神崎家④
第156話です。宜しくお願い致します。
神崎雪子は、いわゆる天才だった。
一度教えられたことを、雪子は驚くほど早く吸収した。
文字、計算、英語、歴史、政治。
そして、神崎家の人間として求められる所作や礼儀作法。
普通の子供なら、1つ覚えるだけでも苦しむような内容を、雪子はまるで水が染み込むように身につけていった。
もちろん、神崎幸子も優秀だった。
わずか6歳で、高校生レベルの英語のテストを満点で取った。
その事実だけを見れば、間違いなく幸子も天才の部類に入る。
ただ、幸子の優秀さは努力によって磨かれたものだった。
怒鳴られても机に向かい、叩かれても作法を覚え、眠気をこらえながら英単語を暗記し、爺やとの最後の約束を胸に、必死に自分を追い込んできた。
幸子は努力でそこに辿り着いた。
だが、雪子は違った。
雪子は、最初から辿り着くのが早すぎた。
高校生レベルのテストでは常に満点。
政治の分野でも、教えられた制度や歴史、人物名をすぐに覚える。
所作も、一度手本を見せられれば、次にはほとんど完璧に再現する。
幸子が何度も何度も練習して身につけたものを、雪子は当然のように一度で掴んでいく。
その姿は、幸子にとってあまりにも眩しく、あまりにも残酷だった。
やがて、雪子は幸子の成績を抜いた。
◇
それは、神崎家の中で大きな意味を持った。
見極め期間の終わりが近づくにつれ、他の養子達は次々と脱落していった。
泣き出す子。
体調を崩す子。
目の光を失い、言われたことだけをするようになっていく子。
神崎家は、彼らを家族として迎えたわけではなかった。
後継者候補として連れてきて、優秀でなければ切り捨てる。
ただ、それだけだった。
そして、雪子以外の新しい養子達は、全員召使いになった。
まるで、最初から養子は雪子1人しか取っていなかったかのように。
神崎家の中では、雪子だけが特別な存在として扱われるようになった。
だが、その時の雪子は何も知らされていなかった。
自分が幸子に取って代わるかもしれない存在だということ。
幸子がどれだけ追い詰められているかということ。
自分が褒められるたび、幸子の胸にどれほど深い傷が刻まれているかということ。
雪子は知らなかった。
ただ、教えられたことを頑張って覚え、褒められれば素直に喜ぶ、幼い子供でしかなかった。
「素晴らしい!」
誠司は満面の笑みを浮かべて、雪子の答案用紙を見つめていた。
「雪子は天才だなぁ!」
その声は、幸子がこれまで一度も向けられたことのないほど温かかった。
涼子も同じように笑っている。
「そうね! 今日はあなたの大好物を召使いに頼んでおくから何でも言ってね!」
「やったぁ! ありがとう!!」
雪子は無邪気に笑った。
その笑顔に悪意はない。
父と母と呼ぶようになった2人に褒められた。
好きなものを食べさせてもらえる。
ただそれが嬉しかっただけだった。
しかし、その光景を見ていた幸子の胸は、強く締めつけられていた。
悔しかった。
悲しかった。
怒りもあった。
幸子は、毎日努力していた。
爺やとの約束を守るために。
絶対に誰にも負けないと決めたから。
父と母に、自分が神崎家の政治家になるに相応しい人間だと証明するために。
それなのに、雪子は幸子より明らかに短い勉強時間で、幸子よりも上の結果を出していく。
どうして。
どうして自分ではないのか。
どうして、あんなに簡単に褒められるのか。
幸子は爪が食い込むほど、手を握りしめた。
胸の中に、悲しみと怒りが溜まっていく。
◇
そんな幸子の前へ、雪子が何も知らないまま近づいてきた。
「幸子お姉様、今日はご馳走だって!」
雪子は満面の笑みだった。
「やったね!」
雪子はただ、一緒に喜びたかっただけだった。
おいしいものが出る。
だから、お姉様にも伝えたい。
それだけだった。
だが、幸子にはそう聞こえなかった。
自分は一度も褒められていない。
大好物を用意してもらったこともない。
