初めての街と攫われた医者(中編)
第78話です。宜しくお願い致します。
黒いバンの中で、浮田は静かに呼吸を整えていた。
頭には袋を被せられている。
視界は完全に塞がれていた。
さらに、妙だった。
音が遠い。
いや、聞こえないわけではない。
車の振動は感じる。
体が左右に揺れる感覚もある。
だが、外の音がほとんど届いてこない。
普通なら、エンジン音やタイヤが道路を走る音、周囲の車の気配くらいは聞こえるはずだ。
それが、妙に薄い。
まるで自分だけが別の膜の内側に閉じ込められているようだった。
(……何かのスキルか)
浮田は暴れなかった。
焦っても意味がない。
袋を被せられた時点で、相手はこちらの行動をある程度想定している。
下手に暴れれば、周囲にいるかもしれない人間を傷つける可能性もある。
それに――相手が浮田を殺すつもりなら、わざわざ拉致する必要はない。
目的がある。
金か。
脅しか。
人質か。
それとも、自分のスキルか。
(……俺自身が目的って可能性が一番高いな)
浮田は、袋の中で静かに目を細めた。
手足は強く縛られてはいない。
ただ、左右から押さえられている感覚がある。
相手は二人。
少なくとも、浮田が直接感じ取れる範囲ではそうだった。
だが、さっきの接近の仕方は普通じゃなかった。
チャン爺がすぐ近くにいた。
あのチャン爺が、反応に遅れた。
それだけで、相手が何らかの特殊なスキルを使っていたことはほぼ間違いない。
(チャン爺が気付けねぇなら、音か気配を消すタイプか……)
浮田はゆっくり息を吐く。
そして、すぐにコン太のことを考えた。
コン太は無事か。
あの場に残ったのか。
チャン爺が守っているはずだ。
そう思いたかった。
だが、あの小さなフォック族は、見た目以上に行動力がある。
浮田は少しだけ嫌な予感を覚えた。
(……まさか付いてきてねぇだろうな)
車はしばらく走り続けた。
浮田の体感で三十分ほど。
道中、何度か大きく揺れた。
崩壊後の道路はまだ完全には整備されていない場所も多い。
おそらく東京の外れ、あるいは東京内でも人通りの少ない区画へ向かっているのだろう。
やがて、車が止まった。
スライドドアが開く気配。
浮田の腕が掴まれる。
「降りろ」
低い男の声。
荒いが、どこか追い詰められているような声だった。
「袋被せといて降りろって、随分親切じゃねぇな」
浮田が皮肉を言うと、男は一瞬黙った。
「……すまない」
その返答に、浮田は眉を動かした。
謝った。
拉致犯が。
(……訳ありか)
浮田は足元に注意しながら車を降りた。
地面はコンクリート。
それから建物の中へ入る。
空気が変わった。
少し湿った匂い。
人がしばらく使っていなかった建物を、急に使い始めたような匂い。
ゲストハウスか、民泊施設か。
そんな場所だろう。
廊下を数歩歩かされる。
部屋に入る。
そして、ようやく袋が外された。
◇
「……っ」
視界に光が戻る。
浮田は一度瞬きをして、周囲を確認した。
部屋は広くない。
簡素なベッド。
小さな棚。
机。
カーテンは閉められている。
そして――ベッドの上に、一人の女性が寝ていた。
苦しそうに息をしている。
額には汗。
顔色は悪い。
唇は乾き、呼吸は浅い。
さらに、掛け布団の隙間から見えた足元には、黒い斑点のような模様が広がっていた。
ただの発疹ではない。
皮膚そのものが内側から侵食されているような、不気味な黒。
それが下半身から腹部へ向かって、じわじわと伸びている。
浮田の顔が変わった。
拉致された怒りより先に、医者としての目が働く。
「……何だ、これは」
浮田は低く呟いた。
見たことがない症状だった。
熱。
衰弱。
皮膚症状。
だが、感染症とも違う。
毒とも違う。
もっと異質なもの。
スキルか、モンスター由来か。
そう考えた瞬間、覆面の男の一人が口を開いた。
「手荒い真似をしてすまない……」
男は覆面を取った。
二十代半ばほどの青年だった。
目の下には濃い隈がある。
疲労と焦りが顔に張りついていた。
「俺たちの姉貴を治してくれ」
声が震えている。
「あんたならできるはずだ……!」
もう一人の男も覆面を外した。
こちらは少し若く見える。
同じように疲れ切った顔をしていたが、目だけは強く浮田を見ていた。
浮田は二人を睨むように見る。
「……何故、俺が治せると思うんだ?」
青年が答える。
「あんた、手術室ってスキル持ってるんだろう?」
その言葉に、浮田の目が鋭くなった。
「何でそのことを知っている」
「……」
男は言葉に詰まる。
浮田は、苛立ちを隠さず続けた。
「拉致までしておいて、黙るつもりか?」
