神崎家②
第154話です。宜しくお願い致します。
幸子は走り出した。
床に落ちた答案用紙を拾うこともできなかった。
赤い丸が並んだ、100点のテスト。
爺やの言葉を信じて、必死に努力して掴んだ結果。
お父様とお母様に見せれば、きっと褒めてもらえる。
きっと認めてもらえる。
そう信じて、大切に両手で抱えてきたもの。
しかし、それは両親に見られることすらなかった。
幸子の耳には、父と母の声がまだ残っていた。
もう、幸子は駄目だ。
神崎家の汚点だ。
内密で養子を取ればいい。
何人か取って、優秀な子だけを育てればいい。
残りは召使いにすればいい。
その言葉が、幼い幸子の胸を何度も何度も刺していた。
「嘘だ……! 嘘だ……!」
幸子は大粒の涙を流しながら、廊下を走った。
視界は涙で滲み、足元もよく見えていなかった。
それでも止まれなかった。
止まってしまえば、聞いてしまった言葉が本当になってしまう気がした。
走っている途中、廊下の向こうに爺やの姿があった。
爺やは何か用事をしていたのか、手に白い布を持っていた。
だが、幸子はその姿に気づかなかった。
泣きじゃくりながら、ただ自分の部屋へ向かって走り続けた。
「お嬢様……?」
爺やは小さく声を漏らした。
いつもなら、幸子は爺やを見つけると、小さくでも返事をする。
どれだけ泣いた後でも、どれだけ疲れていても、爺やの声には反応してくれた。
しかし今の幸子は、まるで周囲が見えていない。
顔をくしゃくしゃにして、大粒の涙を流しながら走り去っていく。
ただ事ではなかった。
爺やはすぐに幸子の後を追った。
◇
幸子は自分の部屋に飛び込むように入ると、そのまま床へ座り込んだ。
扉を閉める余裕すらない。
小さな身体を震わせ、膝を抱え、声を押し殺すこともできずに泣きじゃくった。
「うっ……うぅ……!」
今まで我慢してきたものが、すべて壊れてしまったようだった。
怒鳴られても耐えた。
叩かれても謝った。
眠くても机に向かった。
足が痛くても作法の練習を続けた。
難しい言葉も、分からない計算も、涙をこぼしながら覚えた。
爺やが言ってくれたから。
努力は才能だと。
いつか必ず報われると。
だから幸子は信じた。
自分は駄目な子ではない。
努力すれば、いつかお父様とお母様にも認めてもらえる。
今日こそ、その日になるはずだった。
だが、父と母は幸子を見ていなかった。
努力も。
痛みも。
涙も。
何も見ていなかった。
神崎家に必要な道具として使えないなら、別の子を用意すればいい。
幸子には、そう聞こえた。
自分はもう要らないのだと。
そう思った瞬間、胸の奥が潰れそうになった。
◇
少しして、爺やが部屋へ入ってきた。
扉の前で一度足を止める。
床に座り込んで泣いている幸子を見て、爺やの表情が痛ましげに歪んだ。
だが、爺やはすぐに問い詰めなかった。
何があったのですか。
誰に何をされたのですか。
そう尋ねたい気持ちを押し殺し、ゆっくりと幸子のそばへ歩み寄る。
そして、膝をつき、幸子の小さな背中へそっと手を添えた。
優しく、何度もさする。
幸子が自分から話せるようになるまで、爺やは静かに待った。
部屋の中には、幸子の泣き声だけが響いていた。
しばらくして、幸子が震える声で呟いた。
「爺や……」
「何でございましょう、お嬢様……」
爺やはいつものように、穏やかな声で答えた。
幸子は涙で濡れた顔を上げる。
目は赤く腫れ、頬には涙の跡がいくつも残っていた。
「私、高校の英語のテストで100点取ったよ……」
その言葉に、爺やは目を見開いた。
「何と……!」
それは心からの驚きだった。
「それは凄い事ではありませんか!?」
爺やの声には、偽りのない喜びがあった。
6歳の子供が、高校生レベルの英語のテストで満点を取る。
普通なら信じられないようなことだ。
まして幸子は、毎日叱責され、怯え、傷つきながらも努力を続けてきた。
その努力が形になった。
爺やにとって、それは何よりも誇らしいことだった。
だが、幸子の表情は少しも晴れなかった。
むしろ、爺やが喜んでくれたことで、余計に涙が溢れた。
「爺やはいつか言ったよね……」
「はい……」
「努力は才能だ」
幸子は、小さな手で服の裾を握りしめた。
「いつか努力は報われるって……」
