神崎家①
第153話です。宜しくお願い致します。
「幸子さんって方の妹さん??」
悠真の声が、土で作られた建物の中に響いた。
目の前にいる白い髪の女性――神崎雪子は、申し訳なさそうな表情を浮かべたまま、小さく頷いた。
幸子様。
山梨県境で出会った隊服の男達が、異常なまでに忠誠を示していた存在。
その幸子の妹が、なぜ幸子親衛隊に襲われた悠真達を匿う隠れ家にいるのか。
悠真だけでなく、未来や浮田、色谷達もすぐには理解できずにいた。
悠真は少しだけ言葉を選んでから、雪子に問いかけた。
「一体、隊服の奴らやあなたの姉である幸子さんは一体……?」
雪子はすぐには答えなかった。
白く長い髪が、彼女の肩から静かに流れ落ちている。
その表情には、迷いと覚悟が同時に浮かんでいた。
やがて雪子は、一度深く息を吸った。
そして、ゆっくりと口を開く。
「あなた達は姉の被害を受けた」
その声は落ち着いていたが、わずかに震えていた。
「それに、調査をしにきたんですよね?」
悠真は真剣な顔で頷いた。
「はい……」
雪子はその返事を聞くと、何かを決めたように目を伏せた。
「なら知る権利がありますね……」
その言葉に、今野がわずかに眉を寄せる。
「雪子、話して大丈夫か……?」
心配する声だった。
おそらく、雪子にとってこの話は軽く語れるものではない。
今野はそれを知っているからこそ、止めるように声をかけたのだろう。
しかし雪子は、静かに首を横へ振った。
「えぇ、大丈夫……」
そして、悠真達を見た。
「私、神崎雪子と姉の神崎幸子は正確には実の姉ではないの……」
その一言で、悠真達の空気が変わった。
妹と言っていた。
だが、実の姉妹ではない。
その言葉の意味を理解する前に、雪子は語り始め
た。
◇
神崎家。
それは、山梨だけでなく、国政にも影響力を持っていた名門の家だった。
代々政治家を輩出してきた家系。
父である神崎誠司は、元財務大臣。
母である神崎涼子は、山梨県知事を務めていた。
神崎という名前は、地元では知らぬ者がいないほど大きなものだった。
そんな政治家の家に生まれたのが、神崎幸子だった。
幸子は、生まれた時から普通の子供ではいられなかった。
大きな屋敷。
広い庭。
数十名の召使い。
食事を運ぶ者。
服を整える者。
部屋を掃除する者。
子供である幸子の周囲には、常に大人達がいた。
しかし、それは温かな家庭とは違っていた。
神崎家に生まれた幸子には、生まれた瞬間から役割があった。
将来、政治家になること。
神崎家の名を背負うこと。
父と母の期待に応えること。
本人の意思など、そこにはなかった。
◇
幸子が4歳になる頃には、すでに英才教育が始まっていた。
朝から家庭教師がつき、年齢に見合わない勉強をさせられる。
文字、計算、英語、歴史、政治。
さらに、別の時間にはプロの講師が来て、マナーを叩き込まれた。
食器の持ち方。
椅子への座り方。
歩き方。
お辞儀の角度。
笑顔の作り方。
発声。
神崎家の人間として恥ずかしくない振る舞い。
4歳の子供にとっては、あまりにも重すぎる日々だった。
だが、父の誠司と母の涼子は、それを当然だと考えていた。
神崎家の子供ならばできて当たり前。
将来、人の上に立つ者ならば耐えて当たり前。
そう信じて疑わなかった。
しかし、幸子は両親が期待するほど覚えが早い子ではなかった。
普通の4歳児として見れば、十分すぎるほど努力していた。
それでも、神崎家では許されなかった。
幸子が答えを間違える。
作法を少し間違える。
昨日教わったことを、すぐに言えない。
そのたびに、父と母の怒号が飛んだ。
「何故、お前は一度教えた事が理解できないッ!!」
