救済と渇望
第157話です。宜しくお願い致します。
世界にゲートが開いた。
黒い穴のようなものが各地に現れ、そこからモンスターが溢れ出した。
人々の悲鳴が街に響き、建物が壊れる音が遠くから何度も聞こえた。
道路には逃げ惑う人々が溢れ、車は横転し、炎が上がり、今まで当たり前に続いていた日常が一瞬で崩れていった。
山梨も例外ではなかった。
神崎家の屋敷の外にも、悲鳴が響いていた。
何かが砕ける音。
誰かが助けを求める声。
走り回る足音。
そして、聞いたことのないモンスターの鳴き声。
幸いにも、その時、神崎家の者達は全員屋敷の中にいた。
神崎誠司。
神崎涼子。
神崎雪子。
神崎幸子。
そして、屋敷で働く召使い達。
屋敷の敷地は広く、門も高かったため、最初の混乱の中で神崎家そのものがすぐに襲われることはなかった。
だから、神崎家の人間は全員無事だった。
◇
しかし、無事だったからといって、誰もが冷静だったわけではない。
「何なんだ、これは……!」
誠司は窓の外から聞こえる悲鳴に肩を震わせていた。
「どうしてこんなことに……! 誰か、早く安全な場所を用意しなさい!」
涼子も顔を青ざめさせ、召使い達に怒鳴るように命じていた。
本来なら、こういう時こそ政治家が立ち上がるべきだった。
神崎誠司は、かつて国政にも関わった政治家だった。
神崎涼子も、山梨県知事として人の上に立つ立場にあった。
人々が逃げ惑い、助けを求めている。
ならば、本来ならば彼らこそが指示を出し、地域を守るために動かなければならなかった。
しかし、誠司も涼子も、民を守ろうとはしなかった。
彼らが考えていたのは、自分達の身をどう守るか。
この屋敷からどう逃げるか。
どこなら安全なのか。
それだけだった。
召使い達も怯えていた。
突然世界が壊れたのだ。
無理もない。
だが、その中でただ2人だけ、この状況をどうにかしたいと強く願っている者がいた。
神崎幸子。
そして、神崎雪子。
2人は幼い頃から、歪んだ形ではあったが、政治の英才教育を受けてきた。
人の上に立つ者は何をすべきか。
国とは何か。
地域とは何か。
民を守るとはどういうことか。
それらを、何度も何度も叩き込まれてきた。
その教育は、2人を幸せにするものではなかった。
むしろ、2人の人生を縛り続けた鎖だった。
それでも、その中で学んだ言葉だけは、今この瞬間、確かに2人の中に残っていた。
◇
屋敷に逃げ込んできた人々を見ながら、幸子は唇を噛んだ。
「国は何をしているの?」
その声には、苛立ちと不安が混ざっていた。
「もう1週間経つのに、何も音沙汰がないじゃない……」
ゲートが開いてから、すでに1週間が経っていた。
だが、国からの正式な発表も、救援も、物資の輸送も、何も届いていない。
通信は不安定になり、テレビもまともに映らなくなった。
外から入ってくる情報は断片的で、どれも悪いものばかりだった。
雪子は避難してきた子供へ水を渡しながら、苦しそうに答える。
「国も、もしかしたら何らかの大きな打撃を受けて、それどころじゃないのかも……」
「……そうかもしれないわね」
幸子は拳を握りしめた。
国が動けない。
助けが来ない。
ならば、自分達が何もしない理由にはならない。
屋敷の外には、まだ逃げ場を失った人々がいる。
食べ物も、水も、安全な場所も足りていない。
幸子は顔を上げた。
「国から何か対策が出るまで、私達で出来ることをしましょう!」
雪子はすぐに頷いた。
「そうだね!」
その日から、幸子と雪子は動き始めた。
まず、神崎家に備蓄されていた食料品を避難民へ配った。
神崎家の屋敷には、普段から大量の食材や保存食が置かれていた。
誠司と涼子が自分達の生活を維持するために蓄えさせていたものだったが、幸子と雪子はそれを人々のために使うことにした。
さらに、屋敷の大広間を避難場所として開放した。
高い天井。
広い床。
豪華なシャンデリア。
かつては政治家や財界人を招くために使われていたその場所に、今は毛布を敷き、怪我人や子供、老人達が身を寄せ合っていた。
幸子は召使い達に指示を出し、物資を整理させた。
雪子は怯える人々に声をかけ、水や食べ物を配った。
2人は眠る時間も削って動いた。
それを誠司と涼子は遠くから見ているだけだった。
時々、避難民が増えすぎると不満そうな顔をする。
食料が減れば、眉をひそめる。
だが、自分達で何かをしようとはしなかった。
◇
そんなまま、さらに2週間が過ぎた。
国からは、やはり何の音沙汰もなかった。
この時、日本の総理である深澤は桜井晴彦の支配下にあった。
そのため、国として大きな動きが起こせるはずもなかった。
だが、山梨の神崎家にいる幸子達が、そんな事情を知るはずもない。
