2人の帰還
第80話です。少し短めですが宜しくお願い致します。
浮田は、涼香の容体をもう一度確認していた。
ゲストハウスの一室。
カーテンの閉められた部屋の中で、先ほどまで死の気配を漂わせていた女性――今井涼香は、今は静かに眠っている。
顔色はまだ万全とは言えない。
長く高熱に苦しみ、呪いによって体力を削られていたのだから当然だ。
それでも、先ほどまで体を侵していた黒い斑点はもうない。
呼吸も落ち着いている。
脈も安定している。
命の危機は、ひとまず越えたと言ってよかった。
「……よし」
浮田は小さく息を吐いた。
その横で、今井翔太と今井恭太が、まだ信じられないような顔で涼香を見ている。
特に恭太は、ベッドの脇に座り込んだまま、姉の手を握っていた。
強く握りすぎないように気をつけながらも、離したくない。
そんな様子だった。
「本当に……助かったんだよな……?」
恭太が震える声で呟く。
浮田は涼香の額から手を離し、淡々と答えた。
「あぁ。呪いは消えてる」
「ただ、体力はかなり落ちてる。しばらくは安静だ」
翔太が深く頷く。
「分かった」
「水分は?」
「起きてから少しずつだ。無理に飲ませるな」
浮田は、医者としての顔のまま指示を出す。
「急に飲ませると吐く可能性もある。まずは口を湿らせる程度から始めろ」
「食事も、いきなり普通のものは駄目だ。消化にいいものから少しずつ」
「熱がぶり返す可能性もある。今夜は必ず誰かが見てろ」
翔太と恭太は、まるで医師の言葉を一言も逃すまいとするように、真剣に聞いていた。
「それと」
浮田は二人を見る。
「俺たちはそろそろ中央会館へ戻らなきゃならん」
その言葉に、コン太が耳を伏せた。
部屋の隅にいたコン太は、先ほどから少し落ち着かない様子だった。
浮田が攫われたこと。
自分がチャン爺に何も言わずに車を追ったこと。
そして、変身が解けて元の姿に戻ってしまったこと。
色々なことが一気に起きたせいで、ようやく今になって緊張が戻ってきたらしい。
「チャン爺……怒ってるコン……?」
ぽつりと呟く。
浮田は即答した。
「怒ってるだろうな」
「うぅ……」
「ただ、怒ってるっていうより心配してる」
「それが一番つらいコン……」
「分かってるなら、次から無茶するな」
「でも浮田が攫われたから……」
コン太は小さく言った。
「放っておけなかったコン」
浮田は一瞬だけ黙る。
そして、少しだけ表情を緩めた。
「……まあ、それについては助かった」
「お前がついてきてなかったら、説明がもっと面倒になってたかもしれねぇしな」
「本当コン?」
「あぁ」
コン太の耳が少しだけ上がる。
だが、浮田はすぐに付け足した。
「でも車の屋根にしがみつくのは二度とやるな」
「はいだコン……」
その横で、翔太が深く頭を下げた。
「本当にすみませんでした」
「姉貴を助けてもらった上に、こんなことまで……」
浮田は手で制する。
「謝罪は後だ」
「まずは戻るぞ」
そして、翔太と恭太へ視線を向けた。
「一人は残って姉の世話をしてやれ」
「起きた後、さっきも言ったが水分補給は少しずつ飲ませるようにしてくれ」
「熱がぶり返すかもしれない。今夜は絶対に目を離すな」
二人は真剣に頷く。
「それと、一人は俺とコン太を送ってもらう」
「そのまま悠真に会って、全部話してもらうからな」
恭太が顔を上げた。
「俺が残る」
迷いのない声だった。
「姉貴の世話は俺がする」
翔太が恭太を見る。
「いいのか?」
「あぁ」
恭太は涼香の手を握ったまま言う。
「兄貴は、浮田さんたちを送って、ちゃんと話してきて」
「俺たちがしたことは、逃げられるようなことじゃない」
「……分かった」
翔太は苦しそうに頷いた。
「なら、俺があんたらを送る」
「悠真という人にも、俺から話す」
浮田は頷いた。
「分かった。その流れで行こう」
恭太はもう一度、深く頭を下げた。
「すまない。本当に何から何までありがとう……」
「礼は涼香が元気になってからでいい」
浮田はそう言って、扉の方へ向かう。
コン太も慌ててついていく。
「コン太」
浮田が声をかける。
「何だコン?」
「今から戻るまで、絶対に勝手に動くな」
「分かったコン」
「絶対だぞ」
「分かったコン!」
「返事だけは一人前だな」
コン太は少しだけ不満そうに頬を膨らませたが、反論はしなかった。
◇
それから、浮田、コン太、翔太の三人はゲストハウスを出た。
黒いバンは、まだ外に停められていた。
浮田にとっては、つい先ほど拉致された車だ。
それにもう一度乗るのは、さすがに気分のいいものではない。
だが、戻るためには仕方がなかった。
翔太が運転席に座る。
浮田とコン太は後部座席に乗った。
車内には、重い沈黙が流れていた。
最初に口を開いたのは翔太だった。
「……本当に、すみませんでした」
ハンドルを握る手に力が入っている。
「姉貴のことで頭がいっぱいで……」
「正常な判断ができてなかった」
浮田は窓の外を見たまま答えた。
「謝る相手は俺だけじゃねぇ」
