初めての街と攫われた医者(後編)
第79話です。宜しくお願いします。
翔太は、まだ警戒を解いていなかった。
当然だった。
目の前に突然現れた、小さなキツネのような存在。
しかも、人の言葉を喋っている。
東京に入るまで、翔太たちは何度もモンスターに遭遇してきた。
その中には、人間のような仕草をするものもいた。
だからこそ、反射的に構えてしまうのも無理はない。
「こいつは何なんだ……?」
翔太が低く言う。
恭太もすぐ横で身構えたままだ。
コン太は慌てて両手を上げる。
「オ、オイラは怪しくないコン!」
「怪しくない奴は自分で怪しくないって言わねぇんだよ」
浮田がすかさず言う。
「ひどいコン!」
そのやり取りに、翔太と恭太は一瞬だけ困惑した。
敵意があるようには見えない。
だが、理解もできない。
そんな顔だった。
浮田は、二人に向かって言った。
「こいつはコン太だ」
「コン太……?」
「あぁ。モンスターじゃないし、危なくもない」
浮田は少しだけ間を置いてから、はっきり続けた。
「俺の仲間だ」
その言葉を聞いた瞬間、コン太の耳がぴくりと動いた。
そして、少しだけ目を丸くする。
「浮田……」
「何だよ」
「仲間って言ってくれたコン」
「事実だろ」
浮田は照れ隠しのように視線を逸らす。
「変なところで感動してんじゃねぇ。今はそれどころじゃない」
「うんだコン!」
「語尾、戻ってんぞ」
「今はいいコン!」
コン太が胸を張る。
浮田は少しだけ呆れた顔をしたが、それ以上は言わなかった。
翔太はまだ疑っている様子だった。
浮田はそれに気づき、顎でコン太を示す。
「不安なら、お前のスキルで見ればいい」
「……いいのか?」
「こいつについて全部見るのは気持ちいいもんじゃねぇが、今は説明してる時間が惜しい」
翔太は迷ったようにコン太を見る。
コン太は一瞬だけ浮田を見上げた。
浮田が小さく頷く。
「大丈夫だ」
「……分かったコン」
コン太は少し不安そうにしながらも、その場でじっと立った。
翔太の目が変わる。
瞳の黒い部分がすうっと薄くなり、白く透き通っていく。
それは先ほど自分のスキルを説明した時よりも、さらに水晶のような輝きを帯びていた。
翔太はコン太を見つめる。
そして、次の瞬間――表情を変えた。
「……何だ、これ……」
声が震える。
「こいつ……別の次元の者なのか……?」
恭太が驚いたように翔太を見る。
「別の次元?」
「情報が……普通じゃない」
翔太は息を呑む。
「種族、フォック族……称号、時空を越えた来訪者……」
「おい」
浮田が低く遮った。
翔太はハッとして口を閉じる。
浮田は真剣な目で翔太を見る。
「それ以上は言うな」
「……」
「そして、その情報は他に漏らすな」
翔太は数秒、黙っていた。
それから、深く頷く。
「分かった」
「俺たちは……姉貴さえ助けてもらえれば、それでいい」
恭太も必死に頷いた。
「コン太ってやつのことは誰にも言わない」
「約束する」
翔太が言う。
「水晶玉で見た情報も、口外しない」
「俺たちにとって今一番大事なのは、姉貴を助けることだ」
その言葉には嘘がないように見えた。
浮田はしばらく翔太を見てから、小さく頷いた。
「分かった」
「その約束、破るなよ」
「破らない」
翔太の返事は早かった。
浮田はコン太へ視線を向ける。
「コン太、お前は少し下がってろ」
「分かったコン」
「あと、勝手に動くな」
「分かったコン」
「本当にだぞ」
「分かったコン!」
「返事だけはいいな」
コン太は部屋の隅へ移動した。
だが、目はずっとベッドの涼香へ向けられている。
苦しそうに眠る女性。
黒い斑点が体を侵している。
コン太も、その姿を見てふざける気にはなれなかった。
◇
浮田はベッドの横に立った。
医者としての顔に戻る。
拉致された怒り。
コン太への心配。
翔太たちへの疑念。
それらを全て一度脇に置く。
今、目の前にいるのは患者だ。
命の危機にある患者。
それだけで、浮田が動く理由には十分だった。
「名前は今井涼香だったな」
「あぁ」
翔太が答える。
「年齢は?」
「二十八」
「呪われたのはいつだ?」
「二日前の夕方だ」
「進行が早いな……」
浮田は涼香の体を確認する。
黒い斑点は下半身から腹部を越え、胸の下あたりまで広がり始めていた。
全身に回れば死ぬ。
翔太の話が本当なら、もうかなり危険な段階だ。
浮田は深く息を吐く。
「やるぞ」
その言葉に、翔太と恭太が息を止めた。
「ただし、さっきも言った通り、呪いに対して効く保証はない」
「それでもいい」
翔太が即答する。
「頼む」
「姉貴を助けてくれ」
恭太も頭を下げる。
浮田は二人を見て、短く頷いた。
