初めての街と攫われた医者(前編)
第77話です。宜しくお願い致します。
悠真が浮田のいる部屋を訪ねたのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。
中央会館の中は、昼の慌ただしさが落ち着き、少しだけ静かな時間が流れている。
浮田は診療用の資料を整理していた。
この街に来てからというもの、彼の仕事は増え続けている。
怪我人の治療。
住民の体調管理。
新しく入ってきた住民の健康確認。
そして最近では、農業や工業に従事する者たちの作業中の怪我にも対応している。
東京が社会として動き出せば出すほど、医者の仕事もまた増えていく。
そんな浮田に向かって、悠真は扉を開けるなり言った。
「浮田、少しいいか?」
浮田は顔を上げる。
「何だ? また何か面倒事か?」
「……まあ、面倒事と言えば面倒事だな」
「お前がそう言う時は大体かなり面倒なんだよ」
浮田は嫌な予感を隠さず、椅子にもたれかかった。
悠真は少しだけ苦笑しながら、事情を説明した。
コン太がスキル《化けぎつね》を得たこと。
今、人間の少年の姿に変身していること。
そして、外に出たいと言っていること。
話を聞き終えた浮田は、数秒だけ黙った。
そして、眉間にしわを寄せる。
「……待て」
「あぁ」
「コン太が、人間になった?」
「見た目だけな」
「しかもスキル?」
「そうらしい」
「お前の周り、本当に毎日何か起こるな」
「俺もそう思ってる」
悠真が即答すると、浮田は深いため息を吐いた。
「で? 俺に何をしろって?」
「外出に付き添ってほしい」
「チャン爺がいるんだろ?」
「いる。ただ、チャン爺だけだと少し過保護になりすぎるかもしれない」
「まあ、分からんでもない」
「それに、何かあった時に医者がいた方が安心だ」
浮田は面倒くさそうに頭をかいた。
だが、断る気はなさそうだった。
「……初めて外に出るなら、確かに誰かが付いてた方がいいな」
「あぁ」
「それに、あいつが妙なもの拾って食った時に止める役も必要だろ」
「それは本当に必要かもしれない」
「だろ?」
浮田は立ち上がった。
「分かった。付き合ってやるよ」
「助かる」
「ただし、面倒事はごめんだぞ」
「それは俺も願ってる」
その願いが、この後あっさり裏切られるとは、この時の二人はまだ知らなかった。
◇
悠真と浮田がコン太の部屋へ向かうと、そこにはすでにチャン爺とコン太が待っていた。
コン太は、少年の姿のまま椅子に座っている。
見た目は完全に人間の子供だ。
小柄で、目が大きく、どこか素朴な雰囲気がある。
ただし、服装が少し目立っていた。
地球の今の子供服というより、どこか素朴で古風な服装。
街を歩けば、かなり浮くだろう。
浮田はその姿を見るなり、目を細めた。
「……本当にコン太なのか?」
「コン太だコン!」
「その語尾でだいたい分かるな」
「語尾には気を付けるコン!」
「もう失敗してるぞ」
浮田のツッコミに、コン太は慌てて口を押さえた。
悠真はコン太の服装を見て、軽く腕を組む。
「その服のまま外に出るのは目立つな」
「そうなのかコン?」
「あぁ。かなり目立つ」
チャン爺も静かに頷いた。
「現在の東京で一般的な子供服とは、少々異なりますな」
「本当なら服屋で買うべきなんだが……」
悠真は少しだけ考える。
今の東京では、少しずつ経済が回り始めている。
銀行ができ、円が流通し、店が開き、人々が働き始めた。
だから本来なら、必要なものは店で買うのが正しい。
何でも商品生成で済ませてしまえば、せっかく生まれ始めた社会の循環を潰してしまう。
しかし、今は状況が違った。
コン太の変身時間には制限がある。
三時間。
しかも初めての外出だ。
子供服を用意するためだけに時間をかけるのは惜しい。
それに、今この場には合う服がない。
「今回は仕方ないな」
悠真は手をかざす。
「商品生成」
次の瞬間、手元に子供用の服が現れた。
シンプルなパーカー。
動きやすいズボン。
スニーカー。
