崩れ始めた救世主(後編)
第83話です。宜しくお願い致します。
犬飼は、廊下を走った。
頭の中では、先ほど見た光景が何度も蘇っていた。
ムチで打たれる住民。
背中に乗られる市民。
鎖で繋がれた男。
そして、その上に当然のように座っていた門脇。
犬飼にとって、門脇誠司はただの上司ではなかった。
戦術隊の隊長。
判断力があり、冷静で、時に軽く見えるが、見るべきところはちゃんと見ている男。
犬飼が迷った時、何度も道筋を示してくれた人でもあった。
その門脇が、人を椅子にしていた。
しかも、それを何の疑問も持たずに。
「……ふざけんなよ……」
犬飼は歯を食いしばる。
桜井が何かをした。
それは間違いない。
だが、何をしたのかは分からない。
スキルなのか。
洗脳なのか。
命令なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
ただ一つ言えるのは、会議に出た者たちが異常になっているということ。
そして自分は、その会議に呼ばれていなかった。
犬飼だけが知らされていなかった。
それが偶然なのか、意図的なのかは分からない。
だが今は、考えている時間はない。
桜井の元へ行く。
本人を問い詰める。
何をしたのか吐かせる。
それしかない。
犬飼は特殊隊隊長室へ向かう廊下を曲がった。
だが、その先で足が止まる。
隊長室の前。
扉の前に立っていたのは、四人だった。
強襲隊隊長、凛堂明日香。
強襲隊副隊長、柿原紅蓮。
影撃隊隊長、影山駿。
影撃隊副隊長、影山潤。
SPМの中でも、明らかに上位の戦闘力を持つ者たち。
その四人が、まるで門番のように扉の前に立っていた。
犬飼の背中に、冷たい汗が流れる。
「……どいてください」
声を絞り出す。
凛堂が、ゆっくりと犬飼を見る。
その目は、いつものように獰猛だった。
だが、どこか違う。
戦いを楽しむ光はある。
しかし、そこに以前のような自由さがない。
命令を待つ獣のような、異質な静けさがあった。
「ここは通せねぇな」
凛堂が笑う。
「それとも力ずくで通るか?」
口角が上がる。
「俺は全然相手になってやるぜ」
柿原は火縄銃に手を添えていた。
「悪いな、犬飼」
声は軽い。
だが、表情に迷いはない。
「桜井総督府様の命令だ」
影山駿は無言だった。
ただ、犬飼を見ている。
その横に立つ影山潤も、まるで影のように静かだった。
犬飼は、四人を見た。
凛堂。
柿原。
影山駿。
影山潤。
この四人を、自分一人で相手にする。
不可能だ。
断言できる。
犬飼は弱くない。
戦術隊の副隊長として、何度も修羅場をくぐってきた。
スキル《人体実験》も強力だ。
自分が知っている様々な動物へ変身できる。
全身を変化させれば、その動物の特性を大きく引き出せる。
ただし、全身変化は数分しか持たない。
一部だけの変化なら時間は伸びるが、戦闘力は限定的になる。
使い方次第で攻撃にも逃走にも対応できる万能型のスキル。
だが、それでも。
目の前の四人は悪すぎる。
凛堂一人だけでも厳しい。
そこに柿原、影山駿、影山潤。
突破は無理だ。
「……くっ」
犬飼は奥歯を噛む。
ここで戦っても勝てない。
勝てないどころか、桜井に辿り着く前に捕まる。
そして捕まれば、おそらく自分も門脇たちと同じようにされる。
あの会議にいなかった犬飼が今ここで桜井に接触すれば、何が起こるか分からない。
いや、分からないからこそ危険だ。
犬飼は、凛堂たちの奥にある扉を睨む。
その向こうに、桜井がいる。
だが今は届かない。
なら、やるべきことは一つ。
逃げる。
そして、この異常を外に知らせる。
誰に。
誰なら、この状況を変えられる。
犬飼の頭に浮かんだのは、一人の男だった。
黒瀬悠真。
東京を立て直した男。
門脇が認めていた男。
凛堂が戦いたがっていた男。
そして、今のSPМが狙っている可能性のある男。
犬飼は決断した。
「人体実験」
低く呟く。
次の瞬間、犬飼の両腕が変化した。
骨格が変わる。
筋肉が引き締まり、腕全体が翼のように広がる。
それは鳥の翼そのものではない。
人間の腕を基盤に、飛行に適した形へ変えたもの。
大きく広がった翼腕。
犬飼が知っている飛行能力を持つ動物の特徴を、自分の体へ部分的に反映した姿だった。
「逃げる気か」
凛堂が笑う。
「いい判断だな」
その言葉が本心なのか、命令の中で出たものなのか、犬飼には分からなかった。
柿原が火縄銃を構えかける。
だが、その動きは一瞬だけ止まった。
影山駿も、追撃の姿勢を取らない。
犬飼は、その隙を逃さなかった。
廊下の窓へ向かって全力で走る。
そして、そのまま翼腕を広げて窓を突き破った。
ガシャンッ!!
