崩れ始めた救世主(前編)
第82話です。宜しくお願い致します。
「……何でこうなったんだ……」
犬飼は、思わずそう呟いていた。
場所は千葉県。
SPМ本部兼関東支部が管轄している区域の一つ。
つい数日前まで、そこは危険地帯ではあったが、それでもSPМによって一定の秩序は保たれていた。
モンスターから逃れてきた避難民たちが身を寄せ、SPМの隊員が周辺警備を行い、少ない物資を分け合いながら何とか生き延びている場所。
犬飼は、そう認識していた。
少なくとも、そうあるべき場所だった。
だが――今、目の前に広がっている光景は、犬飼の知っているSPМではなかった。
「早く動け!」
乾いた音が響く。
ムチの音だった。
SPМの隊員が、やつれきった市民の背中を打っている。
打たれた男は膝をつき、それでも必死に荷物を持ち上げようとしていた。
その首には、縄がかけられている。
逃げられないように。
逆らえないように。
まるで、人間ではなく家畜を扱うように。
「す、すみません……」
男が震える声で謝る。
だが隊員は、さらにムチを振り上げた。
「口答えするな。旧人類のくせに」
旧人類。
その言葉を聞いた瞬間、犬飼の胸の奥が嫌な音を立てた。
何だ、それは。
犬飼は顔を上げる。
少し離れた場所では、別の隊員が住民の背中にまたがっていた。
四つん這いにさせられた住民の上に、まるで馬にでも乗るように座り、足で脇腹を蹴っている。
「進め」
「う……うぅ……」
「遅い」
また、蹴る。
住民は泣いていた。
男も、女も、老人も。
子供までもが、怯えた顔で壁際に固まっていた。
その目には、助けを求める光がある。
だが誰も助けない。
SPМの隊員たちは、それを当然のように見ていた。
誰一人として止めない。
むしろ、笑っている者すらいた。
「……何してんだよ」
犬飼の声は、自分でも驚くほど低かった。
近くにいた隊員が振り返る。
「犬飼副隊長?」
「何してんだって聞いてんだよ!」
犬飼は怒鳴った。
隊員は一瞬きょとんとした顔をした。
怒鳴られたことに驚いたのではない。
なぜ犬飼が怒っているのか、本気で分かっていない顔だった。
「何って、労働力の管理ですが」
「労働力……?」
「はい」
隊員は淡々と言う。
「桜井総督府様の方針に従い、旧人類を労働資源として再配置しています」
「……桜井総督府様?」
犬飼の眉が跳ねる。
「何だよ、それ」
「新たな国家指導者であられる桜井晴彦様のことです」
「は……?」
何を言っているのか、分からなかった。
いや、言葉の意味は分かる。
だが、理解できない。
桜井。
特殊隊隊長の、あの弱々しい男。
会議ではいつも控えめに喋り、誰かの後ろに隠れるような雰囲気をしていた男。
その桜井が、総督府様?
国家指導者?
