神崎家③
第155話です。宜しくお願い致します。
「そうよ、あんたなんてクビ!」
涼子の声が、部屋の中に冷たく響いた。
誠司に続いて放たれたその言葉に、爺やは一瞬だけ声を失った。
長年、神崎家に仕えてきた。
誠司がまだ幼く、屋敷の中を好き勝手に走り回っていた頃から、この家を見てきた。
神崎家の表の顔も、裏の顔も、栄光も醜さも、爺やは知っていた。
その自分が、今この場で切り捨てられた。
だが、爺やが最初に考えたのは、自分の行く末ではなかった。
幸子のことだった。
爺やは静かに背筋を伸ばした。
胸の奥では怒りと悔しさが渦巻いていたが、声はいつものように丁寧だった。
「……わたくしが辞めるというのは構いません」
爺やは深く頭を下げる。
「数々のここでの無礼もお詫びいたします」
誠司は不快そうに鼻を鳴らした。
涼子も腕を組み、勝ち誇ったように爺やを見下ろしている。
だが、爺やは顔を上げた。
その目には、まだ消えていない強い光があった。
「しかし、幸子お嬢様の頑張りを褒めて上げてください!!」
誠司と涼子の表情がわずかに険しくなる。
それでも爺やは止まらなかった。
「そして、養子を取るのはお辞め下さい!」
「……」
「ここまで幼いながら神崎家に尽くしてこようと努力して来られた幸子お嬢様があまりに不憫でございます……」
幸子はまだ6歳だった。
本来なら、親に甘え、褒められ、守られるべき年齢。
それなのに、神崎家の名を背負わされ、大人でも耐えきれないような期待と叱責の中に置かれてきた。
爺やはそれを誰よりも近くで見ていた。
だからこそ、どうしても訴えずにはいられなかった。
自分がこの家を追われることは、もう構わない。
だが、幸子の努力だけは見てやってほしかった。
幸子をこれ以上傷つけるようなことだけは、やめてほしかった。
しかし、誠司の反応は冷たかった。
「何故、お前が養子の事を……」
誠司は眉をひそめる。
幸子が聞いていたのか。
それとも爺やがどこかで聞いていたのか。
一瞬だけ疑うような目を向けたが、すぐに興味を失ったように息を吐いた。
「まぁいい、決めた事に変わりはない」
その一言で、爺やの訴えは切り捨てられた。
爺やの解雇は確定した。
そして、神崎家は外には内密に、養子を取ることを決定した。
幸子の心がどうなるかなど、誠司にも涼子にも関係なかった。
神崎家に相応しい後継者を用意する。
ただそれだけが、彼らにとって大事なことだった。
◇
翌日。
爺やは荷物をまとめていた。
長年仕えてきた屋敷を去る準備だった。
荷物は多くない。
執事長としてこの家に尽くしてきた時間に比べれば、あまりにも少ないものだった。
だが、爺やの胸には重いものが残っている。
幸子だった。
あの幼い子を、この屋敷に残していかなければならない。
それが、何よりも苦しかった。
爺やは最後に、幸子の部屋へ向かった。
扉の前で立ち止まる。
すぐに入ることはできなかった。
中にいる幸子が、どんな顔をしているのか。
自分がこれから告げる言葉で、どれほど傷つくのか。
それを思うと、胸が締めつけられた。
それでも、黙って去ることだけはできない。
爺やは静かに扉をノックした。
「……入ってもよろしいでしょうか?」
少し間があった。
やがて、中から小さな声が返ってくる。
「……うん」
爺やは扉を開けた。
部屋の中には、幸子がいた。
目は赤く腫れている。
顔色も悪い。
昨日聞いてしまった両親の言葉を、まだ幼い心で整理できずにいるのは明らかだった。
爺やはそっと歩み寄る。
そして、幸子の前に膝をついた。
「幸子お嬢様、わたくしは今日でここを辞めることになりました」
幸子の目が大きく見開かれた。
「……そんな、何でぇ?!」
声が震える。