ガラスが砕ける。
破片が空中に散る。
犬飼の体が外へ飛び出した。
高所からの落下。
普通なら危険な高さ。
だが、犬飼は翼腕で空気を受ける。
体が浮く。
そのまま大きく旋回し、建物から離れていく。
後ろから声はしない。
攻撃も飛んでこない。
犬飼は振り返る余裕もなく、必死に羽ばたいた。
SPМ本部を離れる。
千葉の空へ出る。
下には、変わり果てた街が見えた。
鎖に繋がれた人々。
働かされる市民。
見張るSPМ隊員。
その光景が、どんどん遠ざかっていく。
しかし、犬飼の胸から消えることはなかった。
「何なんだよ……」
空を飛びながら、犬飼は呟く。
「何が起きてるんだよ……!」
門脇がおかしくなった。
凛堂も。
柿原も。
影山も。
SPМの隊員たちも。
あの人たちは、こんなことをする人間じゃなかった。
少なくとも、犬飼が知っている彼らは違った。
だが今は、全員が桜井の言葉に従っている。
犬飼一人ではどうにもならない。
正面から戦っても負ける。
内部から止めようとしても無理だ。
だったら――
「黒瀬悠真……」
犬飼は、風を切りながら名前を呟いた。
「あいつに知らせるしかない……」
東京へ。
悠真の元へ。
あの男なら、何かできるかもしれない。
門脇が認めた男。
東京を守った男。
今のSPМが最も警戒し、同時に必要としているかもしれない男。
犬飼は、翼腕をさらに強く羽ばたかせた。
変身時間には限りがある。
全身変化ではないため、数分で解けることはない。
だが、それでも無限ではない。
できる限り遠くへ。
できる限り早く。
犬飼は、東京を目指して飛び続けた。
◇
一方、SPМ本部。
犬飼が窓を突き破って逃げた後、特殊隊隊長室の前には、砕けたガラスの音の余韻だけが残っていた。
凛堂は窓の外を見ていた。
遠ざかっていく犬飼の姿。
空を飛ぶその背中を、追うことはしなかった。
柿原も火縄銃を下ろしている。
影山駿は無言。
影山潤も動かない。
やがて、隊長室の扉が静かに開いた。
中から現れたのは、桜井晴彦だった。
いつもの弱々しい雰囲気は消えていた。
背筋は伸び、表情は穏やかで、目は冷たい。
まるで、人の心を観察することに飽きた研究者のような目だった。
「犬飼は行ったかい?」
桜井が尋ねる。
凛堂が振り返り、静かに答える。
「はい。行きました」
その返答に、桜井は満足そうに微笑んだ。
「そうか」
桜井は窓の外へ視線を向ける。
犬飼の姿は、もう小さくなっていた。
それでも桜井は、まるでその行き先を知っているかのように穏やかだった。
「追わなくていい」
桜井が言う。
「犬飼には、役目があるからね」
柿原が頷く。
「承知しました、桜井総督府様」
影山駿も短く言う。
「命令を確認。追跡は行いません」
桜井は、くすりと笑った。
「いい子たちだ」
その声は優しい。
だが、どこまでも不気味だった。
「犬飼は、自分だけが逃げられたと思っているだろう」
「自分だけが正気で、自分だけが真実に気付いたと思っている」
「そして、助けを求める」
桜井は窓際へ歩く。
砕けた窓の縁から外を見下ろす。
眼下には、変わり果てたSPМ管轄区域が広がっていた。
旧人類と呼ばれ、労働力として扱われる人々。
それを当然のように管理する隊員たち。
桜井は、それを見て満足そうに目を細める。
「だが、それでいい」
彼は静かに言った。
「あの子犬ちゃんは、きっと黒瀬悠真の元へ行く」
凛堂の目がわずかに動いた。
黒瀬悠真。
その名前に、反応したようにも見えた。
だが、何も言わない。
桜井は続ける。
「悠真君は優しい」
「そして責任感が強い」
「SPМが崩壊したと知れば、見捨てられない」
「特に、門脇君や凛堂君の名前を聞けばね」
門脇。
凛堂。
かつて悠真たちと関わった者たち。
共闘した者たち。
桜井は、それすら計算に入れていた。
「だから、犬飼は逃がす」
「助けを求めさせる」
「彼はきっと、最高の招待状になる」
桜井は笑った。
それは道化師のような笑みではない。
冷たく、静かで、人を駒として見る者の笑みだった。
「上手く悠真を連れてきてくれよ、子犬ちゃん……」
その声は、誰に届くわけでもなく、壊れた窓から空へ溶けていった。
凛堂たちは、何も言わない。
ただ、桜井の背後に立っている。
命令を待つ兵のように。
桜井総督府様。
その異様な名を当然のように受け入れたSPМの中核たち。
そして、鎖に繋がれた旧人類。
かつてこの国を救う救世主であろうとした組織は、もうその姿を失っていた。
内側から腐り、壊れ、歪み。
今や、救うべき人々を踏みつける存在へと変わっている。
その崩壊の中心で、桜井晴彦は静かに笑っていた。
◇
空の上。
犬飼はまだ飛んでいた。
翼腕で風を掴みながら、東京の方角へ向かう。
息が荒い。
腕の変化は維持できているが、長時間の飛行は負担が大きい。
何度か高度が下がる。
そのたびに、犬飼は歯を食いしばり、再び羽ばたいた。
「くそ……」
視界が揺れる。
だが、止まれない。
止まったら終わる。
SPМの異常を、誰かに伝えなければならない。
桜井が何をしたのか。
門脇たちがどうなったのか。
避難民がどう扱われているのか。
それを伝えられる相手は、今はもう一人しか思い浮かばなかった。
「黒瀬……悠真……」
犬飼は、苦しそうに息を吐きながらも、前を見る。
「あんたなら……」
その先に、東京がある。
かつて崩壊したはずなのに、今は再び社会を取り戻し始めた場所。
門脇が見て、悔しさと嬉しさで涙を流した場所。
人が人として暮らせる場所。
そこへ辿り着けば。
悠真に知らせられれば。
何かが変わるかもしれない。
犬飼は、もう一度強く翼腕を動かした。
SPМの崩壊は、始まってしまった。
そしてその知らせを運ぶ子犬は、傷ついた空を必死に飛んでいた。