「はい……」
爺やは静かに頷いた。
幸子は唇を震わせながら続ける。
「確かに、努力は報われたよ……」
100点を取れた。
家庭教師にも褒められた。
爺やも今、すごいと言ってくれた。
努力は形になった。
それは確かだった。
だが、幸子が本当に欲しかったものは、それだけではなかった。
「でも、褒めてくれるのは爺やだけみたい……」
その言葉は、あまりにも小さかった。
だが、爺やの胸を深く抉った。
爺やはそれでも、少しでも幸子を支えようとする。
「きっとそんな事ございませんよ」
優しく、慎重に言葉を選ぶ。
「お母様とお父様にテストをお見せになったらきっと……」
幸子は首を横に振った。
その動きは弱々しかったが、はっきりしていた。
「そう思って私も見せに行ったよ」
爺やの手が、わずかに止まる。
「そうしたらドアが少しだけ開いてて、お父様とお母様の声が聞こえてきたの……」
爺やの胸に、嫌な予感が広がった。
幸子は涙をこぼしながら、言葉を続ける。
「お父様もお母様も私はもう駄目だって……」
「……」
「私の代わりに神崎家に相応しい養子をとるって……」
「そんな……」
爺やの声が、わずかに震えた。
神崎夫妻が幸子に厳しすぎることは、爺やも分かっていた。
叱責が度を越えていることも。
時には手を上げることも。
幼い幸子の心を削っていることも。
爺やはずっと見てきた。
それでも、心のどこかでは願っていた。
いつか夫婦が気づいてくれることを。
幸子の努力を、娘の痛みを、ちゃんと見てくれる日が来ることを。
だが、現実は違った。
彼らは幸子を諦めていた。
それどころか、代わりの子供を道具のように選ぼうとしていた。
幸子は突然、堪えきれなくなったように声を荒げた。
「どうしてなのッ!!」
小さな身体から出たとは思えないほど、悲痛な叫びだった。
「爺やに言われた事を信じて、私はいっぱいいっぱい努力したよ……」
涙がまた溢れる。
幸子は胸元を掴むようにしながら続けた。
「それなのに、私はもう要らないのかな……」
爺やの表情が変わった。
いつもの穏やかな執事の顔ではなかった。
怒り。
悔しさ。
悲しみ。
それらを必死に抑え込んだ顔だった。
だが、幸子の前で怒鳴ることはしない。
これ以上、この子を怯えさせてはならない。
爺やは低く、しかしはっきりと答えた。
「断じてそんな事ありません……」
その声には、強い力があった。
幸子は涙に濡れた目で爺やを見る。
爺やは、幸子の背中から手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
「ちょっとここで待っていて下さい!」
「え……?」
幸子が戸惑った声を漏らす。
だが、爺やはそれ以上何も言わなかった。
幸子へ一度だけ深く頭を下げ、そのまま部屋を出ていく。
◇
扉が閉まる。
爺やは廊下に出ると、静かに歩き始めた。
足取りはゆっくりだった。
音もほとんど立てない。
長年、神崎家に仕えてきた執事長としての振る舞いは、少しも崩れていない。
だが、その胸の内では、これまでにないほどの怒りが燃えていた。
神崎家に仕える者として。
誠司が幼い頃から見てきた者として。
本来なら、主人に強く意見する立場ではない。
しかし、今回ばかりは黙っていられなかった。
あの幼い子が、どれほど努力してきたか。
泣きながらも机に向かっていたこと。
叩かれた頬を押さえながら、それでも「次は間違えないように頑張る」と言っていたこと。
眠気に耐え、足の痛みに耐え、心を削りながら両親に認めてもらおうとしていたこと。
それを、爺やは知っている。
誰よりも近くで見てきた。
だからこそ、許せなかった。
爺やは誠司と涼子の部屋の前まで来た。
すると、扉の前の床に、ぐしゃっとなった紙が落ちていた。
爺やは足を止める。
それが何か、すぐに分かった。
幸子の答案用紙だった。
赤い丸が並んでいる。
端は折れ、皺が寄っている。
幸子が両手で大切に持っていたはずの、努力の証。
爺やはそれをゆっくり拾い上げた。
紙についた皺を、できる限り丁寧に伸ばす。
それでも完全には戻らない。
その折れ目が、まるで幸子の心についた傷のように見えた。
◇
爺やは深く息を吸った。
そして、扉をノックする。
「入れ」
中から誠司の声がした。