それから帽子。
派手すぎず、地味すぎず、街にいても不自然ではない服装だ。
「本当は買う方がいいんだが、今回は急だからこれで我慢してくれ」
「これ、オイラが着るコン?」
「そうだ」
「人族っぽいコン!」
「人族って言い方も外では控えろ」
「難しいコン……」
「頑張れ」
コン太は着替えを済ませると、鏡の前でくるりと回った。
「どうだコン? 都会の子供っぽいコン?」
「語尾以外はな」
浮田が即座に言う。
コン太は、また口を押さえた。
「どうだ……です?」
「無理に丁寧にすると逆に変だな」
「難しすぎるコン!」
悠真は苦笑した。
「とにかく、外ではなるべく喋りすぎないこと」
「分かったコン!」
「今の感じだと不安しかないな」
悠真は改めて外出時のルールを確認することにした。
「まず一つ。絶対に一人で離れるな」
「分かった!」
「二つ。変身が切れる前に必ず戻る」
「三時間だコン……あ、三時間!」
「三つ。道路へ飛び出さない」
「飛び出さない!」
「四つ。変なものを拾って食べない」
「……分かった」
「今、迷ったな?」
「迷ってない!」
浮田が腕を組む。
「こいつ、絶対なんか食おうとするぞ」
「ちゃんと見ておきます」
チャン爺が静かに言った。
「コン太様から目を離すことはございません」
「頼む」
悠真はコン太の前にしゃがむ。
「初めての外だ。楽しいだろうけど、危ないこともある」
「うん」
「チャン爺と浮田の言うことをちゃんと聞け」
「分かった!」
今度は語尾が出なかった。
コン太は少し誇らしげに胸を張る。
「どうだコン……あっ」
「まだ先は長いな」
悠真はそう言って笑いながらも、コン太の目線に合わせて言葉を続けた。
「楽しんでこい」
その一言に、コン太の表情が一気に明るくなる。
「うん!」
こうして、コン太の初めての東京散策が始まった。
◇
中央会館の外へ出た瞬間、コン太は固まった。
窓から何度も見ていた景色。
だが、実際に外へ出て立つと、全く違うものに見えた。
高層ビルが、空へ向かって伸びている。
ガラスの壁が光を反射し、道路には車が走り、人々が行き交っている。
遠くからは電車の走る音も聞こえた。
コン太はゆっくりと上を見上げる。
「……高い」
小さく呟いた。
そして、首が痛くなったのか、両手で首を押さえる。
「高すぎるコン……じゃなくて、高すぎる……!」
浮田が横で笑う。
「そこまで頑張って言い直さなくてもいいぞ」
「でもバレたら困るって悠真が言った」
「まあ、人前では気をつけろ」
コン太は何度も頷いた。
チャン爺は、その横で静かに周囲を見ている。
歩行者。
車。
周囲の気配。
不審な動き。
すべてを確認していた。
コン太が道路の方へ目を向けた時、一台の車が目の前を通り過ぎた。
ブォン、とエンジン音が響く。
コン太は思わずチャン爺の後ろに隠れた。
「鉄の箱が速い……!」
「車でございます」
「怒ってない? 音が大きい」
「怒っているわけではございません。エンジン音でございます」
「えんじん……?」
コン太は聞き慣れない言葉に首を傾げる。
浮田が言う。
「まあ、簡単に言うと、あの箱を動かしてる仕組みだ」
「箱が自分で走るの、やっぱり変だ……」
「翡翠球にはないのか?」
「ない。荷車とか、ホーズ族に引いてもらう車はある」
「ホーズ族ねぇ……」
浮田は少し興味深そうに呟いた。
コン太は車が通り過ぎた後、空気をくんくんと嗅いだ。
「……この街、少し苦い匂いがする」
「苦い匂い?」
「翡翠球より、空気が重い感じ」
チャン爺が穏やかに答える。
「排気ガスや、舗装された道路の匂いでございましょう」
「翡翠球は森の匂いが多い。土とか草とか花とか」
「こちらは都市でございますから」
「都市……すごいけど、ちょっと鼻が疲れる」
コン太は顔をしかめた。
フォック族だからだろうか。
鼻がいいのかもしれない。
チャン爺はその反応を静かに覚えておいた。
やがて三人は横断歩道の前に立った。
赤信号。
コン太は信号機を見上げる。
