さようならはまだです
斧が振り下ろされる。
その瞬間、悠真の目に映る世界が、ひどくゆっくりになった。
幸子親衛隊の男が歪んだ笑みを浮かべている。
その手に握られた斧が、ゆっくりと弧を描く。
鈍く光る刃が、悠真へ向かって迫ってくる。
逃げなければならない。
避けなければならない。
そう頭では分かっているのに、身体は少しも動かなかった。
背中には矢が刺さっている。
片腕は失われ、切り口から血が流れ続けている。
足にも、指先にも、まともに力が入らない。
アルもいない。
ソックスもいない。
セイコもいない。
ガドラーも、警備隊も、もういない。
コン太は目の前で倒れている。
悠真は、ぼんやりと迫る斧を見つめていた。
死ぬ瞬間って、こんなにゆっくりとした世界に見えるのか……。
そんなことを、どこか他人事のように思った。
まだ、死にたくない。
その思いが、遅れて胸の奥から込み上げてくる。
死ぬ時って、こんなにあっけないんだな……。
あれだけ必死にここまで来た。
東京を守り、仲間を増やし、色々な場所へ行き、色々な人と出会った。
それでも、終わる時はこんなにも突然なのか。
みんなは、どう思うんだろうか。
俺が死んだら、悲しんでくれるんだろうか。
そんな考えが、悠真の頭の中を通り過ぎる。
元々、親にも良く思われていなかった。
家族の中に居場所があったとは言い難い。
捨てられたに等しいと思っていた。
そんな自分が、初めて誰かを守りたいと思った。
初めて、自分が大事にされていると感じた。
それが、この世界が崩壊してからだというのは、何とも皮肉な話だった。
陸斗。
未来。
浮田。
チャン爺。
一葉、二葉、三葉。
阿川。
ルドルフ。
色谷。
芹沢。
翔太、恭太。
コン太。
アル、ソックス、セイコ、ガドラー。
色々な顔が、次々と浮かぶ。
あぁ……。
そろそろ斧が俺に当たりそうだなぁ……。
悠真は、ほとんど息のような声で呟いた。
「みんな……さようなら……」
斧が振り下ろされる。
その刃が、悠真へ届く。
そう思った瞬間だった。
カキンッ。
硬い音が響いた。
振り下ろされた斧は、何かに跳ね返されたように大きく弾かれた。
斧を持っていた幸子親衛隊の男が、驚いたように後ろへよろめく。
悠真は何が起きたのか理解できなかった。
霞む視界の向こうから、必死な声が聞こえる。
「悠真さん!!」
その声は、悠真がよく知っている声だった。
「さようならはまだですっ!!」
悠真は薄く目を開ける。
「陸斗……?」
そこにいたのは、瀬川陸斗だった。
陸斗は両手を前へ突き出し、《手遊び》のバリアを展開していた。
透明な壁のようなバリアが、悠真とコン太の前に張られている。
幸子親衛隊の斧は、そのバリアによって弾かれたのだ。
陸斗の顔は青ざめていた。
それでも、目だけは逸らしていない。
悠真を見て、コン太を見て、そして目の前の幸子親衛隊達を睨んでいる。
陸斗はバリアを維持したまま、後ろへ叫んだ。
「阿川さん、お願いします!!」
「分かった!」
阿川がすぐに走り寄る。
阿川は悠真の状態を見て、わずかに顔を強張らせた。
だが、動きは止めなかった。
悠真とコン太を抱え上げる。
陸斗はバリアを張り続け、幸子親衛隊達の追撃を防ぐ。
斧が振るわれる。
銃弾が飛ぶ。
だが、それらはすべてバリアに弾かれた。
阿川は悠真とコン太を抱えたまま、阿川自身が設置していた《配管工》の入口へ向かう。
陸斗もバリアを張りながら、その後ろに続いた。
そして4人は、そのまま配管の中へ入っていった。
◇
時間は、数分前に遡る。
東門付近。
東門チームは、陸斗やチャン爺を中心に、幸子親衛隊達を次々と無力化していた。
東門の突破口はすでに開かれている。
そこから押し寄せる幸子親衛隊達を、浮田の《手術室》へ送るため、東門チームは連携して動いていた。
11人のチャン爺達が、まるで同じ意思を持つ影のように縦横無尽に駆け回る。
仕込み刀を抜いたチャン爺達は、神速の動きで幸子親衛隊達の前へ回り込み、喉元へ刃を突きつけ、武器を落とさせる。
抵抗しようとする者がいれば、別のチャン爺がすでに背後を取っている。
その動きはあまりにも速く、幸子親衛隊達はまともに反応できなかった。
浮田は《手術室》を維持しながら、その様子に思わず呟いた。
「流石、チャン爺……」
その隣では、陸斗も動いていた。
陸斗は両手を前へ出す。
「スキル、《手遊び》で、《光線》!」