「手術室」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
白い光が床から広がる。
現実の部屋が塗り替えられていくように、無機質で清潔な空間が展開された。
ベッドを中心に、白い壁、白い床、手術台のような輪郭。
外界と切り離されたような、静かな空間。
これが浮田のスキル。
手術室。
その中の一つ――手術空間。
涼香の体が、白い空間の中に包まれる。
翔太と恭太は思わず後ずさった。
「これが……」
「手術室……」
コン太も部屋の隅で目を丸くしていた。
「すごいコン……」
浮田は涼香の状態を見つめる。
手術空間が展開された瞬間、変化はすぐに起きた。
黒い斑点が、わずかに揺らいだ。
まるで皮膚の下にいた何かが、白い空間に拒絶されているように。
次の瞬間。
黒い斑点から、じゅう、と小さな音がした。
蒸気のようなものが立ち上る。
「……っ」
翔太が息を呑む。
恭太も目を見開いた。
黒い斑点が、少しずつ薄くなっていく。
ゆっくりと。
しかし確実に。
皮膚に染み込んでいた黒が、白い空間の力によって押し出されるように浮かび上がり、蒸気となって消えていく。
浮田は驚きながらも、目を離さなかった。
「……効いてる」
自分でも信じられないような声だった。
手術空間は、外的要因を遮断する。
それは、感染や汚染、外部からの干渉を弾く性質を持っている。
だが、それが“呪い”にまで作用するとは、浮田自身も知らなかった。
黒い斑点は、下半身からゆっくりと消えていく。
腹部。
腰。
太腿。
足先。
斑点が消えるたびに、涼香の呼吸が少しずつ安定していった。
苦しげに寄っていた眉間のしわが緩む。
浅かった呼吸が、深くなる。
唇にわずかに血色が戻る。
浮田は脈を確認した。
「……脈が戻ってきた」
翔太の目に涙が浮かぶ。
「本当か……?」
「まだ動くな」
浮田が短く言う。
「完全に消えるまで待つ」
翔太は口を閉じ、必死に頷いた。
手術空間の中で、最後の黒い斑点が蒸気となって消えていく。
しばらくして。
涼香の肌から、不気味な黒は完全に消えていた。
顔色はまだ万全ではない。
体力も落ちている。
だが、先ほどまでの死に向かっているような気配は消えていた。
浮田は涼香の瞼、呼吸、脈、体温を確認する。
そして、ゆっくりと手術空間を解除した。
白い空間が薄れていく。
元のゲストハウスの部屋が戻ってくる。
涼香は、静かに眠っていた。
苦痛に歪んでいた表情は、穏やかになっている。
「……ふぅ」
浮田は大きく息を吐いた。
「俺のスキルで呪いまで弾けるとはな……」
誰に言うでもなく呟く。
「凄いな……俺のスキル……」
◇
翔太が一歩前へ出る。
「もう、大丈夫なのか……?」
その声は震えていた。
浮田は涼香を見ながら答える。
「あぁ」
「恐らくもう大丈夫だろう」
「呪いは消えた」
「ただ、体力はかなり落ちてる。しばらくは安静だ」
その瞬間、恭太の膝が崩れた。
その場に座り込み、両手で顔を覆う。
「よかった……」
声が震えている。
「本当に……よかった……」
翔太も、ベッドの横に膝をついた。
涼香の手を握る。
「姉貴……」
涼香は眠ったままだ。
だが、その呼吸は穏やかだった。
翔太はその手を握りしめたまま、浮田へ頭を下げる。
「ありがとう……!」
声が詰まっていた。
「本当に、ありがとう……!」
恭太も床に座り込んだまま、何度も頭を下げる。
「助けてくれて……ありがとう……」
浮田は少し居心地悪そうに頭をかく。
「礼を言う前に、まず拉致の件を反省しろ」
「……はい」
翔太が即答する。
「本当にすみませんでした」
「俺たちは、取り返しのつかないことをするところでした」
恭太も頭を下げる。
「ごめんなさい」
浮田はため息を吐く。
「まあ、事情は分かった」
「ただ、次からは普通に頼め」
「助けられるもんなら助ける」
「俺は医者だからな」
その言葉に、翔太と恭太はまた深く頭を下げた。
コン太が、部屋の隅からそっと近づいてくる。
「浮田、すごいコン」
「お前はまず、自分の心配をしろ」
「オイラは大丈夫だコン」
「車の屋根に乗ってきたやつが言う台詞じゃねぇ」
「でも落ちなかったコン!」
「そういう問題じゃねぇんだよ」
浮田は呆れたように言った。
だが、その声は怒り切れていなかった。
コン太が無事でよかった。
それが滲んでいた。
翔太はコン太を見る。
まだ完全に理解したわけではない。
だが、少なくとも敵ではないことは分かったようだった。
「……コン太、だったな」
「そうだコン」
「さっきは構えて悪かった」
「いいコン。モンスターに見えたなら仕方ないコン」
「いや……」
翔太は少しだけ言葉を詰まらせる。
「お前も、浮田さんを追ってきたんだよな」
「そうだコン」
「すごいな」
