手術室に落ちた支配(後編)
第103話です。宜しくお願い致します。
その様子を、一匹のヤモリが見ていた。
会議室の壁。
割れた棚の隙間。
瓦礫の影に紛れるように、小さなヤモリが張りついている。
誰も、その存在には気づいていなかった。
だが、そのヤモリの視界は、遠く離れた未来へと繋がっていた。
地下から地上へ戻ろうとしていた未来は、ヤモリの視界を通して会議室の状況を見ていた。
そして、言葉を失っていた。
悠真が、桜井の隣に立っている。
陸斗と阿川が戻ってきた瞬間、犬飼が動いた。
犬飼は陸斗の背後を取り、喉元に爪を突きつけた。
阿川も動けない。
色谷も、チャン爺も、どこか様子がおかしい。
ロープで縛られているように見えた桜井は、余裕の笑みを浮かべている。
つまり、そういうことだった。
悠真が操られている。
陸斗も阿川も捕まった。
犬飼も桜井側として動いている。
未来は、ヤモリ越しにその全てを見て、唇を噛んだ。
「……これは一番最悪の事態」
声が震えそうになる。
でも、今ここで慌てても意味がない。
未来は自分にそう言い聞かせた。
悠真が操られた。
陸斗と阿川が捕まった。
会議室の中にいる仲間たちも、すぐには動けない。
なら、今すぐ自分一人で突っ込んでも助けられない。
未来のスキルは強い。
けれど、万能ではない。
相手には桜井がいる。
犬飼がいる。
門脇も、影山潤も、まだ姿が見えない。
未来はヤモリとの共有を切りかけながら、奥歯を噛みしめる。
「ここからだと少し遠いけど、東京に戻って悠真達救出作戦を考えなくちゃ」
それが、今できる最善だった。
東京には浮田がいる。
ルドルフもいる。
一葉、二葉、三葉。
芹沢。
コン太。
ほかにも、中央会館には動ける仲間がいる。
悠真が操られてしまった以上、東京側の力を集めて対策を考える必要があった。
未来は足に力を入れ、動き出そうとした。
◇
その直後だった。
「それは、無理な案件なのですよ……ククククッ……」
背後から、声がした。
あまりにも近い。
耳元で囁かれたような距離。
未来の全身が粟立つ。
「っ!?」
振り向こうとした瞬間。
背中に、鋭い痛みが走った。
「ぐっ……!」
ナイフだった。
背中に、何かが突き立てられている。
熱い。
痛い。
息が詰まる。
未来はその場に膝をついた。
「……何なの?!」
まだ、相手を確認できていない。
でも、敵だ。
そう判断した瞬間、未来は反射的にスキルを発動した。
「シャドウウルフ!」
黒い狼が、未来の周囲に現れる。
召喚されたシャドウウルフは、未来の背後へ向かって一斉に飛びかかった。
牙を剥き、喉元を狙う。
だが。
その牙は、男の身体をすり抜けた。
「……え?」
未来の目が見開かれる。
シャドウウルフの爪も、牙も、相手に当たらない。
まるで、そこに身体が存在していないかのように。
男は宙に浮いていた。
身体は薄く透けて見える。
輪郭がぼやけている。
床に足をつけていない。
それなのに、手にはナイフを持っている。
そのナイフだけが、妙にはっきりと見えた。
男は、にたりと笑う。
「ククククッ。俺に物理攻撃は食らわないんだなぁ!」
未来は痛みで浅く息をしながら、その顔を見た。
そして、ようやく理解する。
「あなた、佐々木ね……」
特殊隊副隊長。
佐々木金次郎。
犬飼から聞いていた情報と、目の前の姿が一致する。
幽体離脱。
霊体化。
だから、シャドウウルフの攻撃が通らなかった。
だが、それなら分からないことがある。
未来は背中に刺さった痛みを堪えながら、佐々木を睨んだ。
「犬飼の情報では、物に触ることは出来ないと聞いていたのに……何故……」
佐々木は楽しそうに肩を揺らした。
「あのバカ犬には嘘をついてたからなぁ……ククククッ」
「嘘……」
「そうですよぉ。全部を教えるわけないじゃないですかぁ」
佐々木は、手にしたナイフを軽く揺らす。
その動きだけが、異様に現実感を持っていた。
「俺は霊体化しても、干渉したい時だけ干渉できるんですよぉ」
未来は歯を食いしばる。
つまり、犬飼の情報は不完全だった。
いや、不完全にされていた。
佐々木は、自分の能力の肝心な部分を犬飼に隠していた。
だから、未来は対応を誤った。
物理攻撃が通らない相手に、シャドウウルフをぶつけてしまった。
だが、それは仕方ない。
相手を理解する前に襲われたのだ。
◇
未来は膝をついたまま、もう一度スキルを使おうとする。
ヴァンパイアバット。
レッドワイバーン。
ジャイアントオーガ。
いや、駄目だ。
物理が通らない。
炎が通るかも分からない。
酸も、噛みつきも、爪もすり抜ける可能性が高い。
それに、背中の痛みが強すぎる。
身体に力が入らない。
視界がぐらりと揺れた。
「そんな……」
未来は、床に手をつく。
指先から力が抜けていく。