「……違う」
男は首を振る。
「話す。全部話す」
浮田は一度、ベッドの女性を見る。
時間はあまりない。
この黒い斑点がどこまで進んでいるかは分からないが、明らかに危険な状態だ。
感情だけで怒鳴っている場合ではない。
「まあ、いい」
浮田は低く言った。
「事情があるんだろう」
「全部話せ」
青年は大きく息を吸った。
「俺の名前は今井翔太」
そう名乗った男は、隣の若い男を示す。
「こっちは弟の今井恭太」
「で、ベッドにいるのが……」
翔太は、一瞬だけ言葉を詰まらせる。
「俺たちの姉貴、今井涼香だ」
恭太がベッドの方を見る。
その表情には、強い焦りと恐怖が浮かんでいた。
「姉貴は……呪われたんだ」
「呪い?」
浮田が眉をひそめる。
「あぁ」
翔太は頷いた。
◇
「俺たちは元々、神奈川に住んでた」
「ゲートが開いてから、ずっとあちこち逃げ回ってた」
「でも、東京が社会を取り戻し始めてるって噂を聞いたんだ」
「銀行ができたとか、電車が走ったとか、人が普通に暮らしてるとか」
浮田は黙って聞いていた。
東京の噂は、もう外にもかなり広がっているらしい。
それは良いことでもあり、危険なことでもある。
「俺たちは、このまま神奈川で隠れて暮らしてても長くは持たないと思った」
翔太は続ける。
「だから、姉貴と恭太と三人で、バンに乗って東京へ向かった」
恭太が小さく付け加える。
「危険なのは分かってた。でも……東京に行けば、普通に暮らせるかもしれないって思ったんだ」
その言葉には、切実さがあった。
崩壊した世界で、普通に暮らしたい。
それは誰もが願うことだ。
「でも、途中で休憩した場所で……事件が起きた」
翔太の声が低くなる。
「突然、ゲートが開いた」
「そこから出てきたのが、Bランクモンスター――カーストアンデットだ」
浮田は聞き慣れない名前に眉を寄せた。
「カーストアンデット……」
「あぁ」
翔太は頷く。
「俺たちは超人族に覚醒してる」
「何度かモンスターとも遭遇したことがあった」
「カーストアンデットも、名前と特徴だけは知ってた」
恭太が悔しそうに拳を握る。
「触られたら終わりなんだ」
「終わり?」
「あいつに触られると呪われる」
翔太が説明を引き継ぐ。
「最初は、きつい風邪みたいな症状から始まる」
「高熱、寒気、咳、倦怠感」
「でもそれだけじゃない」
「時間が経つと、体がどんどん衰弱していく」
「下半身から黒い斑点模様が広がって……」
翔太は涼香を見る。
「全身に行き渡った時、死ぬ」
部屋の空気が重くなった。
浮田は涼香の足元から腹部へ広がる黒い斑点を見る。
まだ全身には届いていない。
だが、進行は確実に進んでいる。
「車へ戻ろうとした」
翔太の声が震える。
「俺と恭太は走った。姉貴も走ってた」
「でも……途中で瓦礫に足を取られて、転んだんだ」
恭太が顔を歪める。
「俺がすぐ戻ればよかった」
「恭太」
「俺がもっと早く……!」
「やめろ」
翔太が低く言った。
だが、その声も苦しそうだった。
「カーストアンデットが姉貴に触れた」
「その瞬間、姉貴の顔色が変わった」
「俺は無我夢中で、バンを出した」
翔太は自分の手を見る。
「そのまま、車でカーストアンデットに突っ込んだ」
「轢いたのか」
「あぁ」
「重傷は負わせたと思う」
「その隙に、恭太が姉貴を抱えて車に乗せた」
恭太が頷く。
「何とか逃げた」
「でも、姉貴はすぐに熱を出した」
「黒い斑点も出始めた」
「数日しか持たないって分かってた」
浮田は静かに問う。
「それで東京へ向かったのか」
「あぁ」
翔太は頷いた。
「東京なら、助けられる人がいるかもしれない」
「そう信じるしかなかった」
本来、神奈川から東京までなら数時間で着く。
だが、崩壊後の道はまともではない。
道路は瓦礫で塞がれ、橋は落ち、車が放置され、遠回りを余儀なくされる。
彼らは一日かけて、ようやく東京へ辿り着いた。
◇
「ゲストハウスを借りて、姉貴を寝かせた」
翔太は続ける。
「でも、普通の医者じゃ無理だと思った」
「だから、俺のスキルで探した」
「スキル?」
浮田が聞き返す。
翔太は頷く。
「俺のスキルは《水晶玉》」
「対象の情報を確認することができる」
そう言うと、翔太の目に変化が現れた。
瞳の黒い部分が薄れ、白く透き通る。
まるで目そのものが水晶に変わったような、不思議な光を宿した。
「対象の名前、種族、スキル、状態……見ようと思えば、いろんな情報が見える」
「そのスキルで、呪いを治せる可能性がある人を探した」
浮田は目を細める。
「それで俺を見つけた」
「あぁ」