どれだけ努力しても、父と母は笑ってくれなかった。
その自分の目の前で、雪子は無邪気に喜びを分けようとしている。
悪気がない。
だからこそ、余計に腹が立った。
何も知らない。
何も考えていない。
幸子がどれほど苦しんでいるのかも知らず、当たり前のように愛されている。
そう思うと、幸子はもう耐えられなかった。
「私に話しかけないでよ!」
幸子は鋭い声で言った。
雪子の笑顔が止まる。
「それに、神崎家の娘はアタシだけなの!」
幸子は、胸の奥から湧き上がる感情をぶつけるように続けた。
「あなたは違うでしょう!!」
雪子はぽかんと幸子を見つめた。
なぜ怒られたのか分からなかった。
自分はただ、ご馳走が出ることを伝えただけ。
嬉しいことを一緒に喜びたかっただけ。
それなのに、幸子の顔は怒りと悲しみで歪んでいる。
雪子は何も言えなかった。
幸子もまた、それ以上言葉を続けなかった。
言ってしまったあとで、胸の奥が少し痛んだ。
だが、その痛みを認める余裕はまだなかった。
◇
それから、数ヶ月が過ぎた。
幸子は7歳の誕生日を迎えた。
だが、神崎家の屋敷では、幸子の誕生日を祝う者はいなかった。
誠司も涼子も、当然のように何もしない。
召使い達も、幸子へ声をかけることはなかった。
いや、正確には、声をかけられなかったのかもしれない。
神崎家の中で、幸子の立場はすでに曖昧になっていた。
実子でありながら、後継者候補としては雪子に追い抜かれつつある存在。
その誕生日を祝う空気など、この屋敷にはなかった。
以前は違った。
爺やがいた。
爺やは毎年、密かに幸子を祝ってくれた。
小さなお菓子。
優しい声。
誰にも見られないように、そっと用意してくれた小さな贈り物。
そして、必ず言ってくれた。
お誕生日おめでとうございます、お嬢様。
その言葉だけで、幸子は自分がこの世に生まれてきたことを、少しだけ許されたような気持ちになれた。
だが、爺やはもういない。
幸子は1人、自分の部屋で膝を抱えていた。
「爺やは元気にしてるかなぁ……」
ぽつりと呟いた瞬間、涙が溢れた。
会いたかった。
声が聞きたかった。
もう一度、頭を撫でてほしかった。
努力していると、頑張っていると、言ってほしかった。
涙が頬を伝う。
その時、扉がノックされた。
幸子はびくりと肩を震わせる。
「入ってもいいですか?」
扉の向こうから聞こえたのは、雪子の声だった。
幸子は涙を慌てて拭う。
なぜ雪子が自分の部屋に来るのか分からなかった。
少し迷ったあと、幸子は短く答える。
「……いいわよ」
扉が開く。
そこに立っていた雪子は、両手で何かを大事そうに持っていた。
ピンク色の綺麗な花飾りだった。
庭で摘んだ花を使って作ったのだろう。
形は少し不揃いだったが、幼い雪子が一生懸命作ったことが伝わってくる。
雪子はぱっと明るい笑顔を浮かべた。
「幸子お姉様、誕生日おめでとう!」
そう言って、雪子は幸子へ近づく。
そして、手に持っていた花飾りを、幸子の頭にそっと乗せた。
幸子は思わず目を見開いた。
「なによ、急に……?!」
雪子は少しも悪びれず、にこにこと笑っている。
「今日はお姉様の誕生日だから、お庭でお花を摘んで私が作ったの!」
幸子は頭の上の花飾りへ、そっと手を伸ばした。
指先に花びらが触れる。
柔らかかった。
「わざわざ、手作りで……」
声が小さくなる。
幸子は戸惑いながら雪子を見た。
「ていうか、何で私なんかの誕生日を……?」
雪子はきょとんとした顔をした。
なぜそんなことを聞かれるのか、分からないという表情だった。
そして、当たり前のように笑う。
「だって、誕生日は誰かに祝われた方が嬉しいでしょう?」
その言葉に、幸子は息を呑んだ。
雪子は、何も知らない。
幸子がどれほど追い詰められているかも。
自分が幸子の居場所を奪う存在として扱われていることも。
幸子が自分を敵のように見ていたことも。
それでも、雪子は幸子の誕生日を覚えていた。