何の冗談だ。
「おい、ふざけてんのか」
犬飼が一歩詰める。
隊員は不思議そうに首を傾げた。
「ふざけてなどいません」
「旧人類は、我々超人族のために働く存在です」
「桜井総督府様の命令ですから」
「お前……本気で言ってんのか」
「はい」
迷いがない。
恐怖もない。
罪悪感もない。
それが逆に、犬飼の背筋を冷たくした。
何かがおかしい。
隊員たちが、まるで別人のようになっている。
犬飼は周囲を見る。
ムチで打たれる住民。
荷物を運ばされる人々。
泣きながら膝をつく老人。
その全てが、SPМの管理下で行われている。
SPМは、人を守るための組織だったはずだ。
この国を、もう一度立て直すために作られた組織だったはずだ。
なのに今。
守るべき人間が、踏みつけられている。
「……門脇さんは」
犬飼は低く言った。
「門脇さんはどこにいる」
「門脇隊長でしたら、隊長室に」
「……分かった」
犬飼はそれだけ言って走り出した。
胸の奥がざわついていた。
ただ事ではない。
門脇さんなら分かるはずだ。
門脇さんなら、この異常を止めるはずだ。
あの人は、避難民を救うために動いていた。
黒瀬悠真に避難民を助けるよう進言したのも門脇だと聞いている。
元の日常を取り戻す。
この国を、人が普通に暮らせる場所に戻す。
そう語っていた人間だ。
だから、門脇なら――
犬飼は、そう信じたかった。
◇
――数日前。
SPМ本部の会議室には、各隊の隊長と副隊長たちが集められていた。
重厚な長机。
並ぶ椅子。
普段なら、議題によって呼ばれる者は限られる。
だが、この日は違っていた。
隊長だけでなく、副隊長まで呼ばれている。
強襲隊隊長、凛堂明日香。
強襲隊副隊長、柿原紅蓮。
戦術隊隊長、門脇誠司。
影撃隊隊長、影山駿。
影撃隊副隊長、影山潤。
支援隊隊長、世良芽衣。
支援隊副隊長、安藤桃香。
特殊隊隊長、桜井晴彦。
特殊隊副隊長、佐々木金次郎。
SPМの中核を担う者たちが、一室に集まっていた。
ただ一人。
戦術隊副隊長、犬飼だけを除いて。
「おい門脇」
先に口を開いたのは凛堂だった。
椅子に深く腰掛け、足を組みながら、どこか楽しそうに門脇を見る。
「悠真たちは元気にしてたのか?」
「あぁ」
門脇は軽く頷いた。
「元気にしていたよ」
「それどころか、さらに強くなっていた」
その言葉に、凛堂の口角が上がる。
「そうかそうか……!」
まるで獲物の成長を喜ぶ猛獣のような笑みだった。
「俺も早く会ってまた戦いたいぜ!」
「私は戦ってはいないがな」
門脇が苦笑する。
すると凛堂の目が細くなった。
「戦ってたら、俺はお前のことを許してねぇぞ」
軽い口調ではある。
だが、目は本気だった。
門脇は肩をすくめる。
「怖い怖い」
「本気で怖がってねぇだろ」
凛堂が鼻で笑う。
その横で、柿原紅蓮が身を乗り出した。
「俺も早く皆と再会したいぜ!」
柿原の声は相変わらず熱い。
「悠真たちも、あの時よりもっと強くなってるんだろ? 燃えるじゃねぇか!」
そのやり取りに、世良芽衣が鏡を覗きながら割り込んだ。
「ねぇねぇ、それより東京さらに発展してたって本当?」
興味の方向は明らかに戦闘ではない。
世良は髪を指先で整えながら、少し身を乗り出す。
「服とか、美容用品とか、そういうのもあるの?」
「あるにはあるだろうな」
門脇は思い出すように言った。
「以前とは比べ物にならないくらい発展していた」
「もう、ほとんど元の東京と変わらないくらいにはなっていたよ」
「本当!?」
世良の目が輝いた。
「ということは、服とか美容用品とか買い放題じゃなぁ〜い!」
「そこかよ」
柿原が笑う。
「大事よ」
世良は真顔で言った。
「こんな世界になってから、肌の調子を整えるのも一苦労なんだから」
支援隊副隊長の安藤桃香が、隣で小さくため息を吐く。
「隊長、会議中です」
「まだ始まってないでしょ」
「そうですけど」
「ならいいのよ」
世良は楽しそうに微笑む。
