空から落ちた救援要請(前編)
第84話です。宜しくお願いします。
東京での生活を正式に認められてから、今井三兄弟は少しずつ新しい日常へ踏み出していた。
最初に動き始めたのは、長女の今井涼香だった。
彼女は元々、美容師だった。
神奈川で暮らしていた頃も、ゲートが開く前までは美容室で働いていたらしい。
髪を切る。
整える。
染める。
そんな仕事が、世界崩壊後にどれほど遠いものになったのか、涼香自身が一番よく分かっていた。
逃げること。
隠れること。
生き延びること。
それだけで精一杯だった日々の中で、髪型を気にする余裕なんてあるはずもない。
けれど、東京は違った。
この街では、少しずつ“生活”が戻ってきている。
銀行ができ、円が使われ、店が開き、電車が走り、人々が働き始めている。
そして、人は少し余裕ができると、鏡を見るようになる。
伸びっぱなしの髪を切りたい。
身だしなみを整えたい。
前みたいに、少しでも自分らしくいたい。
そう思う人が増えてきていた。
だからこそ、美容室も少しずつ再開され始めていた。
涼香は、そのうちの一つで働くことが決まった。
まだ体力は完全には戻っていない。
カーストアンデットの呪いに蝕まれた体は、浮田の手術空間によって救われたとはいえ、衰弱の影響までは一瞬では消えなかった。
それでも涼香は、久しぶりにハサミを手にした時、涙を浮かべた。
「……また、これを持てるんだ」
小さく呟いたその声を、翔太と恭太は隣で聞いていた。
涼香はハサミを胸に抱くように持ち、少しだけ笑った。
「髪を切るってね、ただ短くするだけじゃないの」
「その人の気持ちも、少し軽くする仕事なの」
そう言った姉の顔を見て、翔太と恭太はようやく心から安心できた。
姉は生きている。
そして、もう一度前を向こうとしている。
それが、二人にとってどれほど大きなことだったか。
翔太は拳を握り、恭太は目元を拭った。
◇
だが、次に問題になったのは、二人自身の進路だった。
翔太と恭太は、元々大学生だった。
世界が壊れる前は、将来について迷っていた。
何かになりたいようで、何になりたいのか分からない。
周囲は就職や進学について話し始めているのに、自分たちはどこかぼんやりと日々を過ごしていた。
このまま何となく卒業して、何となく働くのだろうか。
そんな曖昧な未来を抱えていた。
だが、世界が崩壊したことで、その曖昧な未来すら消えた。
生き延びることで精一杯になり、進路も将来も考える余裕なんてなかった。
けれど、東京に来て、姉が救われて、二人の中に一つの道が生まれた。
浮田である。
拉致されたにもかかわらず、怒りを飲み込み、涼香を助けてくれた医者。
事情を聞き、呪いを見て、即座に治療に移った男。
そして、何よりも強く二人の心に残った言葉。
――俺は医者だからな。
その一言が、翔太と恭太の胸に深く刺さっていた。
自分たちは、姉を助けるためとはいえ、浮田を拉致した。
普通なら、恨まれても仕方がない。
見捨てられても当然だった。
それなのに浮田は、姉を助けた。
助けられるなら助ける。
医者だから。
それは二人にとって、あまりにも眩しい生き方だった。
だから、二人は決めた。
自分たちも、誰かを助ける側になりたい。
浮田のようにはすぐになれない。
資格も知識もない。
だが、学ぶことはできる。
始めることはできる。
そう思った。
◇
翌朝。
二人は中央会館内の医務室へ向かった。
浮田は朝から診療記録を整理していた。
最近は人が増え、仕事も増えた。
外傷だけではない。
風邪、疲労、栄養不足、精神的な不調。
さらに農業区画や工業区画で働く人々の怪我も増えている。
社会が動き出すということは、怪我や病気への対応も増えるということだった。
浮田は紙の束を整えながら、軽く肩を鳴らした。
そこへ、扉がノックされる。
「入れ」
浮田が言うと、扉が開いた。
入ってきたのは、翔太と恭太だった。
二人は揃って背筋を伸ばし、やたらと気合の入った顔をしている。
「浮田さん、おはようございます!」
「おはようございます!」
声が大きい。
浮田は少し眉を上げた。
「おはよう……」
そして、二人を見比べる。
「今日は二人揃ってどうしたんだ……?」
翔太と恭太は、まず深く頭を下げた。
「先日は本当の本当にありがとうございます!」
「お陰で姉貴は、元の仕事である美容師として働けることが決まりました!」
恭太の声には、隠しきれない喜びがあった。
浮田は少し目を丸くした後、口元を緩める。
「そうかそうか……」