神崎家に来た日から、雪子は召使いに家族の誕生日を確認していた。
お父さん。
お母さん。
そして、お姉ちゃんである幸子。
雪子にとって、神崎家は新しい家族だった。
だから、誕生日を覚えた。
忘れずに、庭の花を摘み、自分で花飾りを作った。
誰も祝わない幸子の誕生日を、自分だけでも祝おうとした。
その事実が、幸子の胸に刺さった。
痛かった。
でも、それは今までの痛みとは少し違った。
幸子は、ずっと雪子を他人だと思っていた。
自分の人生においての敵。
爺やとの約束を果たすためには邪魔な存在。
自分の居場所を奪う子。
そう思っていた。
だが、目の前の雪子は、ただの幼い子供だった。
知らない家に連れてこられ、異常な教育を受け、それでも家族になろうとしている子供。
雪子もまた、神崎家に巻き込まれた被害者なのだ。
幸子は、ようやくそれに気づいた。
胸の中に入っていた力が、ふっと抜けていく。
ずっと張り詰めていた糸が、少しだけ緩んだ気がした。
幸子は花飾りに触れたまま、雪子を見た。
「雪子、ありがとう……」
その名前を口にした瞬間、雪子の表情がぱっと明るくなった。
幸子は少しだけ目を伏せる。
「それと、今までごめんね……」
雪子はすぐに笑った。
「うん!!」
その返事は、あまりにも素直だった。
怒るでもなく、責めるでもなく。
ただ、幸子が名前を呼んでくれたことが嬉しいという顔だった。
その日、幸子は初めて雪子の名前を口にした。
そして、それは2人の関係が少し変わった日でもあった。
◇
それから、年月は流れた。
幸子と雪子は18歳になった。
雪子は相変わらず、容姿端麗で成績優秀だった。
白く長い髪。
整った顔立ち。
落ち着いた所作。
政治の道へ進むために、大学へ進もうとしていた。
神崎家の一人娘として。
公の場で語られる神崎家の娘は、雪子1人だった。
一方、幸子は神崎家の隠し子として生きていた。
本来の実子でありながら、公の場には出られない。
神崎家の娘として紹介されることもない。
基本的には屋敷の中に閉じこもり、表舞台から消された存在として過ごしていた。
それでも、幸子はそれでいいと思うようになっていた。
もちろん、すべてを受け入れられたわけではない。
爺やとの約束を果たせなかったこと。
自分の努力を上回った雪子を恨んだこと。
父と母に認めてもらえなかった痛み。
それらは消えていない。
消えるはずもなかった。
だが、幸子は雪子を貶めようとは思わなくなっていた。
雪子もまた、神崎家に巻き込まれた子供だったから。
雪子が幸子の居場所を奪おうとしたわけではない。
雪子が望んで、幸子を隠し子にしたわけでもない。
神崎家が、2人をそういう関係に追い込んだだけだった。
だから幸子は、雪子を支えようと決めていた。
自分が表に出られないなら、せめて雪子を支える。
雪子が神崎家の娘として生きていくなら、その陰で支える。
それが、自分に残された生きる道だと思っていた。
◇
雪子も、成長するにつれて事情を知るようになった。
幸子が本当は神崎家の実子であること。
自分が神崎家の一人娘として扱われる裏で、幸子が隠されていること。
自分が結果的に、幸子の居場所を奪う形になってしまったこと。
雪子は何度も謝った。
「ごめんなさい……」
「私のせいで……」
そのたびに、幸子は首を横に振った。
「大丈夫よ」
幸子は雪子へ、そして自分自身へ言い聞かせるように言った。
「雪子が悪いわけじゃないから」
本当にそう思っていた。
少なくとも、そう思おうとしていた。
そうしなければ、幸子も雪子も、この歪んだ家の中で立っていられなかった。
そんなある日だった。
世界に、ゲートが開いた。
黒い穴のようなものが各地に現れ、そこからモンスターが溢れ出した。
街は壊れ、人々は逃げ惑い、秩序は崩れていく。
神崎家も例外ではなかった。
長く歪みを抱えながら続いていた幸子と雪子の人生は、その日を境に、大きく変わることになる。