「爺やまで、わたしを見捨てるの……!」
その言葉に、爺やの胸が深く痛んだ。
違う。
見捨てるわけではない。
本当なら、この屋敷から連れ出してでも守りたかった。
だが、爺やにはそれができなかった。
神崎家の力はあまりにも大きい。
下手に動けば、幸子にさらに危険が及ぶかもしれない。
だから爺やは、己の無力を噛みしめるしかなかった。
「すいません、わたくしの力不足でございました……」
爺やは深く頭を下げた。
幸子は唇を震わせながら、今にもまた泣き出しそうな顔をしている。
爺やはゆっくりと顔を上げた。
「幸子お嬢様、よくお聞き下さい」
その声は静かだったが、強かった。
「しばらくすれば、養子の子供が何人か来るでしょう……」
幸子の肩が小さく震えた。
昨日聞いてしまった両親の会話。
自分の代わりになる子供達。
優秀な子だけが選ばれ、残りは召使いにされるという恐ろしい話。
それが現実になるのだと、幸子は理解した。
爺やは幸子の目を真っ直ぐに見た。
「しかし、その子達に負けてはなりません!!」
幸子は力なく首を横に振った。
「そんなの無理だよ……」
小さな声だった。
「わたし、ダメな子だもん……」
父と母に言われ続けた言葉。
神崎家の汚点。
期待外れ。
駄目な子。
幸子は、それを自分の価値だと思い込まされていた。
爺やはすぐに強く否定した。
「そんな事ございません!」
幸子がびくりと顔を上げる。
「英語のテストで100点をとったではございませんか!」
「でも、お母様とお父様はその事知らないし……」
幸子は再び俯いた。
その瞬間、爺やは胸の奥に鋭い痛みを覚えた。
本当は知っている。
爺やが昨日、あの答案用紙を拾い、誠司と涼子に見せた。
しかし、誠司はそれを丸めてゴミ箱へ捨てた。
涼子は「そのくらい神崎家では当然」と切り捨てた。
それが真実だった。
だが、それを今の幸子に告げることはできなかった。
ただでさえ、幸子の心は限界に近い。
両親に諦められたと知り、爺やまで屋敷を去る。
そのうえ、努力の証まで踏みにじられたと知れば、幸子は本当に壊れてしまうかもしれない。
爺やは、罪悪感を抱えながら口を開いた。
「知っておりますよ!」
幸子の顔が少し上がる。
「わたくしが昨日、扉の前に落ちていたテスト用紙を見せました」
幸子の瞳が揺れた。
「お父様とお母様は何て……?」
爺やは息が詰まりそうになった。
それでも、笑みを作る。
幸子を守るための嘘だった。
「大変、嬉しそうでございましたよ……!」
「本当?!」
幸子の顔に、ほんの少しだけ光が戻った。
その光を見た瞬間、爺やの胸はさらに締めつけられた。
自分は嘘をついている。
けれど、この小さな光を消すことだけはできなかった。
爺やは続けた。
「ただ、旦那様も奥様も一度だけいい点数を取っても今後まだ分からないと仰っていて、今回の養子の件が進むようでございます……」
それもまた、嘘だった。
誠司と涼子は、幸子を諦めている。
しかし、爺やはそう言えなかった。
幸子がこの屋敷で生き抜くには、希望が必要だった。
努力すれば、まだ認めてもらえる。
そう思えなければ、幸子は立ち上がれない。
「それで、爺やとの最後の約束をして頂けませんか?」
幸子は涙の跡が残る顔で、爺やを見つめた。
「旦那様も奥様も、幸子お嬢様がテストで良い点を取っても褒めることはなかなか無いでしょう」
「……うん」
「しかし、それは褒めてしまうと努力する事をやめてしまうのではと思うからです」
爺やの声は優しかった。
だが、その言葉は幸子を救うための苦しい嘘だった。
「従って、先程も申し上げましたが、ライバルに勝つのです」
幸子の小さな手が、膝の上でぎゅっと握られる。
「お嬢様が努力を続ければ、そうそう負ける事はないでしょう……!」