「赤い人がいる」
「あれが赤なら止まる」
浮田が説明する。
「青になったら進む」
やがて信号が青に変わる。
「青い人になった」
「進むぞ」
「この世界の人族は、光の人に従うのか」
「言い方」
浮田が思わずツッコむ。
チャン爺は少しだけ微笑んだ。
「交通の安全を守るための仕組みでございます」
「仕組みが多い……」
コン太は感心したように呟いた。
街を歩くたび、コン太の反応は新鮮だった。
コンビニの自動ドアが開けば驚き、ビルのエレベーターを見れば「箱が上下するのか」と目を丸くし、駅前の広場では人の多さに圧倒された。
だが、チャン爺と浮田がそばにいるため、必要以上に騒ぐことはなかった。
いや、騒ぎそうになるたびに、チャン爺が静かに声をかけていた。
「コン太様、声量を少し抑えましょう」
「分かったコン!」
「語尾も」
「……はい」
コン太は必死だった。
だが、見たもの全てが新鮮で、目が輝いている。
その表情を見ると、浮田もあまり強くは言えなかった。
「……まあ、楽しそうで何よりだな」
浮田が呟く。
「そうでございますな」
チャン爺も頷く。
◇
それから三人は駅へ向かった。
つい最近、復活したばかりの駅だ。
ホームには人が行き交い、駅員が案内をし、電車の到着を待つ人々が並んでいる。
コン太は改札の前で足を止めた。
「ここが、駅」
「そうだ」
浮田が答える。
「ここから電車に乗る」
「みんな、この長い箱に乗るの?」
「そうだ」
「この箱、どこまで行くの?」
「路線による」
「道を間違えない?」
「線路の上しか走らねぇからな」
「賢い箱だ……」
「箱ではないでございますよ」
チャン爺がやんわり訂正する。
ホームへ入ると、ちょうど電車が到着するところだった。
ガタン、ゴトン。
線路の音が近づく。
コン太は思わず息を呑んだ。
目の前に、車よりもずっと大きな車両が滑り込んでくる。
扉が開く。
人々が降り、また乗っていく。
「……すごい」
コン太は小さく呟いた。
「これに乗る」
「そうだ」
浮田が言う。
「短い区間だけな。初回だから」
三人は電車に乗り込んだ。
コン太は窓際に座ると、すぐに外を見た。
電車が動き出す。
ゆっくりとホームが流れ、駅の景色が後ろへ遠ざかっていく。
「動いた……!」
コン太が窓に張り付く。
「地面の上を、家が走ってるみたい……!」
「コン太様」
チャン爺が小声で言う。
「語尾は出ておりませんが、少々目立っております」
「ご、ごめんなさい」
「よろしいかと」
浮田は少し笑った。
「今さら丁寧語になるのも変だけどな」
電車の中では、アナウンスが流れた。
次の駅名。
乗り換え案内。
扉が開く方向。
コン太はその度に反応する。
「声が天井からする」
「アナウンスだ」
「誰か隠れてる?」
「隠れてねぇよ」
「この世界、仕組みだらけ」
「まあ、そうだな」
短い乗車体験だったが、コン太にとっては十分すぎるほど刺激的だった。
電車を降りる時、コン太は名残惜しそうに車両を振り返った。
「また乗りたい」
「また機会を作りましょう」
チャン爺が言うと、コン太は嬉しそうに頷いた。
◇
その後、三人は服屋へ向かった。
最初に着ている服は悠真が商品生成したものだ。
だが、今後も変身して外出する可能性があるなら、ちゃんと店で買った服を用意しておく必要がある。
店に入ると、コン太はまた目を輝かせた。
「服がいっぱい」
浮田が言う。
「変なの選ぶなよ」
「変なのって何?」
「派手すぎるやつとかだ」
コン太は周囲を見渡す。
色とりどりの服。
帽子。
靴。
鞄。
初めて見るものばかりで、何を選べばいいのか分からない様子だった。
チャン爺が丁寧にサイズを確認し、動きやすい服を選ぶ。
「こちらなど、いかがでしょう」
「それ、かっこいい?」
「落ち着いていて、自然でございます」
「自然が一番だ」
浮田が言う。
「目立たないのが大事だからな」
「目立たない……」
コン太は真剣に頷いた。
試着室では少し戸惑った。
「この小さい部屋で変身するの?」
