イングリッ種族のエイゴ(前編)
第148話です。宜しくお願い致します。
「……何だって?!」
悠真の驚いた声が、中央会館の宴会場に響いた。
食事を終え、そろそろ近藤達が東北へ戻ろうとしていた矢先のことだった。
春日日春が、コン太と共に悠真と近藤の前に現れた。
その後ろには、近藤が連れてきていたトゲトゲ首輪のブルドッグがいる。
世紀末漢隊の隊員達からはブル太と呼ばれていたそのブルドッグ。
ふてぶてしい顔で、いつも近藤の側にいる犬。
悠真から見れば、少し目つきの悪いブルドッグにしか見えなかった。
だが、春日は真剣な表情で告げた。
ブル太の本当の名前は、翡翠球から来たイングリッ種族のエイゴだと。
翡翠球。
その言葉を聞いた瞬間、悠真の表情が変わった。
コン太の故郷。
春日がかつてコン助と出会った世界。
そして、今後ゲート研究で繋がろうとしている場所。
その翡翠球から、また別の存在が来ていた。
しかも、それは近藤が半年前からただのブルドッグとして面倒を見ていたブル太だった。
近藤も当然、理解が追いついていなかった。
彼は春日とブルドッグを交互に見たあと、困惑した声を漏らした。
「一体……何の事を言ってるんだ……?」
近藤の眉間に深い皺が寄る。
「こいつは半年前くらいに迷子になっていたのを拾ったブル太だぞ……?」
近藤にとって、ブル太はブル太だった。
迷子になっていたところを拾ったブルドッグ。
怪我をしていたから手当てをし、そのまま世紀末漢隊の拠点で一緒に暮らすようになった犬。
口は利かないが、妙にふてぶてしく、妙に落ち着いていて、近藤の側にいることが多い。
ただ、それだけの存在だった。
少なくとも、近藤はそう思っていた。
だが、そのブルドッグが、ゆっくりと近藤を見上げた。
そして、口を開いた。
「エイゴとしては初めて喋るな、近藤……」
低く、落ち着いた声だった。
その場にいた者達が、一斉に固まる。
近藤は目を見開き、数秒ほど言葉を失った。
「……は?」
次の瞬間、彼は信じられないものを見たように叫んだ。
「ブル太が喋った……?!」
近藤の反応は当然だった。
半年もの間、共に過ごしてきたブルドッグが、急に人間の言葉を話したのだ。
しかも、名前をブル太ではなくエイゴとして語った。
どれだけ豪胆な近藤でも、これには混乱するしかなかった。
エイゴは、そんな近藤を責めることなく静かに続ける。
「私は翡翠球という別の世界線から来た、イングリッ種族のものだ」
「もう、情報量多くて訳わからん!」
近藤は両手を広げ、正直すぎる感想を叫んだ。
だが、すぐに深く息を吐く。
彼は混乱していながらも、目の前のブル太――いや、エイゴが真剣であることだけは理解していた。
「順番に教えてくれないか?」
「分かった」
エイゴは小さく頷いた。
宴会場の空気が、先ほどまでの賑やかさから一転して静まり返る。
世紀末漢隊の隊員達も、東京の仲間達も、皆エイゴの方へ視線を向けていた。
コン太は何も言わず、少しだけ心配そうにエイゴを見つめている。
春日もまた、真剣な顔のまま黙っていた。
そして、エイゴはゆっくりと語り始めた。
自分が何者なのか。
どこから来たのか。
なぜ、この世界にいたのかを。
◇
エイゴがいたのは、翡翠球という世界だった。
それは、地球とは別の世界線に存在する場所。
コン太やコン助の故郷でもある。
コン太やコン助はフォック族。
キツネのような見た目をしているが、地球のキツネとは違う。
人間の言葉を話し、人間のように考え、生活している種族だ。
そして、エイゴはイングリッ種族。
見た目は地球でいうブルドッグに近い。
がっしりとした体。
短い鼻。
どこかふてぶてしく見える顔つき。
だが、イングリッ種族もまた、ただの犬ではない。
言葉を話し、家族を持ち、仲間と暮らし、社会の中で生きている。
地球の人間から見れば喋るブルドッグにしか見えなくても、翡翠球ではれっきとした知性ある種族だった。
エイゴは、そんなイングリッ種族の1人として翡翠球で暮らしていた。
しかし、その日、世界は壊れた。
翡翠球にも、ゲートが現れた。
黒い穴のようなものが各地に開き、そこからモンスターが溢れ出した。
平和だった場所は一変した。
悲鳴が響き、建物が壊れ、逃げ惑う者達で道が埋まった。
エイゴもまた、仲間達と共に逃げていた。
彼らを追っていたのは、巨大な口を持つモンスターだった。
身体の大きさも恐ろしかったが、それ以上に目を引いたのは口だった。
裂けるように広がった大きな口。
何でも丸呑みにしてしまいそうな暗い喉。
牙の隙間からは、嫌な臭いのする唾液が垂れていた。
そのモンスターは、エイゴ達を獲物として追いかけてきた。
エイゴ達は必死に走った。
誰も振り返る余裕などなかった。
少しでも足を止めれば、あの口に呑まれる。
その恐怖だけが、彼らの背中を押していた。