手元から光が走る。
ただし、狙うのは幸子親衛隊の身体ではない。
武器だ。
陸斗はすぐに次の言葉を続けた。
「更に、《分裂》!」
放たれた光線が、空中で枝分かれする。
1本だった光は、無数の細い光線へ変わり、幸子親衛隊達の手元へ向かって飛んでいった。
銃が弾かれる。
槍が弾かれる。
剣が手元から落ちる。
光線は正確に武器だけを狙い、幸子親衛隊達の攻撃手段を奪っていった。
二葉も《鉄球召喚》で巨大な鉄球を振るい、隊員達の足元や武器を崩していく。
三葉は《四肢ワープ》で腕や脚を離れた場所へ出現させ、幸子親衛隊達を傷つけすぎないように叩き伏せていった。
芹沢は状況を見ながら支援に回り、阿川は配管の流れを確認している。
警備隊10名と、雪子の地下拠点から来た超人族達も、次々と無力化された幸子親衛隊を配管へ運んでいた。
東門も、極めて順調に見えた。
◇
しかし、事は急に起こった。
まず、二葉が消えた。
ポンッ。
軽い音だけを残し、二葉の姿がその場から消える。
「え……?」
誰かが声を漏らすより早く、三葉も同じように消えた。
ポンッ。
今度は、周囲にいた警備隊の1人が消える。
続いて、もう1人。
また1人。
東門に配置されていた悠真の警備隊10名が、次々と消えていった。
彼らは悠真の《警備》によって召喚されていた存在だ。
悠真のスキルが消えた以上、維持できるはずがなかった。
そして、次の瞬間。
11人のチャン爺達も、一斉に消失した。
本人も、分身体も、すべて。
ポンッという音だけを置き去りにして、東門の戦力が一気に消えた。
阿川が目を見開く。
「……一体何が?!」
陸斗も叫んだ。
「チャン爺さん?!」
チャン爺。
二葉。
三葉。
警備隊。
悠真のスキルによってこの場に存在していた者達が、同じタイミングで消えた。
それは、北門で悠真が薬付きの矢を受け、超人族ではなくなった瞬間だった。
悠真の《日常生活》が消えたことで、召喚されていた者達は維持できなくなったのだ。
だが、東門にいる者達にはまだその理由が分からない。
幸子親衛隊達も異変に気づいた。
目の前にいた強力な戦力が突然消えたことで、一気に勢いを取り戻す。
「今だ!」
「幸子様のために押し返せ!」
幸子親衛隊達が一斉に攻め込もうとした。
浮田も当然、動揺していた。
だが、ここで判断を誤れば終わる。
チャン爺達が消えた。
二葉と三葉も消えた。
警備隊も消えた。
戦力は一気に減った。
ならば、今やるべきことは無理に押し返すことではない。
生き残っている者達を守ることだ。
浮田は声を張った。
「みんな、一旦俺の手術空間へ戻れ!!」
その指示に、陸斗が反応する。
芹沢もすぐに動いた。
雪子の地下拠点から来た超人族達も、幸子親衛隊を押し返しながら手術空間へ下がっていく。
阿川は元々、配管と手術空間の近くにいたため、すぐに浮田の側へ戻る。
幸子親衛隊達は攻撃を止めなかった。
銃弾が放たれる。
槍が突き出される。
剣が振るわれる。
だが、浮田の《手術室》は外部からの干渉を受け付けない。
飛んできた攻撃は、見えない壁にぶつかるように弾かれていった。
手術空間の中に戻った陸斗は、肩で息をしながら浮田を見る。
「浮田さん、チャン爺さんや二葉さん、三葉さんが急に消えました……」
その声には混乱が滲んでいた。
浮田は険しい表情で頷く。
「あぁ……分かってる」
浮田の視線は、消えた者達がいた場所を見ていた。
なぜ消えたのか。
理由は分からない。
だが、あれはただの偶然ではない。
チャン爺達だけではなく、二葉、三葉、警備隊まで同時に消えた。
そこから考えられる可能性は、限られている。
「もしかしたら、悠真の身に何かがあったのかもしれない……」
陸斗の顔色が変わる。
「悠真さんの身に?!」
「……まだ、分からない」
浮田は首を横に振った。
断定はできない。
しかし、放っておくのは危険だった。
「でも念の為、行った方がいい気がする……」
浮田は自分の手術空間を見た。
ここには、すでに各門から送られてきた幸子親衛隊達がいる。
解除された者達もいる。
そして、これからも配管を通じて人が送られてくる可能性がある。
浮田がここを離れれば、解除の要である《手術室》がどうなるか分からない。
「俺はここから動けない」
浮田は陸斗と阿川を見る。
「だから、陸斗と阿川で見に行ってくれないか」
陸斗はすぐに頷いた。