「私も俄然、東京に行きたくなってきたわ」
その空気は、まだ普通だった。
雑談があり、冗談があり、多少の緊張はあっても、いつものSPМの会議前の雰囲気だった。
だからこそ、異変は静かに入り込んだ。
門脇がふと周囲を見回す。
そして、眉をひそめた。
「なぁ……それより、何で俺のところだけ副隊長が呼ばれてないんだ?」
その言葉に、何人かが顔を上げた。
「犬飼か?」
凛堂が言う。
「皆、副隊長も呼ばれているはずだが……」
影山潤が無言で周囲を確認する。
確かに犬飼だけがいない。
戦術隊副隊長だけが、この場にいない。
門脇は少しだけ違和感を覚えた。
犬飼は遅刻するタイプではない。
命令があれば必ず来る。
それが来ていないということは、そもそも呼ばれていないのではないか。
そう思いかけた時だった。
「皆、静かにしろ」
影撃隊隊長、影山駿が口を開いた。
無表情。
冷静。
規律を重んじる男らしく、会議前の雑談を切り上げるような声だった。
「会議が始まる」
その言葉で、空気が少し引き締まる。
しかし、次の瞬間。
影山はわずかに眉を動かした。
「今日の議題は……」
言葉が止まる。
「あれ、今日は何を話すんだったか……」
その場に、わずかな沈黙が落ちた。
影山駿が、会議の議題を把握していない。
それはかなり珍しいことだった。
規律を重んじ、事前確認を欠かさない影山が、そんな曖昧な状態で会議室にいる。
門脇は、その違和感にもう一度触れかけた。
だが影山はすぐに続けた。
「桜井から呼ばれて、我々はここに……」
その時。
会議室の奥にいた桜井晴彦が、ゆっくりと立ち上がった。
いつものように、少し頼りない雰囲気。
弱々しい声。
どこにでもいそうな男。
それが、周囲の認識だった。
「皆さん、今日はよく集まってくれました……」
桜井は静かに言った。
その声に、全員の視線が自然と集まる。
誰かが促したわけではない。
ただ、そうするのが当然であるかのように。
桜井はゆっくりと周囲を見渡した。
そして、穏やかな表情のまま言った。
「今から皆さんには、私の部下になってもらいます」
普通なら、あり得ない言葉だった。
SPМは隊ごとに役割があり、それぞれの隊長が権限を持っている。
特殊隊隊長である桜井が、他隊の隊長や副隊長に対して「部下になれ」と言うなど、普通なら即座に反発が起きる。
凛堂なら笑い飛ばすだろう。
影山なら規律違反だと指摘するだろう。
門脇なら理由を問うはずだ。
世良なら面白半分に茶化すかもしれない。
だが――誰も反論しなかった。
むしろ、全員が自然に頷いた。
「はい」
その声が重なる。
凛堂も。
門脇も。
影山も。
柿原も。
世良も。
安藤も。
佐々木も。
誰も疑問を持っていない。
その異様さを、異様だと認識する者は、この場にいなかった。
桜井は微笑む。
その笑みは、以前の弱々しいものとは少し違っていた。
薄く、冷たい。
「そして、今から私がこの国のリーダーになります」
静かな宣言だった。
「これからは、私のことを桜井総督府様と呼びなさい」
間髪入れず、一同が答える。
「はい、桜井総督府様」
その声には迷いがなかった。
桜井は満足そうに頷く。
「今まで、強者である我々は、弱者に対して救いと施しをしてきました」
淡々とした声。
怒りも、熱狂もない。
ただ、決定事項を読み上げるような冷たさ。
「しかし、弱者は何の役にも立たない」
誰も反論しない。
「超人族に覚醒していない旧人類など、この新しい世の中ではゴミ同然です」
凛堂は頷いていた。
門脇も静かに聞いていた。
世良は鏡を見ていない。
影山は姿勢を正している。
柿原の目にも、疑念はない。
「従って、これより超人族絶対至上主義を掲げます」
桜井は、ゆっくりと言葉を続けた。
「超人族ではない者は、これより我々の労働力として扱います」
「保護対象ではありません」
「管理対象です」
「財産です」
「道具です」
その言葉は、あまりにも残酷だった。