だが、逃げ続ける中で、1人の仲間が躓いた。
小さな石に足を取られたのか。
それとも、疲労で足がもつれたのか。
その仲間は地面に倒れ込み、立ち上がろうとしてもすぐには動けなかった。
巨大な口のモンスターが、その仲間へ迫る。
大きな顎が開いた。
今にも、一口で呑み込もうとしている。
その瞬間、エイゴの身体は勝手に動いていた。
考えるより先だった。
助けなければならない。
ただ、それだけだった。
エイゴは転んだ仲間へ飛びかかるように駆け寄り、力いっぱい突き飛ばした。
仲間の身体が横へ転がる。
モンスターの口から外れる。
その代わりに、エイゴの身体が巨大な影に包まれた。
目の前いっぱいに、黒い喉が広がる。
冷たい恐怖が全身を貫いた。
だが、避ける時間はなかった。
次の瞬間、エイゴは巨大な口の中へ呑み込まれた。
暗闇。
圧迫感。
息苦しさ。
そして、何も分からなくなった。
エイゴはそこで死んだのだと思った。
仲間を助けることができたなら、それでいい。
そう思う余裕すらなかったかもしれない。
ただ、意識は闇へ落ちていった。
◇
だが、次に目を覚ました時。
エイゴは森の中にいた。
木々の隙間から、見知らぬ空が見えた。
湿った土の匂い。
聞いたことのない鳥の声。
どこか翡翠球に似ているようで、決定的に違う空気。
エイゴはゆっくりと身体を起こした。
「さっき私は化け物に食べられてしまった筈では……」
自分の声が震えているのが分かった。
身体は生きている。
痛みもある。
息もできる。
だが、モンスターに呑み込まれたはずの自分が、なぜ森の中にいるのか理解できなかった。
「もしかして、さっきのは悪い夢では……」
そう思おうとした。
そうであってほしかった。
だが、胸の奥には嫌な確信があった。
あれは夢ではない。
仲間を庇ったことも、モンスターに呑まれたことも、現実だった。
エイゴは、状況を確かめるために森を彷徨い始めた。
知らない森だった。
道らしい道もない。
食べられるものがあるのかも分からない。
どちらへ進めばいいのかも分からない。
それでも、じっとしている訳にはいかなかった。
しばらく歩いていると、前方に人影が見えた。
地球では人間。
だが、エイゴにとっては翡翠球でいう人族に見えた。
ようやく話が聞ける。
ここがどこなのか、何が起きたのか、教えてもらえるかもしれない。
エイゴは少しだけ安心し、声をかけた。
「すいませーん!」
人影がこちらを向く。
エイゴはさらに声を上げる。
「そこの人族の方ー!」
だが、その男性はエイゴを見た瞬間、顔を引きつらせた。
目に浮かんだのは、驚きではない。
恐怖だった。
「うわー、モンスターだ!!」
男性は悲鳴を上げ、そのまま逃げ出した。
エイゴは呆然とする。
「何故、逃げるんですか?!」
問いかけても、男性は振り返らなかった。
ただ全力で走り去っていく。
エイゴには分からなかった。
自分はただ声をかけただけだ。
ここがどこなのか聞きたかっただけだ。
それなのに、なぜモンスターと呼ばれるのか。
地球の人間からすれば、犬が人間の言葉を話しているように見える。
そして今の地球は、ゲートから現れたモンスターによって壊されている世界。
突然喋るブルドッグのような存在が現れれば、モンスターだと勘違いする者がいてもおかしくはない。
だが、その事情をエイゴは知らない。
エイゴにとっては、ただ助けを求めた相手に恐れられたという事実だけが残った。
◇
それから数日、エイゴは誰かいないか探しながら歩き続けた。
食べ物もほとんど見つからない。
水も、ようやく見つけた小さな流れで喉を潤す程度だった。
身体は少しずつ重くなっていく。
それでも、エイゴは歩いた。
この世界で1人では生きていけない。
誰かに話を聞いてもらわなければならない。
やがて、森を抜けた先に街が見えてきた。
街はモンスターによって崩れかけていた。
割れた窓。
崩れた壁。
放置された車。
ひび割れた道路。
人の気配は薄く、あちこちに破壊の痕跡が残っている。
だが、エイゴは荒廃した光景以上に、その文明の形に驚いていた。
翡翠球の文化は、地球と比べるとかなり質素だった。
高くそびえるビルもない。
道路を走る自動車もない。
無数の窓を持つ建物も、電柱も、信号も、エイゴにとっては見たことのないものばかりだった。
壊れかけているにもかかわらず、その街はエイゴの理解を超えていた。
「何だ……これは」
エイゴは呟いた。
薄々気づいていたことが、その景色によって確信へ変わる。
モンスターに食べられたことは現実だった。
そして、自分はなぜか翡翠球とは違う世界に来てしまったのだ。
エイゴは、荒廃した街を歩いた。
見知らぬ世界。
壊れた街。
どこに行けばいいのかも分からない。
それでも、誰かを探すしかなかった。
しばらく歩いたところで、エイゴは人間の男性達を見つけた。
3人組だった。