誠司の声は、幼い幸子の身体を震わせた。
机の前に立たされた幸子は、目に涙を溜めている。
その横で、涼子も冷たい目を向けた。
「そうですよ! 貴方は神崎家の人間なのよ!」
涼子は幸子へ歩み寄る。
「相応しい人間になりなさい!!」
次の瞬間、乾いた音が響いた。
涼子の手が、幸子の頬を打っていた。
小さな身体がよろめく。
頬が赤くなり、涙がこぼれる。
それでも幸子は、泣きながら頭を下げた。
「ごめんなさい……」
だが、謝っても終わらない。
誠司は苛立たしげに机を叩く。
涼子は、幸子の弱さを責める。
神崎家の人間として恥ずかしい。
努力が足りない。
期待外れ。
そんな言葉が、幼い幸子へ何度も何度も浴びせられた。
幸子は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、震える声で言った。
「もう、次は間違わないように頑張るから許してェ゙……!!」
しかし、その願いが届くことはなかった。
父も母も、幸子を抱きしめてはくれない。
失敗すれば責められる。
間違えれば叩かれる。
神崎家の屋敷は、幸子にとって安心できる場所ではなかった。
◇
それでも、そんな地獄のような環境の中で、唯一幸子に優しく接する人物がいた。
神崎家に仕える執事長。
幸子が「爺や」と呼ぶ老人だった。
父と母に責められ、泣き疲れ、床に座り込んでしまった幸子を、爺やはいつも静かに見つけてくれた。
爺やは何も言わず、幼い幸子を優しく抱き上げる。
そして、幸子の部屋へ運び、ベッドに寝かせ、赤くなった頬や傷ついた場所を丁寧に手当てした。
「大丈夫ですか……?」
爺やの声は、屋敷の中で唯一、幸子を責めない声だった。
幸子はベッドの上で涙を流しながら、小さく呟いた。
「私は何にも出来ない、ダメ人間なんでしょ……」
その声には、幼い子供とは思えないほど深い諦めが混じっていた。
「私の事、きっと神崎の人間としてお母様もお父様も幻滅してるわ……」
両親から向けられた言葉を、幸子はそのまま自分の価値だと思い込んでいた。
できない自分が悪い。
覚えられない自分が悪い。
神崎家に相応しくない自分が悪い。
そう思わなければ、幸子の心は耐えられなかったのかもしれない。
しかし、爺やは優しく首を横に振った。
「そんな事ありませんよ……」
幸子が涙に濡れた目で爺やを見る。
爺やは穏やかな表情で続けた。
「お嬢様は出来ないと思う事に一生懸命努力する努力家でございます」
幸子は何も言えなかった。
褒められたことに慣れていなかったからだ。
「努力というのは一種の才能でございます」
爺やの声は、ゆっくりと幸子の胸に染み込んでいく。
「必ず、報われる日がきますとも」
幸子は震える声で尋ねた。
「ホント……?」
爺やは、はっきりと頷いた。
「はい、この爺やが保証します……」
そして、布団をそっと幸子へかける。
「さぁさぁ、今日はゆっくりお休み下さいませ……」
幸子はその言葉を胸に抱きしめるようにして、目を閉じた。
それが、幸子にとって唯一の救いだった。
父も母も、自分を認めてはくれない。
だが、爺やだけは努力を見てくれる。
努力は才能だと言ってくれる。
いつか報われると言ってくれる。
その言葉だけが、幸子を支えていた。
◇
しかし、神崎家の環境が変わることはなかった。
翌日になれば、また勉強が始まる。
作法を間違えれば怒られる。
政治の言葉を言い間違えれば叱責される。
答えられなければ失望される。
普通の子供なら、とっくに心が壊れていてもおかしくなかった。
いや、大人であっても耐えられるか分からない。
それでも幸子は、努力し続けた。
父と母に認めてもらいたかった。
神崎家の人間として相応しいと言ってほしかった。