「それは本当に良かったな」
「はい!」
「姉貴、久しぶりにハサミ持って泣いてました」
「そうか」
浮田は少しだけ静かになった。
「……良かったな、本当に」
その言葉には、医者として患者の回復を喜ぶ気持ちが滲んでいた。
それから浮田は、二人へ視線を戻す。
「で、お前らは仕事決めたのか?」
その問いを待っていたかのように、翔太が一歩前に出た。
「そのことで来ました」
「俺たち、浮田さんの元で看護師として働きたいんです!」
浮田の動きが止まった。
「……はぁ?」
素っ頓狂な声が出る。
「看護師?」
「はい!」
「お前ら、看護学校通ってたのか?」
翔太と恭太は、少しだけ気まずそうに顔を見合わせた。
そして、正直に答える。
「いえ、二人とも普通の大学でした」
「医療系じゃないのか?」
「違います」
「……おい」
浮田は深くため息を吐いた。
「そんなのいきなりは無理だぞ」
二人は真剣な顔で聞いている。
浮田は椅子に座り直し、医者として現実を伝える口調になった。
「看護師ってのはな、思いつきでできる仕事じゃねぇ」
「学校に通って、専門知識を身につけて、国家資格を取って、そこからようやくスタートラインだ」
「命を扱う現場だぞ」
「気合と憧れだけでどうにかなるもんじゃない」
普通なら、そこで怯む。
だが、翔太と恭太は引かなかった。
翔太がまっすぐに言う。
「はい。それは調べたので分かっています」
「ですが、最近東京にも専門的な学校が少しずつ増えてきていると聞きました」
恭太も続ける。
「その中に、看護学校が二週間前にできたとも聞きました」
浮田は少しだけ目を細めた。
「……なるほど」
東京では今、専門職の育成が深刻な課題になっている。
街を動かすには、人がいる。
だが、ただ人がいるだけでは足りない。
医療。
看護。
建築。
電気。
機械。
農業技術。
鉄道。
教育。
社会を支えるには、それぞれの専門知識を持った人間が必要だった。
元々その職についていた人たちはいる。
だが数が足りない。
人口そのものが激減し、東京だけがまともに社会として動き始めている今、専門職の不足は避けて通れない問題になっていた。
そこで、優先度の高い分野から専門学校が再建、または新設され始めている。
看護学校もその一つだった。
浮田は腕を組む。
「そこに通うってことか」
翔太は力強く頷く。
「はい」
「まずは四年間、しっかり勉強して知識を身につけたいと思います」
恭太も続ける。
「でも、一つだけ図々しいお願いがあります」
「何だ」
「学校に通った上で、浮田さんの仕事を見学したり、邪魔にならない程度の手伝いをさせてもらえないでしょうか?」
浮田は、二人をじっと見た。
勢いや憧れだけではない。
少なくとも二人は、ちゃんと調べてきている。
そして、覚悟もある。
ただし、現場は甘くない。
「医療行為はさせねぇぞ」
浮田ははっきり言った。
「もちろんです!」
「患者に触れるようなことは、俺が許可するまで絶対にさせない」
「はい!」
「掃除、備品整理、患者の案内、記録の補助、準備の手伝い」
「その程度なら構わん」
二人の顔が一気に明るくなる。
「本当ですか!?」
「ありがとうございます!」
「まだ喜ぶな」
浮田は少し声を低くした。
「命を扱う現場だ」
「甘く考えるな」
「覚えることは山ほどある」
「見たくないものを見る日もある」
「助けられない命もある」
二人の表情が引き締まる。
浮田は続けた。
「それでもやるのか?」
翔太は即答した。
「やります」
恭太も、迷わず頷く。
「俺もやります」
「浮田さんみたいに、誰かを助けられる人になりたいんです」
浮田は一瞬だけ言葉に詰まった。
照れくさかった。
自分を目標にされるなんて、慣れていない。
しかも相手は、自分を拉致した兄弟だ。
本当に、世の中どう転ぶか分からない。
「……勝手に美化するなよ」
浮田は顔をそらして言った。
「俺はそんな立派なもんじゃねぇ」
「でも、姉貴を助けてくれました」
「俺たちが間違ったことをしたのに、それでも助けてくれました」
「それだけで十分です」
翔太の言葉に、恭太も深く頷く。
浮田は頭をかいた。
「……分かった」
「学校に通うなら、現場で学べる範囲のことは見せてやる」
「ただし、邪魔をしたら叩き出す」
「はい!」
「ありがとうございます!」
二人はまた深く頭を下げた。
そして、嬉しそうな顔で医務室を出ていく。
扉が閉まった後、浮田はしばらくその場に座っていた。
「……まさか、看護師になりたいなんて言うとはなぁ」
独り言が漏れる。
