待ち受けていた罠(後編)
第91話です。宜しくお願いします。
未来は息を整えながら、周囲を見回す。
薄暗い。
天井は高く、さっき落ちてきた穴はすでに完全に閉じている。
見上げても、そこにあるのはただの黒い天井だけだった。
上に戻る道はない。
少なくとも、今すぐ見つけられる場所にはない。
「……やっぱり、閉じ込められたわね」
未来は小さく呟いた。
自分の声が、妙に広い空間に響く。
そこは通路というより、地下に作られた別区画のようだった。
壁はコンクリート。
床も同じく硬い。
非常灯らしき赤い光が遠くでぼんやり灯っている。
空気はひんやりとしていて、湿っていた。
それだけなら、ただの地下通路だ。
けれど、未来はすぐに違和感を覚えた。
匂いがある。
獣のような匂い。
土と血と、何か腐ったような匂い。
それに、微かな息遣いのような音。
この場所には、何かがいる。
「……落とし穴」
未来は立ち上がりながら呟く。
「私を狙ったの?」
偶然とは思えなかった。
あの場所で落ちたのは未来だけ。
もちろん、たまたま自分がその床の上にいただけかもしれない。
だが、今の状況ではそう考える方が甘い。
未来は索敵役だ。
カラス、犬、ヤモリを使って周囲を確認できる。
SPМ本部へ潜入するうえで、最も情報を集められる存在。
もし敵がこちらの戦力を知っているなら、最初に分断したいのは未来だろう。
「……上手くやられたってことね」
悔しさが胸に滲む。
でも、泣き言を言っている時間はない。
未来は呼吸を整え、手を前にかざした。
「出てきて」
光が生まれる。
小さな輪郭がいくつも形になる。
召喚したのは、ヤモリ。
複数のヤモリが床や壁に張りつき、未来の指示を待つようにじっとしている。
「周囲を見て」
「通路の先、天井、壁の隙間」
「何かいたら、すぐ知らせて」
ヤモリたちが一斉に動き出す。
壁を這い、床の端を進み、暗闇の向こうへ消えていく。
未来は目を閉じ、感覚を共有した。
ヤモリの視界がいくつも頭の中に流れ込む。
ひび割れた壁。
濡れた床。
錆びた鉄扉。
長い通路。
何かを引きずったような跡。
そして――。
視界が、一つ消えた。
「……え?」
続けて、二つ目。
三つ目。
ヤモリの視界が、次々に黒く塗りつぶされる。
何かが飛びかかったような影が見えた瞬間、共有が途切れる。
声もなく。
警告する暇もなく。
召喚したヤモリたちは、次々に殺されていった。
未来は目を開ける。
背筋に冷たいものが走った。
「何かいるの……」
ただの地下通路ではない。
少なくとも、ヤモリを瞬時に殺せる何かがいる。
未来は奥歯を噛み、すぐに次の判断をした。
「出てきて」
今度は、先ほどよりも大きな光が三つ生まれた。
黒い影のような毛並み。
鋭い牙。
低く唸る喉。
現れたのは、シャドウウルフ三体。
「一体は前」
「二体は左右」
「私は中央」
未来の指示に、シャドウウルフたちは低く唸って応える。
未来は手を軽く握りしめた。
怖くないわけではない。
一人になった。
上には悠真たちがいる。
自分は別の場所に落とされた。
そこには正体不明の何かがいる。
普通なら、足がすくんでもおかしくない。
けれど、未来は自分に言い聞かせる。
私は強い。
そう言ったのは、自分だ。
悠真にそう伝えた。
だったら、ここで怯えて止まるわけにはいかない。
「行くわよ」
未来はシャドウウルフたちと共に、通路の先へ進み始めた。
◇
地下通路は、思った以上に長かった。
壁には古い傷がある。
ところどころに爪痕のようなものもあった。
人間がつけたものではない。
未来はそれを見るたびに、眉をひそめる。
やはり、ここにはモンスターがいる。
しかも、一体や二体ではないかもしれない。
シャドウウルフが低く唸った。
前方。
通路の先から、広い空間の気配がする。
未来は足を止め、深呼吸した。
「……行く」
シャドウウルフが先に進む。
その後ろに未来が続く。
通路を抜けた先は、かなり広い開けた場所だった。
地下とは思えないほどの空間。
天井も高い。
倉庫のようにも、訓練場のようにも見える。
だが、そこにいたものを見た瞬間、未来は思わず息を呑んだ。
「何で……」
そこには、モンスターがいた。
一体ではない。
二体でもない。
大量に。
しかも、未来が今まで見たことのない種類のモンスターばかりだった。
紫色の身体をした巨大なカエル。
ぬめりを帯びた皮膚。
大きく垂れた舌。
見るからに毒々しい模様。
それらが、床や壁際に何十体もいる。