爺やの言葉が本当だと信じたかった。
泣きながら机に向かう日もあった。
眠気に耐えながら英単語を覚える日もあった。
作法の練習で足が痛くなっても、幸子はやめなかった。
努力は報われる。
爺やがそう言ってくれたから。
◇
そして、幸子が6歳になった頃だった。
幸子の努力が、初めて大きな形になって現れた。
高校生レベルの英語のテスト。
それで、幸子は100点を取った。
答案用紙の上には、赤い丸が並んでいた。
最後に書かれた満点の数字。
それを見た家庭教師は、珍しく驚いたように目を見開いた。
「6歳でこのテストを満点とは……本当に素晴らしいです」
その言葉を聞いた瞬間、幸子の胸がぱっと明るくなった。
褒められた。
初めて、自分の努力が形になった。
爺やの言葉は本当だった。
努力は報われる。
幸子は答案用紙を両手で大切に持った。
これを父と母に見せれば、きっと褒めてくれる。
ようやく認めてくれる。
神崎家の人間として、少しは相応しいと思ってくれるかもしれない。
幸子は胸を弾ませながら、両親の部屋へ向かった。
長い廊下を歩く足取りは、いつもより少しだけ軽かった。
扉の前に着く。
幸子は深呼吸をした。
だが、扉は少しだけ開いていた。
中から、父と母の声が聞こえてくる。
幸子は声をかけようとして、足を止めた。
最初に聞こえてきたのは、父の低い声だった。
「もう、幸子は駄目だ……」
幸子の身体が固まった。
「神崎家の汚点だ……」
胸の奥が、冷たくなっていく。
続いて、母の声が聞こえた。
「あの子を政治家にするのは諦めましょう」
幸子は息をすることも忘れた。
手に持っていたテスト用紙が、わずかに震える。
涼子は、何かを思いついたように声を弾ませた。
「そうだわ!」
その声には、娘を想う温かさなど一切なかった。
「内密で養子を取るのはどう?」
幸子の目が見開かれる。
「その子を神崎家の優秀な政治家として育てるの!!」
幸子の足元が崩れていくようだった。
認めてもらえると思っていた。
ようやく褒めてもらえると思っていた。
だが、父と母は、もう幸子を諦めていた。
誠司の声が聞こえる。
「だが、取った養子も駄目かもしれないじゃないか……」
涼子はすぐに答えた。
「何人か取ればいいのよ!!」
その声は、あまりにも軽かった。
「その中で優秀な子を育てて残りは内の召使いにすれば良いのよ」
幸子はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
養子を何人か取る。
優秀な子だけを育てる。
残りは召使いにする。
人間を、人間として見ていない言葉だった。
子供を、神崎家のための道具として選別するような言葉だった。
だが、誠司はそれを否定しなかった。
「そうだな!!」
むしろ、嬉しそうだった。
「素晴らしいアイデアだ!」
その瞬間、幸子の中で何かが音を立てて崩れた。
父と母に認めてもらうために努力してきた。
怒鳴られても。
叩かれても。
泣きながら許しを乞うても。
それでも、いつか努力は報われると信じてきた。
爺やが言ってくれたから。
100点を取ったから。
今日こそ、褒めてもらえると思ったから。
しかし、父と母は幸子を見ていなかった。
最初から、娘ではなく、神崎家の道具としてしか見ていなかった。
指先から力が抜ける。
幸子が大切に持っていたテスト用紙が、床へ落ちた。
白い紙が、廊下に静かに広がる。
赤い丸が並んだ、100点の答案。
幸子の努力の証。
それが、誰にも見られることなく床に落ちた。
幸子はドアの前で立ち尽くした。
涙すら、すぐには出なかった。
ただ、震える声だけが小さく漏れる。
「嘘……」