爺やは力強く言った。
「そして、旦那様と奥様に、自分が神崎家の政治家になるに相応しい人間であるという事を示すのです!」
幸子は不安そうだった。
怖かった。
爺やがいなくなる。
養子達が来る。
父と母は、自分を褒めてくれないかもしれない。
けれど、爺やとの最後の約束だけは守りたかった。
幸子にとって、爺やは唯一自分を見てくれた人だった。
その爺やが、負けてはいけないと言っている。
努力を続ければ大丈夫だと言っている。
なら、信じるしかなかった。
幸子は涙を拭い、小さく頷いた。
「……分かった!」
まだ幼い声だった。
だが、そこには確かな決意があった。
「わたし、頑張る!」
幸子は爺やをまっすぐ見た。
「絶対に誰にも負けない!」
爺やは微笑んだ。
胸が張り裂けそうだった。
自分の言葉が、幸子を支えると同時に、さらに追い込むものになるかもしれない。
それでも今は、こうするしかなかった。
「ありがとうございます」
爺やは深く頭を下げる。
「爺やは幸子お嬢様の幸せを願っております……」
それだけは嘘ではなかった。
爺やが本当に願っていたのは、幸子が神崎家の後継者になることではない。
幸子が幸せになることだった。
だが、その幸せを直接守る力を、爺やは持っていなかった。
やがて、爺やは部屋を後にした。
幸子は泣きながら、その背中を見送った。
扉が閉まる。
爺やの足音が遠ざかっていく。
その音が完全に聞こえなくなった時、幸子はまた小さく涙をこぼした。
爺やは、神崎家を去った。
◇
それから数ヶ月後。
神崎家に、新しい養子達がやって来た。
外には内密に進められた養子縁組。
何人もの子供達が、神崎家の屋敷へ連れてこられた。
その中の1人にいたのが、神崎雪子だった。
雪子もまた、幼い子供だった。
自分の意思で神崎家に来たわけではない。
しかし、幸子から見れば、雪子も他の養子達も、自分の居場所を奪うかもしれない存在だった。
神崎家では、養子達が来てから数ヶ月間、見極めの期間が設けられた。
誰が最も優秀か。
誰が神崎家の後継者に相応しいか。
誰を育て、誰を切り捨てるか。
子供達は、まるで品定めされるように勉強と作法を課された。
その中で、幸子は努力を続けた。
爺やとの最後の約束を守るために。
絶対に誰にも負けない。
そう決めたから。
英語だけではない。
計算、歴史、政治、作法。
小学生の範囲を超えた難しいテストでも、幸子は良い点数を取り続けた。
両親はなかなか褒めてくれなかった。
それでも幸子はめげなかった。
爺やが言っていた。
褒めないのは、努力をやめてしまうことを心配しているから。
もっと頑張れば、いつか認めてもらえる。
そう信じていた。
来たばかりの養子達は、神崎家の異常な教育についていけなかった。
泣き出す子もいた。
体調を崩す子もいた。
途中で諦めたように目の光を失っていく子もいた。
その中で、幸子は圧倒的だった。
しばらくの間、幸子は神崎家の子供達の中でトップの立ち位置にいた。
爺やとの約束を守れている。
誰にも負けていない。
その事実だけが、幸子の心を支えていた。
しかし、やがて状況が変わり始める。
養子達の中で、1人だけ少しずつ頭角を現す子がいた。
白い髪の少女。
神崎雪子。
最初は慣れない環境に戸惑っていた雪子が、少しずつ勉強でも作法でも結果を出し始めた。
他の養子達が幸子に追いつけない中で、雪子だけが少しずつ、確実に近づいてくる。
幸子は初めて、自分の前に立ちはだかるかもしれない存在を意識した。
爺やとの約束。
両親に認めてもらう希望。
自分が神崎家に相応しい人間だと証明するための努力。
そのすべてを揺るがす存在として。
神崎雪子の頭角が、現れ始めたのである。
ここ最近重い話ですみません。