なぜ国は動かないのか。
なぜ誰も助けに来ないのか。
なぜ、この地域は置き去りにされているのか。
避難民達の不安は、日を追うごとに大きくなっていった。
そして、その頃から少しずつ、別の噂も流れ始めた。
超人族。
ゲート出現後、特別な力を持つ人間が生まれている。
そういう話だった。
火を出す者。
壁を作る者。
物を動かす者。
信じがたい話ばかりだったが、実際にそうした力を見たという避難民もいた。
幸子はその話を聞くたびに、胸の奥が疼いた。
超人族。
特別な力。
人々を救えるスキル。
もし、自分にもそんな力があれば。
幸子は、避難民達の寝息が聞こえる大広間の隅で、そっと自分の手を見つめた。
自分も超人族になれたら。
みんなを救えるようなスキルを手に入れられたら。
今度こそ、みんなは自分を見てくれるかもしれない。
幸子は雪子を支えていくと決めていた。
雪子を恨まないと決めた。
雪子もまた、神崎家に巻き込まれた被害者なのだと理解していた。
だが、それでも心の奥底には、消えない願いがあった。
自分も神崎家の娘として認められたい。
隠し子ではなく、雪子と一緒に神崎家の娘になりたい。
父と母に見てもらいたい。
国民にも見てもらいたい。
自分がここにいることを、誰かに認めてほしい。
こんなチャンスは、きっと2度とない。
もし自分が人々を救える力を得たなら。
もし自分が、この混乱した地域を守れる存在になれたなら。
今度こそ、父も母も、自分を見てくれるはずだ。
今度こそ、自分も神崎家の一員になれるはずだ。
幸子は、そう思っていた。
◇
しかし、無情にも、神様は再び雪子に才能を与えた。
もちろん、雪子自身も強く願っていた。
日本を救いたい。
この地域を救いたい。
避難してきた人達を助けたい。
飢えている子供達に食べ物を渡したい。
震えている老人達に温かいものを食べさせたい。
自分にも力が欲しい。
雪子はそう強く願っていた。
その願いに応えるように、雪子は超人族へ覚醒した。
雪子に与えられたスキルは、《調理師》。
触れたものを好きな食材に変えることができるスキルだった。
ただし、動物以外。
さらに、調理に関する技術も大幅に向上する。
それは、一見すると戦闘向きの力ではなかった。
モンスターを倒す剣でもない。
人々を守る盾でもない。
しかし、食料が常に不足している崩壊後の世界において、それはまさに世界を救えるほどの可能性を持つスキルだった。
雪子はすぐにその力を使った。
崩れた塀の瓦礫。
庭の端に積まれていた砂。
壊れた家具の欠片。
避難民達が持ち込んだ使い道のないゴミ。
それらに触れると、雪子の手の下で形が変わっていく。
瓦礫は米へ。
砂は小麦粉へ。
壊れた木片は野菜へ。
不要な布や紙は肉や果物へ。
目の前で起こる光景に、避難民達は息を呑んだ。
雪子はさらに、その食材を調理した。
包丁を握る手つきは迷いがない。
火加減も、味付けも、食材の扱い方も、まるで長年料理を続けてきた職人のようだった。
温かい食事が、大広間に並んでいく。
米の香り。
煮込まれた野菜の匂い。
肉の焼ける音。
それは、崩壊した世界の中で久しぶりに感じる、人間らしい生活の匂いだった。
避難民達は涙を浮かべながら、その料理を受け取った。
「ありがとう!!」
「これで子供に食べさせられる……!」
「流石、神崎家を背負う将来の政治家だ!」
「雪子様、本当にありがとうございます!」
感謝の声が次々と上がる。
雪子は少し照れたように笑いながらも、次々と食材を作り、料理を用意していった。
彼女は純粋に、人々を助けたかった。
飢えている人に食べ物を渡せることが嬉しかった。
自分の力が誰かの役に立つことが、心から嬉しかった。
◇
だが、その光景を見ていた誠司と涼子の目には、別の光が宿っていた。
「やはり、神崎家の一人娘にお前は相応しい!!」
誠司は満面の笑みで雪子を褒めた。
涼子も雪子の手を取り、嬉しそうに言う。
「あなたは、私達の誇りよ!」
雪子は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
その言葉を素直に受け止めていた。
だが、誠司と涼子がここまで雪子を褒める理由は、純粋な愛情だけではなかった。
1つは、自分達の判断が正しかったと確信したからだった。
養子として雪子を迎えたこと。
幸子ではなく雪子を神崎家の一人娘として扱ったこと。
それが間違っていなかったと、2人は心の底から思っていた。
雪子は天才で、神崎家の誇り。
自分達が選んだ最高の後継者。
そう考えていた。
そして、もう1つ。
雪子のスキルによって、神崎家の将来が安泰だと考えたからだった。