その頭上に、ステータス表示のような文字が浮かんでいた。
【ポイズンフロッグ】
【Cランク】
数は、およそ四十体。
さらに、その奥。
三メートルほどの大きな雪男のようなモンスターが何体も立っていた。
白い毛皮。
太い腕。
吐く息は白く、周囲の空気が少し凍りついているように見える。
【アイスイエティー】
【Bランク】
数は、およそ二十体。
未来は、思わず一歩後ずさった。
「何でこんな所にモンスターが沢山……」
しかも、見たことがないモンスターばかり。
東京近辺では見たことがない。
神奈川のカーストアンデットでもない。
茨城のヴァンパイアバットやレッドワイバーンでもない。
ここは千葉だ。
なら、千葉に出現するモンスターなのかもしれない。
「ポイズンフロッグ……」
「アイスイエティー……」
未来は表示された名前を読み上げる。
Cランク四十体。
Bランク二十体。
普通なら、絶望的な数だ。
未来一人だけなら、なおさら。
だが、未来の頭はすぐに別の疑問へ向かった。
「何で、SPМ本部の地下に……?」
SPМはモンスターから人を守る組織のはずだ。
避難民を救い、モンスターを討伐する組織のはずだ。
それなのに、本部の地下にモンスターが閉じ込められている。
しかもこれだけの数。
「何故、モンスターをこんな場所に閉じ込めてるの……」
未来の声が震える。
恐怖だけではない。
怒りと困惑が混じっていた。
「SPМは一体何をしているの……?」
ポイズンフロッグの一体が、ぬるりと舌を動かした。
アイスイエティーの一体が、低く唸る。
未来のシャドウウルフたちも、それに対抗するように唸った。
未来は一歩前に出た。
逃げるだけなら、できるかもしれない。
でも、それでは駄目だ。
この情報を悠真に伝えなければならない。
落とし穴。
モンスターの群れ。
自分だけを分断するような罠。
これは偶然ではない。
「明らかに、私を足止めする罠……?」
未来は唇を噛んだ。
もしそうなら、悠真たちの方にも何かある。
会議室。
特殊隊隊長室。
桜井。
そのどこかに、さらに大きな罠があるかもしれない。
「悠真に知らせなくちゃ……!」
未来はすぐにヤモリの共有へ意識を向けようとした。
だが、その瞬間、ポイズンフロッグの一体が跳ねた。
紫色の身体が、信じられない速さで距離を詰めてくる。
シャドウウルフの一体が前に出て盾になり、ポイズンフロッグへ噛みついた。
毒々しい体液が飛び散る。
未来は顔をしかめながら、さらにシャドウウルフへ指示を出す。
「近づきすぎないで!」
「毒に気をつけて!」
戦闘は避けられない。
けれど、悠真への連絡も必要だ。
未来は自分の中で優先順位を組み直す。
まず生き残る。
次に情報を送る。
そして、必ず合流する。
「……やってやるわよ」
未来は、前方のモンスターたちを睨んだ。
◇
その頃、俺たちは未来と分断されたまま、地下通路を進んでいた。
歩くたびに、胸の奥が重くなる。
未来は無事だった。
ヤモリを通して声も聞こえた。
進むと言った。
自分は強いと言った。
だから俺は信じると決めた。
それでも、不安が消えるわけではない。
犬飼が前を歩きながら、何度も小さく息を吐いていた。
自分を責めているのだろう。
知らなかったとはいえ、自分が案内した道で未来が落ちた。
その事実が、犬飼を苦しめている。
「犬飼」
俺が声をかけると、犬飼は振り返らずに答えた。
「何だ?」
「お前のせいじゃない」
犬飼の足が一瞬だけ止まる。
「……でも、俺がこの道を案内した」
「それでも、お前は知らなかった」
「桜井が仕掛けた罠なら、悪いのは桜井だ」
「……あぁ」
犬飼は短く答え、また歩き出した。
その背中には、まだ重いものが残っている。
けれど、足は止まっていない。
それでいい。
今は進むしかない。
未来を助けるためにも。
SPМを止めるためにも。
桜井を捕まえるためにも。
俺たちは地下通路の先へ進んだ。
◇
やがて、犬飼が足を止める。
「この階段を登った先に会議室がある」
目の前には階段があった。
上へ続いている。
通路の空気が、少し変わったような気がした。
ここまでの湿った地下の匂いとは違う。
人のいる建物の匂い。
金属。
消毒液。
そして、かすかな煙草のような匂い。
「分かった」
俺は頷いた。
チャン爺が静かに杖を構える。
陸斗はいつでもバリアを出せるように手を開いた。
色谷も構えている。
阿川は背後を確認し、撤退経路を意識していた。
犬飼は階段を見上げる。
その顔には緊張がある。
だが、迷いはなかった。