SPМが掲げていた理念を、根底から壊す言葉だった。
だが、会議室の誰一人として表情を変えない。
反発しない。
怒らない。
疑問を持たない。
桜井が最後に問う。
「分かりましたね?」
一同は、静かに答えた。
「はい、桜井総督府様」
その瞬間、SPМは内側から崩れ始めた。
いや、もう崩れていたのかもしれない。
ただ、それが形になったのが、この会議だった。
◇
――現在。
犬飼は、戦術隊隊長室の扉の前まで走っていた。
廊下には、以前とは違う空気が漂っている。
誰も彼も、表情が固い。
いや、固いというより、何かを疑うことを忘れた顔をしている。
犬飼は荒く息を吐きながら扉を開けた。
「門脇さん、大変なんすよ今――」
言葉が止まった。
目の前の光景を見た瞬間、犬飼は呼吸を忘れた。
門脇誠司は、そこにいた。
だが、椅子には座っていなかった。
人に座っていた。
一人の住民が、四つん這いになっている。
首には鎖。
その鎖は机の脚に繋がれていた。
痩せた背中。
震える腕。
泣き腫らした目。
その背中に、門脇が腰掛けていた。
いつものような気の抜けた表情で。
まるで、本当に椅子に座っているかのように。
下にいる住民が、か細い声で呟いた。
「助けて……」
犬飼の中で、何かが音を立てて崩れた。
「門脇さん……?」
声が震える。
「何してるんすか……?」
門脇は、いつも通りの顔で犬飼を見た。
「どうしたんだ、犬飼」
「そんなに慌てて」
その声も、態度も、あまりにも自然だった。
だからこそ、恐ろしかった。
「門脇さんこそ、どうしたんすか!」
犬飼は叫んだ。
「門脇さんらしくないっすよ!」
「門脇さんが座ってるのは人間っすよ!」
「助ける対象の人たちですよね!?」
門脇は一度、自分が座っているものを見る。
そして、あっさりと言った。
「あぁ、元人間だ」
一拍。
「今は私の椅子だ」
「……っ」
犬飼は言葉を失った。
元人間。
椅子。
門脇が、そんな言葉を口にした。
あの門脇が。
避難民のために日常を戻したいと言っていた人が。
悠真という男に、人々を救うきっかけを与えた人が。
何で。
どうして。
犬飼には理解できなかった。
理解したくなかった。
「何でこんなことをするんですか……」
犬飼の声は、怒りと困惑で震えていた。
「避難民のために、元の日常に戻すって言ってたことは何だったんですか……!」
門脇は、そこでようやく思い出したように軽く手を打った。
「あぁ……君は会議に出ていなかったから知らなかったんだったな」
穏やかな声。
「すまない。報告が遅れたよ」
「会議……?」
犬飼は眉をひそめる。
自分は、そんな会議に呼ばれていない。
何も知らされていない。
門脇は笑う。
「偉大なる桜井総督府様が、新たにこの国のトップになられた」
「そして、超人族絶対至上主義を掲げられたのだ」
「超人族絶対至上主義……?」
「そうだ」
門脇は、当然のように言う。
「この素晴らしい世界では、我々超人族のみが生きるに値する」
犬飼は信じられないものを見るように門脇を見る。
「君が言っていた元の日常ではない」
「これからは、超人族のための新しい世界を、桜井総督府様と共に作るのだ」
「……」
犬飼は、拳を握った。
桜井。
やはり、桜井だ。
あの男が何かをした。
門脇だけではない。
隊員たちもおかしかった。
そして、会議に出ていた者たちが変わった。
自分だけが知らされていなかった。
自分だけが会議に呼ばれていなかった。
だから、自分だけが今こうして違和感を持っている。
「桜井が何かやったんですね……」
犬飼は低く呟いた。
「あの野郎……」
次の瞬間、犬飼は走り出していた。
門脇は止めなかった。
むしろ、穏やかに見送った。
「犬飼」
呼び止める声に、犬飼は一瞬だけ振り向く。
門脇は笑っていた。
「桜井総督府様に、失礼のないように」
犬飼は何も答えなかった。
ただ、歯を食いしばって廊下を駆け抜けた。