初日に逃げられて以来、初めて出会う人間。
また逃げられるかもしれない。
またモンスターと呼ばれるかもしれない。
胸の奥に不安が広がる。
だが、この世界で1人では生きていけない。
助けを求めなければ、何も始まらない。
エイゴは勇気を振り絞り、男性達へ近づいた。
「すみません!」
男性達が振り向く。
エイゴは慌てて言葉を続けた。
「私はモンスターではありません!」
最初にそれを伝えなければならないと思った。
「少しだけ話を聞いてくれませんか……?」
男性達は、一瞬驚いた表情を浮かべた。
だが、それはすぐに怒りと恐怖に変わる。
「嘘つけ!!」
1人の男が叫んだ。
「犬が喋るわけないだろ!!」
次の瞬間、石が飛んできた。
エイゴの身体に当たる。
鈍い痛みが走った。
別の石が顔の横を掠める。
さらに別の石が足に当たった。
「やめて下さい……」
エイゴは身を縮めながら訴えた。
だが、男性達は止まらない。
彼らは地面の石を拾い、次々と投げつけてきた。
石が当たるたびに、皮膚が切れ、血が滲む。
エイゴは背を向けて逃げ出した。
だが、男性達は追いかけてくる。
「うるせぇー!」
その声には、恐怖だけでなく、深い怒りが混じっていた。
「お前等モンスターのせいで、俺の家族が死んだんだ!!」
エイゴはその言葉に胸を刺されたような気がした。
自分はモンスターではない。
そう伝えたかった。
だが、男性達には届かない。
彼らもまた、この壊れた世界で大切なものを失っていた。
だからといって、エイゴを傷つけていい理由にはならない。
しかし、彼らの目には、喋るブルドッグのような存在がモンスターにしか見えなかった。
エイゴは必死に走った。
数日間まともに食べていない身体は、すぐに悲鳴を上げる。
石で傷ついた身体が痛む。
息が切れる。
足がもつれる。
それでも、走らなければならなかった。
追いつかれたら、今度こそ何をされるか分からない。
エイゴは細い路地を抜け、壊れた建物の隙間を通り、何とか男性達を撒いた。
だが、そこで限界だった。
身体中が痛い。
血が流れている。
喉は乾き、腹は空き、意識がぼんやりとしていた。
エイゴは街から離れ、再び森の方へ向かった。
もう誰にも会いたくなかった。
誰かに助けてほしい気持ちと、誰にも近づきたくない気持ちが、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
森の中へ入ったところで、エイゴの足が止まる。
「もう駄目だ……」
小さな声だった。
誰に聞かせる訳でもない。
ただ、限界を認めるような声。
エイゴはそのまま地面に倒れ込んだ。
冷たい土が身体に触れる。
木々の隙間から見える空が、ぼやけていく。
知らない世界。
通じない言葉ではないのに、聞いてもらえない言葉。
助けを求めれば、モンスターだと逃げられる。
話を聞いてほしいと願えば、石を投げられる。
仲間を助けようとして、モンスターに呑まれた。
それなのに、気づけば別世界で孤独に彷徨っている。
もう、動けなかった。
意識が遠のいていく。
◇
その時だった。
草を踏む音が聞こえた。
誰かが近づいてくる。
エイゴは薄く目を開けた。
そこに立っていたのは、大柄な人間の男だった。
オレンジ色のモヒカン。
荒々しい服装。
強い目つき。
普通なら、エイゴは恐怖したかもしれない。
また石を投げられるのではないか。
またモンスターと呼ばれるのではないか。
そう思ってもおかしくなかった。
だが、その男――近藤剛は、エイゴを見るなり眉をひそめた。
それは恐怖でも嫌悪でもない。
心配の表情だった。
「お前、怪我してるじゃないか……」
近藤はゆっくりと近づいてきた。
エイゴは逃げようとした。
だが、身体が動かなかった。
声も出なかった。
近藤は膝をつき、傷だらけのエイゴを見下ろす。
その目に、敵意はなかった。
「手当てしてやるからちょっと待ってろ」
そう言って、近藤はエイゴを抱きかかえた。
乱暴ではなかった。
大きな腕だったが、その動きは驚くほど慎重だった。
傷に触れないように、痛ませないように。
エイゴは朦朧とする意識の中で、初めてこの世界で自分を恐れずに近づいてきた人間を見た。
モンスターと叫ばなかった。
石を投げなかった。
ただ、怪我をしている存在として見てくれた。
近藤はエイゴを抱きかかえたまま、森の中を歩き出す。
その腕の中で、エイゴの意識は少しずつ落ちていった。
近藤は何も知らなかった。
エイゴが翡翠球から来たことも。
イングリッ種族であることも。
人間の言葉を話せることも。
仲間を助けるためにモンスターに呑まれたことも。
何も知らなかった。
それでも、近藤は助けた。
傷つき、倒れている存在を見つけたから。
ただ、それだけで十分だった。
近藤はそのままエイゴを抱え、世紀末漢隊の拠点へと連れて行った。