拉致された相手。
普通なら恨んでもおかしくない相手。
その二人が、自分の仕事を見て、人を助けたいと思った。
それは、悪い気分ではなかった。
むしろ少し、胸の奥が温かくなった。
「どんな縁があるか分からんもんだ……」
浮田はそう呟き、立ち上がった。
◇
その時だった。
窓の外に、何かが見えた。
「……ん?」
浮田は眉をひそめる。
空の高いところから、何かが近づいてくる。
鳥かと思った。
だが、鳥にしては大きい。
それに、飛び方が明らかに不安定だった。
ふらつきながら、こちらへ向かって落ちてくるように飛んでいる。
「何だあれは……鳥にしちゃデカいような……」
浮田は窓へ近づく。
その影は、さらに近づいてくる。
翼のようなものを広げている。
だが、胴体は人間に見えた。
「いや、人か……?」
次の瞬間。
その影は急激に高度を落とした。
浮田はすぐに外へ飛び出す。
中央会館の前庭に出た瞬間、空から落ちてきた何かが、地面に叩きつけられるように着地した。
ドサッ。
いや、着地というより落下だった。
浮田はすぐに駆け寄る。
「おい!」
そこに倒れていたのは、犬飼だった。
両腕が翼のように変化している。
だが、その形は少しずつ崩れ始めていた。
スキルの維持が限界に来ているのだろう。
犬飼は荒く息をしていた。
顔色は悪い。
全身に疲労が滲んでいる。
明らかに長距離を無理に飛んできた状態だった。
「犬飼……?」
浮田は驚きながらも、すぐに脈と呼吸を確認する。
生きている。
外傷は少ない。
だが、消耗が激しい。
犬飼の目が、薄く開いた。
「……悠真と……」
かすれた声。
「会わせて……くれないか……」
それだけ言うと、犬飼は意識を失った。
「おい! しっかりしろ!」
浮田はすぐに周囲へ叫んだ。
「誰かいるか!」
近くにいた職員と警備員が駆け寄る。
「医務室へ運ぶぞ!」
「悠真を呼べ!」
「それとチャン爺にも伝えろ!」
浮田の声に、周囲の人間が一斉に動いた。
犬飼は担架に乗せられ、中央会館内の医務室へ運ばれていく。
浮田はその横につきながら、犬飼の状態を見続けた。
外傷は深くない。
命に関わる怪我もない。
だが、消耗が激しい。
スキルを長時間使い続けた反動。
極度の疲労。
おそらく睡眠不足もある。
そして、精神的なショック。
「……何があったんだよ」
浮田は低く呟いた。
犬飼が一人で東京へ来た。
しかも、倒れる寸前の状態で。
門脇はどうした。
SPМで何が起きた。
嫌な予感が、胸の奥で膨らんでいく。
◇
俺が医務室に駆けつけた時、犬飼はベッドで眠っていた。
浮田が横に立ち、容体を確認している。
チャン爺もすでに部屋にいた。
俺はベッドの上の犬飼を見て、思わず足を止めた。
「……犬飼」
以前、門脇と一緒に東京へ来た時とはまるで違う。
あの時の犬飼は、門脇の横で少し崩した敬語を使いながらも、ちゃんと副隊長らしい落ち着きを持っていた。
だが今は、顔色が悪く、全身が疲弊している。
両腕は元に戻っているようだが、ところどころ服が破れ、かなり無茶をしたのが分かった。
「浮田、容体は?」
「命に別状はない」
浮田は短く答えた。
「外傷も大したことはねぇ」
「ただ、スキルをかなり無理して使ったんだろうな。消耗が激しい」
「しばらく寝かせた方がいい」
「そうか……」
俺は少しだけ息を吐いた。
命に別状はない。
それだけで、ひとまず安心した。
だが安心と同時に、嫌な予感が強くなる。
犬飼は言ったらしい。
悠真と会わせてくれ。
それだけを言って倒れた。
つまり、俺に伝えなければならない何かがある。
それも、倒れる寸前まで飛んでくるほどの何かが。
(SPМか……?)
頭に浮かんだのは、当然その名前だった。
犬飼はSPМの戦術隊副隊長。
門脇の部下だ。
その犬飼が、門脇ではなく俺のところへ来た。
しかも一人で。
それだけで異常だった。
俺はベッドの犬飼を見る。
「門脇はどうした……?」
呟いた言葉に、誰も答えられなかった。
チャン爺が静かに言う。
「坊ちゃま。犬飼様がお目覚めになられましたら、すぐにお呼びいたします」
「あぁ。頼む」
俺は頷く。
そして、医務室を出る前にもう一度だけ犬飼を見た。
寝ている顔は苦しそうだった。
まるで、眠っていても何かから逃げ続けているように。
俺の胸の奥で、フトゥーロの言葉が静かに蘇る。
二つ目の厄災。
内部崩壊。
SPМだ。
嫌な予感が、確信へ近づいていく。
だが、今は犬飼が目を覚ますのを待つしかなかった。
数時間後。
犬飼は、ようやく目を覚ました。