世界が崩壊した今、金はいつまで価値を持つか分からない。
紙幣など、状況によってはただの紙切れになる。
だが、食料は違う。
どんな時代でも、人は食べなければ生きていけない。
雪子の《調理師》があれば、神崎家は食料を握れる。
食料を配れば、人々は感謝する。
人々を集められる。
支持も得られる。
そして、その中心にいるのは神崎家になる。
誠司と涼子は、人々を救う力を見ているようで、その実、自分達の地位と名誉がさらに上がる未来を見ていた。
雪子はそれに気づいていなかった。
気づかないまま、目の前の人々を救い続けていた。
◇
そして、幸子はそのすべてを見ていた。
雪子が人々に感謝される姿。
雪子が父と母に褒められる姿。
雪子が神崎家の一人娘として称えられる姿。
それは、幸子の胸の奥に残っていた最後の糸を、ゆっくりと焼き切っていくようだった。
また、雪子だ。
幼い頃もそうだった。
どれだけ努力しても、自分ではなく雪子が褒められた。
公の場でもそうだった。
神崎家の娘は雪子1人になり、自分は隠された。
そして、世界が崩壊した今でさえ。
人々を救いたいと願ったのは、自分も同じだった。
この地域を守りたいと思ったのは、自分も同じだった。
超人族になって、誰かの役に立ちたいと思ったのは、自分も同じだった。
それなのに、力を与えられたのは雪子だった。
感謝されたのも雪子だった。
褒められたのも雪子だった。
神崎家の誇りだと言われたのも雪子だった。
幸子の視界が滲んだ。
涙なのか、怒りなのか、自分でも分からなかった。
爺やとの約束を守ろうとした。
誰にも負けないと決めた。
でも、負けた。
雪子を恨まないようにした。
雪子も被害者だと理解した。
でも、苦しかった。
雪子を支えると決めた。
それでも、自分も見てほしかった。
ただ一度でいい。
神崎家の娘だと。
必要な存在だと。
ここにいていいのだと。
誰かに言ってほしかった。
幸子は大広間の端で、ぽつりと呟いた。
「また、雪子だ……」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
「いつも、私を見てくれない……」
胸の奥に、幼い頃の記憶が蘇る。
100点の答案用紙。
いなくなった爺や。
隠された自分。
笑顔を向けられる雪子。
そのすべてが、幸子の中で混ざり合っていく。
「私は一体、何の為に生まれたのだろう……」
声が震えた。
幸子は自分の胸元を掴んだ。
息が苦しい。
胸が痛い。
誰にも見られていないような気がした。
そこにいるのに、いないことにされている。
生きているのに、生まれていないことにされている。
そんな感覚が、幸子を押し潰していく。
「誰か、私を見て……」
その瞬間だった。
幸子の頭の中に、声が響いた。
『スキルを付与します』
幸子は目を見開いた。
周囲の音が一瞬遠のいたような気がした。
避難民の声。
雪子の料理する音。
誠司と涼子の笑い声。
それらすべてが薄くなり、代わりに頭の中の声だけがはっきりと響く。
『あなたは超人族に覚醒しました』
幸子の身体が震えた。
願っていた。
自分にも力が欲しいと。
人々を救える力が欲しいと。
自分を見てもらえる力が欲しいと。
その願いは、ついに届いた。
幸子に与えられたスキル。
その名は、《承認欲求》。
超人族以外の人間に話しかけ、その相手が答えることで発動する。
スキルが発動した相手からは、幸子が神様のように見える。
そして、スキルにかかった人間は、幸子のどんなお願いも聞いてくれるようになる。
幸子はその力の内容を理解した。
理解してしまった。
それは、人々を直接救うための力ではなかった。
食料を生み出す力でもない。
怪我を治す力でもない。
モンスターを倒す力でもない。
だが、幸子の心の奥底にずっと溜まり続けていた願いには、あまりにも合っていた。
見てほしい。
認めてほしい。
必要とされたい。
誰かの中心にいたい。
自分の言葉を聞いてほしい。
自分の存在を否定しないでほしい。
その願いが、そのまま形になったようなスキルだった。
幸子の唇が、ゆっくりと吊り上がる。
もう、幸子の心は限界を超えていた。
幼い頃から積み重なった痛み。
爺やを失った悲しみ。
雪子を恨まないように押し込め続けた感情。
隠し子として生きてきた空虚さ。
そして、目の前で再び雪子だけが称えられた絶望。
それらすべてが、幸子の中で何かを壊した。
幸子は、大広間の中央で人々に囲まれる雪子を見た。
誠司と涼子に褒められている雪子を見た。
感謝され、必要とされている雪子を見た。
そして、ニヤリと笑った。
「これで、私の事を見てくれる……」
重い話が続いてすみません……。