爺やは扉を開け、静かに部屋へ入る。
部屋の中では、誠司と涼子が向かい合って座っていた。
机の上には書類が置かれている。
おそらく、養子の話を進めるつもりだったのだろう。
爺やはいつものように一礼した。
「お忙しい所すいません」
誠司は煩わしそうに眉をひそめる。
「本当に今、忙しいんだ」
そして、冷たい声で続けた。
「手短に要件を言え」
爺やは、手に持っていた答案用紙を差し出した。
「この紙を見てください」
涼子がそれを見て、露骨に顔をしかめる。
「なぁに、この汚らしい紙は!」
爺やの胸の奥で、怒りがさらに膨れ上がる。
だが、声は丁寧なままだった。
「これは幸子お嬢様が高校の英語のテストで100点を取ったテストの点数です」
涼子は少しだけ目を細めた。
だが、そこに驚きも喜びもなかった。
「あら、そう。それがどうしたの?」
そのあまりにも軽い声に、爺やの指先がわずかに震えた。
誠司も興味を示さなかった。
「そんな事ならもういい」
爺やから答案用紙を受け取ると、誠司はろくに見ようともしない。
「今、涼子と大事に話をしていたんだ」
そして、爺やを追い払うように手を振る。
「早く、出ていけ」
次の瞬間、誠司は答案用紙を丸めた。
くしゃりと、嫌な音がした。
爺やが少しでも皺を伸ばした紙が、再び歪む。
誠司はそれを何のためらいもなく、部屋の隅にあるゴミ箱へ投げ捨てた。
紙の塊が、ゴミ箱の中へ落ちる。
爺やは、その音を聞いた。
たったそれだけの音だった。
だが、爺やの中で、最後の線が切れた。
「そんな事……?」
低い声だった。
誠司が不快そうに爺やを見る。
爺やは顔を上げた。
その表情は、いつもの柔和な執事長のものではなかった。
静かな怒りをたたえた顔だった。
「貴方方が今、捨てた紙は、貴方達に認められたい、期待に応えたい、そして何より褒めてもらいたい一心で、数々の暴言、暴力に耐えぬいた末に出来た努力の結晶ですよ……?」
誠司と涼子が目を見開く。
爺やは止まらなかった。
「それを丸めてポイで終わり?」
声は荒げていない。
だが、一言一言が鋭く刺さる。
「そんな事……?」
爺やは、真っ直ぐに2人を見据えた。
「恥を知りなさい」
部屋の空気が凍った。
誠司の顔が怒りで赤く染まる。
「何だ、その無礼な態度は!?」
涼子もすぐに声を上げた。
「そうよ!」
そして、当然のように言い放つ。
「それに、そのくらいの点数神崎家では当然ですことよ!」
6歳の子供が、高校生レベルの英語のテストで満点を取った。
普通なら、驚き、褒め、抱きしめてもおかしくない。
だが、涼子はそれを当然だと言った。
神崎家の人間なら当たり前だと。
幸子の努力を、痛みを、涙を、何も知らないまま切り捨てた。
爺やは、呆れたように涼子を見た。
「奥様は知らないでしょうが、旦那様が鼻垂れ小僧の時代からお仕えさせて頂いておりますが、まぁ酷かったです」
涼子の表情が変わる。
「……何ですって?!」
誠司の顔が、わずかに強張った。
爺やは淡々と続ける。
「幸子お嬢様の同い年の時には遊び回って、親のいう事は聞かず、権力に身を任せ、同い年くらいの子をよくいじめておりました」
涼子が誠司を見る。
誠司は苦々しい顔をした。
だが、すぐには反論しない。
爺やはさらに言葉を重ねる。
「テストの点数も、幸子お嬢様くらいの年齢で小学生のレベルで躓いておりました」
そして、はっきりと言い切る。
「幸子お嬢様とは天と地との差でございます」
「黙れェ!!」
誠司が怒鳴った。
机を叩く音が部屋に響く。
「勝手な事をほざくな!」
涼子は動揺を隠せないまま、誠司へ詰め寄るように尋ねた。
「ねえ、あなた、本当に違うのよね?」
その声には、不安と疑いが混じっている。
「こいつの出任せよね?」
誠司は一瞬だけ視線を逸らした。
だが、すぐに顔を取り繕う。
「勿論だよ……」
その声は、先ほどまでよりわずかに弱かった。
「そんなわけないだろ……」
爺やは何も言わなかった。
誠司は怒りと焦りを誤魔化すように、爺やへ視線を向ける。
「数々の暴言、虚言は見過ごせない」
そして、口元を歪めた。
自分には爺やを罰する権力がある。
そう確信している笑みだった。
誠司はニヤリと笑いながら、爺やへ冷たく告げた。
「お前はクビだ!」