「着替えるだけだ」
「服を変えるのも変身みたい」
「まあ、ある意味そうかもな」
服を何着か選び、帽子と靴も買った。
支払いは円。
チャン爺がきちんと会計を済ませる。
店員は普通に接客し、コン太をただの子供として扱った。
それだけのことなのに、チャン爺は少しだけ安心していた。
今の姿なら、コン太は街を歩ける。
もちろん、完全に安全ではない。
だが、少なくとも今は、誰にも疑われていない。
その後もしばらく、三人は街を歩いた。
パン屋の前で、コン太が足を止める。
「いい匂い……」
「買うか?」
浮田が聞くと、コン太は一瞬迷った。
「……買っていい?」
「少しだけな」
チャン爺が微笑む。
「おやつは既に召し上がっておりますので、食べすぎには注意でございます」
「分かった」
パンを一つ買い、コン太は少しずつ食べた。
目を輝かせながら。
「この世界は、美味しそうな匂いが多い」
「食い物基準で世界を見るな」
浮田が呆れる。
公園にも立ち寄った。
子供たちが遊び、ベンチでは老人が話している。
コン太は遠くからそれを眺めた。
「みんな、普通に暮らしてる」
「あぁ」
浮田は静かに答えた。
「ここは、そういう場所を目指してるからな」
「悠真が作った?」
「悠真だけじゃない」
浮田は言う。
「みんなで作ってる」
コン太はその言葉をしばらく考えるように聞いていた。
「みんなで作る……いいな」
小さく呟いたその声には、翡翠球への想いも少しだけ混じっているようだった。
◇
楽しい時間は、思ったより早く過ぎた。
チャン爺が懐中時計を確認する。
「コン太様」
「何?」
「そろそろ変身が解ける時間でございます」
「……もう?」
「はい。戻りましょう」
コン太は少しだけ寂しそうな顔をした。
「もう少し見たい」
「次の機会にいたしましょう」
チャン爺は穏やかに言った。
「今日は初めての外出でございます。無理は禁物です」
「……分かった」
浮田も軽く肩を回しながら言う。
「初回にしては十分歩いたろ」
「うん」
コン太は名残惜しそうに街を見渡した。
高い建物。
車。
人々。
店。
駅。
公園。
どれも、コン太にとっては初めてのものだった。
チャン爺はコン太の様子を見て、少しだけ表情を和らげた。
「また参りましょう」
「うん!」
その直後だった。
後ろを歩いていた浮田の足音が、一瞬だけ止まった。
「……っ!?」
だが、チャン爺が振り返るより早かった。
浮田の頭に、黒い袋が被せられる。
それはあまりにも突然だった。
周囲に気配はなかった。
足音もない。
声もない。
まるで、何もない空間から手だけが現れたような一瞬。
黒いバンのスライドドアが開いていた。
覆面を被った二人組の男。
一人が浮田の頭に袋を被せ、もう一人がその体を押し込むようにしてバンの中へ引きずり込む。
「浮田様!」
チャン爺が動いた。
だが、一歩遅れた。
街中。
住民がいる。
コン太がいる。
状況を確認する一瞬が、命取りになった。
黒いバンのドアが閉まる。
エンジンが唸る。
次の瞬間、バンは急発進した。
チャン爺は即座に追おうとした。
だが、目の前には人通りがある。
無理に剣を抜いて暴れれば、周囲を巻き込む。
それに――コン太を置いていくわけにはいかない。
「コン太様!」
チャン爺は振り返った。
だが。
そこに、コン太はいなかった。
「……コン太様?」
周囲を見回す。
人々は突然の出来事にざわついている。
黒いバンは遠ざかっていく。
浮田が攫われた。
そして、コン太の姿も消えた。
チャン爺は瞬時に判断する。
未来の元へ行き、索敵してもらうべきだ。
しかし、その前に頭の中で一つの疑問が浮かんだ。
チャン爺は気配を感じなかった。
音もなかった。
守るべき相手を、見失った。
だが、今すべきことは悔やむことではない。
報告と追跡。
すぐに悠真へ知らせなければならない。
チャン爺はその場を駆け出した。
初めての外出は、楽しい思い出だけでは終わらなかった。
東京の街の中で、医者が攫われた。




