしくな、テオバルト」
ディーンによく似た表情で、侯爵は言う。彼がそれに何とか返すと、イレーネを下ろしたギルベルトが言った。
「これの他に、妹も二人いますよ」
「それはぜひお目にかかりたい。きっと君に似て、美人なんだろうな」
「えぇ。兄の僕が言うのもなんですがね」
盛り上がる二人を、イレーネは指をくわえて見上げていた。