「分かりました!」
阿川も短く答える。
「了解だ」
◇
その時、芹沢が阿川へ声をかけた。
「阿川くん♡」
「何だ?」
阿川が振り返ると、芹沢はいつものように甘い笑みを浮かべていた。
だが、その目は真剣だった。
「念の為、強化しとくわね♡」
芹沢は手を前へ出す。
「スキル、《ラブレター》! 私があなたを愛しているわ♡」
紙が現れる。
それはひとりでに折りたたまれ、紙飛行機になった。
紙飛行機は真っ直ぐ阿川へ飛んでいき、その身体に触れる。
次の瞬間、阿川の中に力が湧き上がった。
筋肉が軽くなる。
身体の芯が熱を持つ。
普段とは比べものにならないほど、手足に力が入る。
芹沢はにこりと笑った。
「これで、非戦闘員の阿川くんでも戦えるくらい身体能力が上がったと思うわ♡」
阿川は自分の手を握り、驚いたように呟く。
「凄いな、これ力が湧いてくる……」
そして、芹沢へ短く礼を言った。
「ありがとう」
「気をつけてね♡」
「あぁ」
陸斗と阿川は、すぐに阿川の《配管工》へ向かった。
配管は各門へ繋がっている。
本来は幸子親衛隊達を浮田の《手術室》へ送るためのものだった。
だが、今は移動経路にもなる。
陸斗は胸の奥に嫌な予感を抱えたまま、配管の中を進んだ。
なぜチャン爺達が消えたのか。
なぜ二葉と三葉、警備隊まで消えたのか。
もし、悠真に何かが起きているのだとしたら。
考えたくない。
でも、考えずにはいられない。
◇
そして、2人は北門側へ辿り着いた。
配管を抜けた先で見た光景に、陸斗は息を呑んだ。
悠真が倒れていた。
隣にはコン太も倒れている。
そして、悠真の片腕がなかった。
切り口からは、血が止まらないほど流れている。
地面は赤く染まり始めていた。
アルもいない。
ソックスもいない。
セイコもいない。
ガドラーもいない。
警備隊の姿もない。
陸斗の目が大きく見開かれる。
「そんな……」
声が震えた。
「悠真さんの腕が……」
さらに、コン太を見る。
「コン太さんも倒れてる……」
あまりにも衝撃的な光景だった。
陸斗の身体が固まる。
頭が真っ白になった。
目の前にいるのは、いつも皆を助けてくれた悠真だった。
どんな時も前に立ち、考え、道を作ってくれた人だった。
その悠真が、血まみれで倒れている。
腕を失っている。
コン太も動かない。
陸斗は、一瞬、何もできなくなった。
その時、阿川が陸斗の背中を強く叩いた。
「今は、前を見るんだ……!」
その一言が、陸斗を現実に引き戻した。
陸斗ははっと顔を上げる。
その視線の先に、斧を振り上げた幸子親衛隊の姿があった。
斧が、悠真へ向かって振り下ろされようとしている。
陸斗の身体が動いた。
今度は、止まらなかった。
「スキル、《手遊び》で、《バリア》!」
陸斗の手元から、透明な壁が展開される。
バリアは悠真とコン太の前に広がった。
次の瞬間、斧がバリアに叩きつけられる。
カキンッ。
硬い音と共に、斧が弾かれた。
陸斗は叫ぶ。
「悠真さん!!」
その声は震えていた。
けれど、弱くはなかった。
「さようならはまだですっ!!」
悠真の目が、わずかに陸斗を捉える。
陸斗はバリアを維持したまま、阿川へ叫んだ。
「阿川さん、お願いします!!」
「分かった!」
阿川はすぐに走り、2人を抱えた。
本来なら、成人男性である悠真と、コン太を同時に抱えて動くのは簡単ではない。
だが、今の阿川には芹沢の《ラブレター》による身体能力強化がかかっていた。
その力のおかげで、阿川は2人を抱えたまま立ち上がることができた。
悠真の身体はぐったりとしている。
コン太も意識を失っている。
阿川は2人の重みを受け止めながら、奥歯を噛みしめた。
「絶対に連れて帰る……!」
幸子親衛隊達が追撃しようとする。
しかし、陸斗のバリアがそれを防ぐ。
銃弾も、刃も、斧も、バリアに弾かれる。
陸斗は必死に両手を突き出し続けた。
怖い。
足が震える。
目の前の状況は、今でも信じられない。
それでも、もう固まらない。
悠真を死なせない。
コン太を置いていかない。
その思いだけで、陸斗はバリアを維持した。
阿川は悠真とコン太を抱えたまま、配管の入口へ飛び込む。
陸斗もバリアを張りながら後に続いた。
4人は配管の中へ入っていく。
目指す先は、浮田達のいる《手術室》。
悠真とコン太を救うために。
陸斗と阿川は、血の匂いと戦場の怒号を背に、配管の中を進んでいった。