「分かってます」
「悠真たちにも、チャン爺にも、かなり心配かけてる」
「はい……」
コン太も小さく言う。
「チャン爺、きっとすごく心配してるコン」
翔太はバックミラー越しにコン太を見た。
小さなフォック族。
先ほどまで、翔太にとっては正体不明の存在だった。
だが、今は少し違って見えた。
浮田を追って、車の屋根にしがみついてきた小さな存在。
恐怖よりも、仲間を助けたいという気持ちで動いた存在。
「……コン太にも、怖い思いをさせたな」
「怖かったけど、浮田の方が心配だったコン」
「そうか……」
翔太はそれ以上、何も言えなかった。
バンは東京の街を走る。
中央会館へ近づくにつれ、道路は整備され、人の気配も増えていく。
翔太は改めて、東京という場所の異質さを感じていた。
神奈川では、崩れた建物と瓦礫、隠れるように生きる人々しか見ていなかった。
だがここでは、人が歩いている。
店が開いている。
車が普通に走っている。
警察官が立ち、信号が機能し、駅には電車が走っている。
噂では聞いていた。
でも実際に見ると、まるで別世界だった。
「……本当に、社会が戻ってるんだな」
翔太が小さく呟く。
浮田は短く答える。
「まだ途中だ」
「でも、動き始めてる」
「……すごいな」
翔太の声には、羨望にも似た響きがあった。
◇
だが、その直後。
中央会館が見えてきた瞬間、翔太の表情は一変した。
黒いバンが中央会館の前へ近づく。
その周囲には、すでに人影が集まっていた。
いや、人影だけではない。
バンの前方に、悠真が立っている。
その隣には陸斗。
少し後ろには未来。
チャン爺は無言で立ち、杖に手を添えていた。
さらに、未来が動植物図鑑で出していたシャドウウルフたちが、低く身構えている。
空にはカラスが旋回していた。
周囲には東京の警察官たち。
東部の楢沢。
西部の白沢。
北部の山田。
南部の川原。
他にも数人の警官が配置され、バンを包囲するように立っている。
翔太は、思わずブレーキを踏んだ。
車がゆっくり止まる。
冷たい汗が背中を流れた。
完全に包囲されている。
それはただの警戒ではなかった。
東京という街そのものを敵に回したような圧だった。
「……っ」
翔太は息を呑む。
コン太も窓の外を見て、少し怯えた顔になった。
「みんな……顔が怖いコン……」
いつも優しい悠真。
穏やかなチャン爺。
落ち着いた陸斗。
柔らかい未来。
その全員が、今は鋭い顔をしている。
無理もない。
浮田が攫われ、コン太が消えたのだ。
彼らにとっては、最悪の事態だった。
悠真が一歩前に出る。
「浮田! コン太!」
声が強く響く。
「お前ら大丈夫か!!」
浮田はゆっくりと車のドアを開けた。
不用意な動きはしない。
車から降りると、両手を軽く上げて見せた。
「大丈夫だ」
落ち着いた声だった。
「俺もコン太も無事だ。怪我一つしてねぇ」
続いて、コン太も後部座席から顔を出す。
「無事だコン……」
その瞬間、チャン爺の表情がわずかに揺れた。
普段ほとんど感情を表に出さない彼が、ほんの一瞬だけ、明らかに安堵した。
「コン太様……」
チャン爺はゆっくりと近づく。
「ご無事で何よりでございます」
コン太は耳を伏せた。
「チャン爺……ごめんなさいだコン……」
チャン爺は叱らなかった。
ただ、深く頭を下げる。
「私がお守りすると申し上げながら、見失ってしまいました」
「その責は、私にございます」
「違うコン!」
コン太は慌てて首を振る。
「オイラが勝手についていったんだコン!」
「浮田が連れていかれたから……」
チャン爺は静かにコン太を見た。
怒りよりも、安堵と責任感の方が大きい表情だった。
悠真は、車の運転席にいる翔太へ鋭い視線を向ける。
翔太は完全に固まっていた。
バンを降りることすらできない。
浮田が間に入るように言った。
「事情は俺と、そこにいる翔太から話す」
「ここで騒ぐより、中で話した方がいい」
悠真は浮田を見た。
その表情は険しい。
だが、攫われた本人である浮田がそう言うなら、聞くしかない。
「……分かった」
俺は短く答えた。
怒りも心配も、まだ胸の奥で暴れていた。
だが、浮田が無事で、コン太も無事。
まずはそれが分かっただけで、少しだけ息ができた。
「ただし」
俺は運転席の翔太を見た。
「妙な真似をしたら、その場で止める」
翔太は震えながら頷いた。
「……はい」
俺は警察官たちに目を向けた。
「楢沢、白沢、山田、川原」
「一旦通常業務に戻ってくれ」
「ただし、周辺警戒は少し強めで頼む」
楢沢が頷く。
「了解しました」
白沢も優しく頷くが、目は鋭い。
「何かあればすぐに動きます」
山田は無言で敬礼し、川原はいつもの穏やかな顔で言った。
「では、周辺に人が集まりすぎないようにしておきますね」
未来も、シャドウウルフたちを見た。
「戻って」
影が揺れ、シャドウウルフたちは動植物図鑑へ戻っていく。
空のカラスも少しずつ散っていった。
それでも、場の緊張は完全には消えない。