コン太は少しだけ照れたように胸を張る。
「匂いを追うのは得意だコン!」
「なるほど……」
恭太が小さく呟く。
「俺の透明人間でも、匂いは消せないのか……」
「消せないみたいだコン」
「勉強になった」
「犯罪に活かすなよ」
浮田が低く言う。
恭太は慌てて首を振る。
「もうしません!」
「本当だろうな」
「本当です!」
浮田はもう一度ため息を吐いた。
◇
「……さて」
少し落ち着いたところで、浮田は部屋を見回した。
「俺が連れ去られたってことは、今頃チャン爺がとんでもねぇ顔してるぞ」
コン太がビクッとした。
「チャン爺、怒ってるコン?」
「怒ってるだろうな」
「やっぱりコン……」
「いや、怒ってるというより心配してる」
浮田は言う。
「どっちにしろ、早く連絡しないとまずい」
翔太がすぐに立ち上がる。
「俺たちが送る」
「当たり前だ」
「それと、東京側にも事情を説明する」
「……分かってる」
翔太は涼香を見る。
「姉貴を助けてもらった以上、逃げるつもりはない」
浮田はその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
「ならいい」
恭太も立ち上がる。
「本当に、何でも話します」
「俺たちのスキルのことも、カーストアンデットのことも」
「その辺りは悠真に話せ」
浮田が言う。
「俺は医者だ。政治や管理はあいつの仕事だ」
「悠真……?」
「この東京を動かしてる男だよ」
翔太と恭太は顔を見合わせた。
「東京を……」
「動かしてる……」
浮田は涼香の容体をもう一度確認しながら言う。
「お前らが噂で聞いて来た東京は、あいつが中心になって作った場所だ」
「だから、これからどうするかは悠真と話せ」
翔太は静かに頷いた。
「分かった」
その時、涼香がわずかに身じろぎした。
「……ん……」
翔太がすぐに顔を寄せる。
「姉貴?」
涼香はまだ目を覚まさない。
だが、苦しげな声ではなかった。
ただ眠りの中で、少しだけ体を動かしただけだった。
翔太は、その小さな反応だけで泣きそうな顔になった。
浮田はそれを見て、静かに言う。
「しばらく寝かせてやれ」
「あぁ……」
「水分補給は起きてから少しずつだ。無理に飲ませるな」
「分かった」
「あと、今夜は熱がぶり返す可能性もある。目を離すな」
「分かった」
「俺も戻る前に、念のためもう一度確認する」
「ありがとう……」
翔太は何度も頷いた。
部屋の空気は、最初とは全く違っていた。
拉致された医者。
脅迫するように助けを求めた兄弟。
突然現れた小さなフォック族。
異様な状況だった。
だが、その中心にいた涼香は助かった。
少なくとも、命の危機からは抜け出した。
浮田は窓の外を見た。
日が傾き始めている。
チャン爺がこちらへ向かっているか、あるいは悠真に連絡しているだろう。
どちらにせよ、この件はすぐに大きくなる。
「……面倒なことになったな」
浮田が呟く。
コン太が首を傾げる。
「でも、涼香は助かったコン」
「まあな」
浮田は少しだけ笑った。
「そこだけは、悪くない」
翔太と恭太が、もう一度深く頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
浮田は片手をひらひら振った。
「礼はいい」
「患者が助かったなら、それでいい」
そして、少しだけ声を低くする。
「ただし」
二人が顔を上げる。
「次に同じことをしたら、俺じゃなくてチャン爺に斬られるぞ」
翔太と恭太の顔が引きつった。
コン太は、想像したのか小さく震えた。
「チャン爺は怒らせたら怖いコン……」
「お前も後で説教だな」
「えぇぇ……」
浮田は呆れたように笑いながら、涼香の容体を見る。
黒い斑点は、もうどこにもなかった。
部屋には、静かな呼吸音だけが残っている。
こうして、浮田の手術室は初めて“呪い”を弾いた。
そして、翔太と恭太は姉を失わずに済んだ。
だが同時に、この事件は新たな出会いと問題を東京へ持ち込むことになる。
神奈川方面のBランクモンスター、カーストアンデット。
水晶玉と透明人間という新たなスキル。
そして、東京へ救いを求めてやって来た三兄弟。
浮田は小さく息を吐いた。
医者として命を救った安堵と、これから起こる面倒事への予感。
その二つを抱えたまま、彼は静かに言った。
「さて……まずは、悠真に怒られる準備だな」
コン太が耳を伏せる。
「オイラも怒られるコン……?」
「確実にな」
「うぅ……」
それでも、コン太は少しだけ涼香を見た。
苦しそうだった女性が、今は静かに眠っている。
その姿を見て、コン太は小さく呟いた。
「でも、来てよかったコン」
浮田は何も言わなかった。
ただ、その言葉には反論しなかった。