「手術室というスキル」
「その中の手術空間に、“いかなる外的要因も受けない”と書かれていた」
「外的要因……」
浮田が呟く。
「俺たちは考えたんだ」
翔太の声に、必死さが滲む。
「もし呪いが外から受けたものなら、手術空間で弾けるんじゃないかって」
「それしか思いつかなかった」
浮田は、そこで恭太を見る。
「で、お前のスキルは?」
恭太は少しだけ気まずそうに目を逸らした。
「俺のスキルは《透明人間》」
「自分か他人を透明化できる」
「透明化している対象は、音も遮断される」
浮田は小さく舌打ちした。
「なるほどな」
チャン爺が気付けなかった理由が、それで分かった。
姿が見えない。
音も聞こえない。
それなら、いくらチャン爺でも反応が遅れる可能性はある。
「ただし、一度に透明化できるのは一人だけだ」
恭太は続ける。
「自分が透明になってる間は、他の人を透明にはできない」
「それでお前が透明になって、俺に近づいたわけか」
「……そうだ」
「袋被せて拉致」
「……本当に、すまない」
恭太は深く頭を下げた。
翔太も同じように頭を下げる。
「でも、時間がなかったんだ」
「頼んでも断られるかもしれない」
「場所を説明してる間に姉貴が死ぬかもしれない」
「だから……」
「だから拉致した、か」
浮田の声は冷たかった。
二人は何も言い返さない。
浮田はしばらく黙っていた。
怒っていないわけではない。
拉致されたのだ。
当然だ。
だが、目の前には患者がいる。
そして、彼らがただの悪人ではないことも分かった。
愚かではある。
焦っていた。
追い詰められていた。
それだけだ。
「事情は分かった」
浮田は静かに言った。
「大変な思いをしたんだな」
翔太と恭太が顔を上げる。
「だが、そんな拉致までしなくても、助けられるものなら助けるさ」
浮田は涼香の方へ歩く。
「俺は医者だからな」
その言葉に、翔太の表情が揺れた。
恭太も、唇を噛みしめる。
「ただし」
浮田は涼香の症状を見ながら言った。
「呪いを手術室で弾くなんてことは、今までやったことがねぇ」
「できるかどうかは分からん」
「それでも頼む!」
翔太が叫ぶように言う。
「姉貴を助けてくれ……!」
恭太も頭を下げる。
「お願いします……!」
浮田は何も言わず、涼香の額に手を当てた。
高熱。
呼吸は浅い。
脈も弱い。
時間は少ない。
その時だった。
◇
部屋の後ろで、何かが倒れる音がした。
ガシャン。
花瓶が床に落ち、割れる。
三人は一斉に振り向いた。
恭太が身構える。
「誰だ……!?」
棚の影。
そこから、もぞもぞと小さな影が出てきた。
「……バレちゃったコン」
そこにいたのは、元のフォック族の姿に戻ったコン太だった。
翔太と恭太が目を見開く。
「何だ!?」
「モンスターが喋った?!」
二人は反射的に構えた。
だが浮田がすぐに声を上げる。
「待て」
「コン太……?」
浮田は呆然とコン太を見る。
「お前、そんなとこで何をしているんだ?」
「それに、元の姿に戻ってるぞ……」
コン太は少し誇らしげに胸を張った。
だが、すぐに慌てたように言う。
「そうだコン……でも、そんなことしてる場合じゃなかったコン!」
「浮田が連れ去られたのを見て、オイラも車の上に乗って付いていったコン!」
浮田は一瞬、言葉を失った。
「……お前、すごいな」
素直な感想だった。
コン太は鼻をひくひく動かす。
「あの透明の人、匂いがしたコン」
その言葉に、恭太の表情が変わる。
「匂い……?」
「そうだコン」
「姿も音もなかったけど、知らない匂いが近づいてきたコン」
「だから変だと思ったコン」
チャン爺が気付けなかった接近。
だが、コン太は気づいていた。
音でも、姿でもなく、匂いで。
「浮田に袋を被せた瞬間、オイラも追いかけたコン」
「でも車が速すぎて、中には入れなかったコン」
「だから屋根にしがみついたコン」
「屋根に!?」
浮田が思わず声を上げる。
「落ちたらどうするつもりだったんだ!」
「必死だったから考えてなかったコン!」
「考えろ!」
浮田の怒鳴り声に、コン太はビクッとした。
だがすぐに、心配そうに浮田を見る。
「でも、浮田が連れていかれたから……放っておけなかったコン」
「……」
浮田は言葉を詰まらせた。
小さなフォック族が、自分を追ってきた。
危険を承知で、車の上にしがみついて。
その事実に、胸の奥が少しだけ詰まる。
「……無茶しやがって」
浮田は小さく呟いた。
その声は、怒っているようで、どこか優しかった。
今回は前編、中編、後編と少し長めの話になっていますが宜しくお願いします!




