6.父王の独白
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小さなノック一つ。セシリアに配慮してか、その音は静かだ。
「ーーセシリア、遅くに済まないね 」
そう言ってこのために用意された歓談室にやってきた父王は、セシリアを見るなり皺の寄った顔を静かに緩めた。
「…身体はもう大丈夫なのだね? 」
確認するように、優しく気遣われた。
父にも心配をかけてしまった。思わず眉を下げて、もう大丈夫です、ごめんなさい、と慌てて言う。
父は、そうか、とだけぽつりと落として、何事かを考え込むように口を閉ざした。
( ……父上?)
「… 」
「…あの、父上? 」
「ん?何かな、セシリア? 」
沈黙に耐えかねてセシリアが口を開けば、鷹揚な笑みが向けられて困惑する。
「…コレットからわたくしに話があると聞いたのですが 」
「 ……ああ、そうだね」
頷いた父は、静かに視線をセシリアへと滑らす。
「 …アンリヴィルの死を、悼んでいるのかい」
「 …っ!?」
出てきたその名に、思わず息を呑んで、そのまま吐くのを忘れる。
トリスタン=レオ=アンリヴィルーー
セシリアが、愛したーー今もなお愛するその人の名を。
「…人はみな死ぬものだ。彼も私も、お前も。例外もなく、神の手から人は漏れずに死ぬ。 」
老王の眼差しは少しだけ何かの名残を探すように、セシリアを見つめた。
母の生き写しだと言われる、セシリアを。
「お母さまを、覚えているかい? 」
「…はい 」
深く息を吐きだした。
母は、ブランジェッド公爵家の長女だった。
セシリアと同じ美しい金髪に、汚れを知らない澄んだ青の瞳をしていた。
それは、ほんの幼い時の、まるで夢にもならない欠片を拾い集めるくらいに朧げな記憶。
「 キャロル……お前のお母さまは、誰よりも美しく、気高く、優しい女性だった。」
緩やかに、それでもかつての何かを探すように、父が語り始める。
「 私は昔から、優秀ではなかった。父からはいつも言われていたよ、お前は愚鈍な王になるだろう、とね」
「 …」
「 そんなときに、いつも私を支えてくれたのは、キャロルだった。」
静かに、優しく。そこで老王はセシリアを見つめる。
「キャロルがお前を産んで、次の子を身籠っていた時だった。……愛する妻と、子を亡くしたと聞いたとき、私は目の前の世界がすべて崩れ落ちていくような気がした。 」
母は、たった23で亡くなった。
セシリアが3歳の時に、この世界の悲しみになんて気づかないふりをして、天界に旅立っていった。
「 この世を恨んだよ。お産を取り持った優秀な産婆を、彼女を救えなかった医師を、殺してやれば気が済むかもしれぬと、何度も思った。……いいや、宰相が止めていなければ、私は彼らを死刑にしていたかもしれないな」
権力は時に恐ろしい、と父が呟いた。その言葉は広い室内にぽつり、と落ちて広がって、消えた。
「 私に残されていたのは、セシリア、お前だけだった。…その時キャロルに誓ったんだ。お前を、セシリアを何としてでも育て上げると。」
「 …父上……」
「 本当は、私はキャロルの……キャロライン=モニカ=ブランジェッドとという名前を耳にするだけで、震えが止まらなくなるほどには参っていたというのにーーきっと、セシリアに甘えていたのだと思うよ、今考えればね」
セシリアと同じ色の、青灰色の瞳が、柔らかくこちらをとらえる。
「 幼い娘を育てなくてはならない、それだけが私をこの世に留めてくれていたに違いない。お前がいたから、私は頑張ることができた。…彼女の死に、耐えられた。」
父上、と漏れ出た声は情けないくらいに震えていた。なんといえばよいのだろうか。この優しい父であり、王であるこのひとに、生まれてきてくれてありがとうと、そう、言われた気がして。
くちびるが震える。
「だから、彼の死に向き合いたくないなら目を背けなさい。人の心は、すべてを真面目に受け入れられるほど頑丈にできてはいない。私でも、エルドリックでもいい。 誰かに頼りなさい。王女たるもの、弱みを見せるべきでないと、そう言い続けたのは私だ。それでも、私やお前を案じる婚約者には遠慮せずもたれかかってきなさい。」
「 …っ」
「 私は、いつだってお前の味方だよ、セシル。」
胸が、一杯になった。こんなに心配をかけていた。多忙な父が、わざわざセシリアのために時間を取って、ただその心を案じるためだけに、来てくれたのだと。
それが嬉しくて、堪らなかった。
「 …っ、父上。ごめんなさい、ご迷惑を掛けてーーっ」
「 迷惑などと思うものか。私も、エルドリックも、この国の民たちも、お前を愛している。」
「…ありがとう、ございます…っ! 」
父が広げた腕の中に、そっと体を委ねた。温かくて、不思議な心地がした。優しい、父の匂い。幼い頃以来に抱きしめられたことのないこの腕が、どうしようもないくらいに懐かしくて、安堵する。
そうやって暫しの間抱擁を交わして、気恥ずかしくなってセシリアは体を離す。
愛情に溢れる眼差しを向ける父にもう一度礼を述べて、どうしてか揺れていた心が穏やかになったまま、歓談室をそっと立ち去った。
「 ……どうか、アンリヴィルのいない場所で、幸せになってくれ」
一人残された室内で、老王が深い皺を寄せたまま、苦しげに呟いた。それは、まるで呪いをかけながら、幸せを祝るような、矛盾と葛藤に満ちたものだった。
「 …私を、愚かな老人を許してくれ、セシル。」
苦悶に満ちた響きは、ただ夜の闇の中に溶け込んで、静かに深く沈んでいった。




