戻る事のないスキル
第176話です。宜しくお願い致します。
「そんな薬ありませんよぉ〜!」
白井の軽い声が、研究室の中に響いた。
その瞬間、透明化していた4人の空気が凍りついた。
「そんな……」
未来が小さく呟く。
その声には、信じたくないという思いが滲んでいた。
陸斗も顔を強張らせる。
「もう、悠真さんはスキルを戻す事が出来ない……?」
今井恭太は唇を噛みしめる。
「悠真さん……」
阿川も、注射器を握る幸子の姿のコン太を見つめながら、低い声で言った。
「これから悠真を支えていかなくちゃならないかもな……」
その言葉は、重かった。
悠真の《日常生活》が戻らない。
まだ確定したわけではない。
けれど、白井の言葉は、淡い希望を容赦なく打ち砕くものだった。
コン太も動揺していた。
幸子の姿のまま、手にした注射器へ視線を落とす。
これが、悠真のスキルを奪った薬。
爺やの《土いじり》を失わせ、地下拠点を崩したかもしれない薬。
だが、その逆はない。
戻す薬は、ない。
胸の奥がきゅっと縮むような感覚があった。
しかし、ここで動揺を顔に出せば終わりだった。
目の前には白井がいる。
周囲には大量の研究者達もいる。
幸子として振る舞い続けなければならない。
コン太は何とか平静を装い、静かに頷いた。
「……そうだったわね」
白井は何の疑いもなく、幸子の姿をしたコン太を見つめている。
コン太は一度だけ呼吸を整えた。
そして、まだ諦めきれない思いを押し込めながら尋ねる。
「因みに、作れる事は可能なの……?」
◇
白井の表情が、わずかに変わった。
「……何でそんな事がお知りになりたいんですか?」
研究室の空気が、一瞬だけ張り詰める。
透明化している4人も息を呑んだ。
今の質問は危険だった。
幸子なら、すでに知っているはずのことかもしれない。
ここで不自然に思われれば、潜入が露見する。
だが、コン太はすぐに表情を変えず、軽く流すように答えた。
「単なる興味よ、興味!」
白井は数秒、幸子の姿をしたコン太を見つめていた。
そして、すぐにいつものような調子に戻る。
「今の私達の研究段階では不可能だと思われます……」
白井は研究者らしく、少しだけ真面目な顔になった。
「人工的なスキルを作る事は可能かも知れませんが、元の同じスキルに戻すというのは厳しいですね……」
その言葉に、透明化している4人の表情がさらに沈む。
人工的なスキル。
その言葉には、確かに気になる響きがあった。
だが、今欲しいのはそれではない。
悠真の《日常生活》を戻す薬。
あの東京を作り、守り、支えてきたスキルを取り戻す方法。
それは、少なくとも今の白井達には存在しない。
コン太は静かに答えた。
「そう……」
◇
その時だった。
幸子の姿をしたコン太の裾が、軽く引かれた。
未来だ。
これは事前に決めていた合図だった。
未来は召喚したヤモリを使い、幸子の現在位置を監視し続けている。
裾を引く合図は、幸子が部屋に留まっているという意味。
背中を引く合図は、幸子が部屋を出て移動を始めたという意味。
今回は裾。
つまり、本物の幸子はまだ自室にいる。
コン太は一瞬だけ考えた。
本物の幸子が研究室へ来れば、幸子が2人いることになり、一瞬で偽物だとバレる。
それは避けなければならない。
だが、幸子が部屋にいるなら、次の問題がある。
扉だ。
透明化したまま幸子の部屋の扉を開ければ、不自然に扉だけが開く。
昨日、雪子と爺やが透明化して幸子の部屋へ入った可能性を敵側が把握していれば、すぐに警戒されるだろう。
だから、誰かが自然に扉を開けた瞬間、一緒に入り込む必要がある。
コン太自身が白井に変身して扉を開けるという手もある。
しかし、今は幸子に変身したばかりで、すぐに別の姿へ変わることはできない。
誰かが偶然部屋に入るのを待つのも危険だった。
潜入時間が長くなればなるほど、見つかる危険は増える。
ならば、扉を開ける人物をこちらから用意する。
幸子の姿をしたコン太は、白井を見る。
「それと、人工的なスキルを作るって所に興味が湧いたわ……!」
白井の顔がぱっと明るくなる。
「30分後に私の部屋に来てちょうだい……」
コン太は幸子らしく、ゆっくりと言葉を続けた。
「詳しく話が聞きたいわ……!」
白井は感激したように背筋を伸ばした。
「はい、喜んで伺わせて頂きます!」
その表情には疑いなど一切ない。
むしろ、幸子が自分の研究に興味を持ってくれたことが嬉しくて仕方がないようだった。
◇
コン太は小さく頷き、研究室を後にした。
扉を開けて外に出る。
透明化している4人も、その後ろに続いた。
見張り達はまた深々と頭を下げる。
コン太は幸子の姿のまま、堂々とした足取りで廊下を進んだ。
やがて、誰もいない場所まで移動する。
そこで今井恭太が小さく息を吐いた。
「スキル、《透明人間》!」
幸子の姿をしたコン太も、再び空気に溶けるように透明化した。
5人全員が見えなくなったことで、ようやく少しだけ息をつける。
未来がコン太を見る。
「良くやったわね……!」
その声には、本心からの労いがあった。
だが、コン太の表情は晴れなかった。