「行くぞ」
「あぁ」
俺たちは階段を登り始めた。
一段。
また一段。
足音を殺す。
息を殺す。
階段の上には扉があった。
犬飼がその前で立ち止まり、そっと耳を当てる。
何も聞こえない。
少なくとも、騒がしい気配はない。
犬飼がこちらを見て、小さく頷いた。
俺も頷き返す。
扉に手をかける。
冷たい金属の感触。
ゆっくりと押す。
音を立てないように。
ほんの少しずつ。
扉が開いた。
◇
その先にあったのは、広い会議室だった。
大きな机。
並んだ椅子。
壁に設置されたモニター。
犬飼の話通りなら、普段はほとんど使われていないはずの場所。
誰もいないはずの場所。
だが――。
そこには、人がいた。
いや、人がいたどころではない。
俺たちを待っていた。
最初に目に入ったのは、中央に立つ男だった。
穏やかな笑み。
整った髪。
どこか柔らかい雰囲気すらある。
だが、その目だけが異様だった。
笑っているのに、温度がない。
人を見ているようで、人を物として眺めているような目。
俺はすぐに分かった。
こいつが、桜井晴彦だ。
特殊隊隊長。
今回の騒動の中心。
その左右には、見覚えのある顔がいた。
凛堂明日香。
強襲隊隊長。
相変わらず堂々とした姿で立っている。
だが、以前会った時のような熱や人間臭さが感じられない。
まるで命令を待つ兵器のように、静かにそこにいた。
柿原紅蓮。
強襲隊副隊長。
火縄銃を持ち、こちらを品定めするように見ている。
口元には笑みがあるが、それは以前のような豪快さではなく、どこか薄い。
門脇誠司。
犬飼の上司。
俺が以前会った時、東京の復興を見て涙を流した男。
その門脇が、何の感情もないような目でこちらを見ていた。
犬飼が息を呑む音が聞こえた。
さらに、影山駿。
影山潤。
双子のように似た二人が、静かに立っている。
片方は表情を変えず、片方はわずかに口元を歪めている。
世良芽衣。
女子高生のような見た目をした支援隊隊長。
その後ろには、大勢のSPМ隊員たち。
会議室の壁際、扉の近く、奥の通路。
逃げ道を塞ぐように配置されている。
完全に待ち伏せだった。
俺は一瞬で理解した。
会議室は空いているはずだった。
桜井は隊長室にいる可能性が高いはずだった。
裏門も、隠し通路も、こちらが選んだルートだったはずだ。
だが、全部読まれていた。
俺たちは誘導されたのだ。
「……」
隣で犬飼が固まっている。
怒りと困惑と絶望が混ざった表情。
無理もない。
自分が案内した道の先で、桜井が待っていた。
つまり、犬飼が利用されたことがほぼ確定したようなものだ。
◇
桜井が、一歩前へ出た。
そして、まるで久しぶりの客人を迎えるように、穏やかに微笑む。
「はじめましてだね、悠真君」
俺の名前を呼んだ。
初対面のはずなのに。
こちらのことを、当然のように知っている。
その声は柔らかい。
だが、耳に触れた瞬間、背筋が冷えるような気持ち悪さがあった。
「わざわざ来てくれてありがとう」
桜井は少し首を傾げる。
「いや、違ったか」
その視線が、俺から犬飼へ移った。
笑みが、ほんの少し深くなる。
「犬飼君」
「連れてきてくれてありがとう」
犬飼の表情が変わった。
怒りが一気に噴き上がる。
「桜井……てめぇ……」
低い声だった。
いつもの犬飼とは違う。
今にも飛びかかりそうなほどの怒り。
だが、チャン爺がわずかに動き、犬飼の前へ出る位置を取った。
陸斗も静かに手を上げる。
色谷は足元に意識を集中させている。
阿川は背後の扉と周囲の配置を確認していた。
俺も、奥歯を噛む。
やはり罠だった。
犬飼は逃げたのではない。
いや、犬飼自身は逃げたつもりだった。
自分の意思で東京へ来た。
それは真実だった。
だが、桜井はそれすら利用した。
犬飼の正義感も。
門脇を助けたい気持ちも。
俺たちが見捨てられないことも。
全部、分かったうえで待っていた。
その時、足元近くの壁を這っていたヤモリがこちらへ近づいてきた。
未来の声が聞こえる。
「悠真、罠かもしれない」
その声には焦りが混じっていた。
「もしかしたら、会議室に何かあるかも!!」
俺は目の前を見た。
桜井。
凛堂。
柿原。
門脇。
影山たち。
世良。
SPМ隊員たち。
そして、俺たちを迎えるように広がった会議室。
もう、疑う余地はない。
俺は小さく息を吐いた。
「あぁ……」
拳を握る。
怒りを押し殺す。
焦りも、不安も、全部飲み込む。
ここで崩れたら終わりだ。
俺は桜井を睨みながら、静かに言った。
「罠だったみたいだ」