「でも、悠真のスキルを元に戻す薬自体がないわ……」
幸子の声で、けれどコン太自身の気持ちとして言葉が落ちる。
「それに、新しく作る事も不可能って……」
沈黙が流れた。
薬は手に入った。
幸子のスキルを封じる可能性は生まれた。
だが、悠真が元に戻る道は見つからなかった。
その事実が、5人の胸に重くのしかかる。
◇
最初に口を開いたのは、陸斗だった。
「ここにいるメンバーは少なくとも悠真さんに助けて頂いてここに居るメンバーですよね……」
陸斗は静かに、自分の両手を見る。
「僕は、妹の美咲と一緒にモンスターから逃げていた時に助けて頂きました」
あの日のことを思い出す。
崩壊した世界。
何が起きているのかも分からず、ただ妹を守るために必死だった。
自分も怖かった。
美咲も怖がっていた。
そんな時に、悠真は手を差し伸べてくれた。
「世界が崩壊したばかりで、何もまだ分からなくて、自分に余裕がある筈がないのに……」
未来も、少しだけ目を伏せた。
「私は当時、怪しさしかなかったと思う」
自嘲気味に笑う。
「身勝手でワガママで悠真を頼った」
そして、胸の奥にしまっていた記憶を思い出す。
自分の力ではどうにもできず、泣いていた時。
悠真は見捨てなかった。
「結果は最悪で泣いていた私を家族のように受け入れてくれた……」
阿川も静かに続けた。
「俺は世界が崩壊した時、住んでいたマンションの中で怯えるだけだった」
閉じこもることしかできなかった。
外に出る勇気もなかった。
いつ終わるか分からない恐怖の中で、ただ息を潜めていた。
「そんな時に悠真達が来て、マンションを修復して、こんな世界じゃあり得ない生活をする事が出来た」
コン太も口を開く。
幸子の姿のまま語られる言葉は、少し不思議に聞こえた。
けれど、その中身は間違いなくコン太自身のものだった。
「私は地球で初めて出会った人間が悠真達じゃなかったら、イングリッ種族のエイゴのようにモンスターだと虐げられたと思う……」
コン太は、地球に来たばかりの頃を思い出す。
自分は人間ではない。
この世界では、異物だった。
悠真達に会えなければ、どうなっていたか分からない。
「下手したら人間やモンスターに殺されて死んでたかもしれない」
最後に、今井恭太が口を開いた。
「俺と兄貴は最初、姉貴の呪いを解いてもらう為に浮田さんを攫うという最低な行為をしたのに、こうやって東京に受け入れて貰ってる……」
誰もが、悠真に助けられていた。
形は違う。
状況も違う。
だが、ここにいる全員が、悠真に救われ、東京に居場所を与えられた者達だった。
陸斗は顔を上げる。
その目には、迷いではなく決意が宿っていた。
「悠真さんのスキルが戻らないとなると、今後かなり大変な事になります……」
それは、避けられない現実だった。
東京も。
仲間達も。
悠真自身も。
《日常生活》が戻らないなら、今までとは何もかも変わる。
それでも、陸斗ははっきりと言った。
「だから今度は僕達が支えましょう!」
未来が頷く。
阿川も、今井恭太も頷いた。
コン太も、幸子の姿のまま静かに頷いた。
今まで悠真に支えられてきた。
ならば今度は、自分達が悠真を支える番だった。
その覚悟が、透明化した5人の間に確かに共有された。
コン太は気持ちを切り替えるように言った。
「先ずは、作戦を実行しましょう」
まだ終わっていない。
悠真を元に戻す方法が今は見つからなくても、幸子を止める薬は手に入った。
支配された人々を救うためにも、この作戦を成功させる必要がある。
◇
5人は幸子の部屋へ向かった。
扉の前で身を潜める。
未来はヤモリを通して、部屋の中の様子を確認していた。
幸子は部屋から出ていない。
部屋の中には、幸子。
雪子。
爺や。
そして、状況から見て幸子と雪子の両親と思われる男女。
合計5人がいる。
雪子と爺やの姿があることに、5人の胸はざわついた。
だが、今は声をかけることもできない。
まずは薬を幸子に打つ。
それが最優先だった。
しばらくして、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
白井だった。
しかも、白井は明らかに浮かれていた。
軽い足取りで、ほとんどスキップするように廊下を進んでくる。
「幸子様が研究に興味を持つなんて、嬉しすぎる……!!」
その声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
白井は幸子の部屋の前で立ち止まる。
透明化している5人に、緊張が走った。
ここを逃せば、自然に部屋へ入る機会を失う。
だが、中には本物の幸子がいる。
雪子と爺やもいる。
失敗すれば、すべてが終わる。
白井は扉を軽く叩いた。
トントンッ。
「幸子様、入って宜しいでしょうか?」
少し間を置いて、部屋の中から声が返る。
「どうぞ」
神崎幸子の声だった。
白井は嬉しそうに表情を緩める。
そして、ゆっくりと扉を開けた。
透明化している5人は、息を詰めた。
扉の向こうに、幸子がいる。
作戦は、いよいよ最終段階へ進もうとしていた。