佐々木はゆっくりと近づいてきた。
「安心してくださいよぉ。殺しはしませんからぁ」
その言葉に、未来の背筋が冷える。
殺さない。
つまり、捕まえるつもりだ。
悠真たちと同じように。
桜井のもとへ連れていくつもりなのだ。
「嫌……」
未来は必死に身体を動かそうとする。
だが、背中の傷のせいか、力が入らない。
ナイフに何かが塗られていたのかもしれない。
痛みだけではなく、意識そのものが遠のいていく。
シャドウウルフたちが佐々木を囲む。
しかし、噛みつこうとしても、爪を振るっても、すべてすり抜ける。
佐々木は笑い続けていた。
「ククククッ。無駄なんだなぁ」
未来の視界が暗くなる。
ヤモリとの共有も途切れそうになる。
悠真。
陸斗。
阿川。
助けに行かなければならない。
東京に戻らなければならない。
そう思うのに、身体が動かない。
「悠真……」
最後にそう呟いて、未来は意識を失った。
佐々木は、倒れた未来を見下ろす。
そして、透けた手をゆっくりと実体化させるようにして、未来の身体を抱え上げた。
「さてさてぇ……これでこちらも回収完了なのですよぉ」
佐々木の身体が、ふわりと宙へ浮く。
そのまま未来を抱え、暗い通路の奥へと消えていった。
◇
一方、東京の中央会館。
浮田は《手術室》を発動していた。
空き部屋の中に、手術空間が展開される。
白く清潔な空間。
必要な器具が揃い、浮田の動きに合わせるように配置されていく。
影山駿は拘束されたまま、治療台代わりに用意された台の上に座らされていた。
目隠しは外されていない。
影を操る能力がある以上、それだけはできなかった。
浮田は影山の足の傷を確認し、軽く舌打ちする。
「ったく……足の怪我ばっかりだな、今日は」
ぼやきながらも、手は止まらない。
陸斗の光線による傷は、綺麗に貫かれている。
乱雑に潰された傷ではない分、処置はしやすい。
だが、放置すれば出血もあるし、痛みも強い。
浮田は慣れた手つきで処置を進めた。
傷口を確認し、出血を止める。
損傷した部分を整える。
スキルによって、必要な治療が手順として浮かび上がる。
影山は、治療中もほとんど声を上げなかった。
痛みはあるはずだった。
だが、表情を変えない。
さすが隊長格というべきか、痛みに慣れているのか。
浮田は一瞬だけ影山の顔を見る。
目隠しのせいで目元は見えない。
だが、口元は硬く結ばれていた。
「我慢強いな」
浮田がそう言うと、影山は短く答えた。
「慣れている」
「そうかよ」
浮田はそれ以上聞かなかった。
敵の事情に踏み込んでも、今は仕方がない。
まずは治療。
それが浮田の役目だった。
数分もしないうちに、影山の足の傷は塞がっていった。
浮田の《手術室》による治療は、通常の手当てとは違う。
傷口が整えられ、出血が止まり、歩ける程度まで回復する。
「よし。これで足は大丈夫だ」
浮田は息を吐いた。
「しばらく無茶はするなよ。まぁ、縛ってるから無茶も何もないだろうけどな」
軽く冗談めかして言った。
だが、影山から返事はなかった。
浮田は眉をひそめる。
「おい?」
影山は俯いていた。
目隠しの隙間から、何かが零れている。
涙だった。
浮田は一瞬、言葉を失う。
影山駿。
影撃隊の隊長。
影を操り、冷静に戦い、降参すら判断として選んだ男。
そんな男が、目隠しの隙間から涙を流していた。
浮田は少し戸惑いながら、苦笑いを浮かべる。
「どうした?」
冗談半分に言う。
「そんなに治療されて嬉しかったのか……?」
影山は、すぐには答えなかった。
肩がわずかに震えている。
そして、掠れた声で言った。
「いや、違うんだ……」
浮田の表情が少し変わる。
影山の声には、先ほどまでとは違う感情があった。
困惑。
後悔。
そして、強い自責。
「勿論、治療してくれたのは、これ以上ないくらい感謝している……」
影山は、深く息を吐いた。
「すまない……」
「どういう事なんだ……?」
浮田は慎重に聞いた。
影山は唇を噛みしめる。
「今、全てを理解したんだ……」
「何をだ?」
「今まで、桜井に操られて住民に……お前達にした仕打ちの事、全てを理解したんだ……」
浮田の顔色が変わった。
「……何だって?!」
部屋の空気が一気に重くなる。
浮田は思わず一歩近づいた。
「お前、操られてたんじゃないのか?!」
「あぁ……操られていた」
影山は涙を流したまま答える。
「だが、何故だかもう操られてはいないと思う……」
「どういうことだ……?」
浮田は影山を見る。
目隠しはまだ外せない。
けれど、影山の声からは、先ほどまでの無機質さが消えていた。
明らかに違う。
敵として対峙していた時の冷たさではない。
人間として、罪を認識している声だった。
浮田は自分の手を見た。
いま使ったばかりの《手術室》。
「まさか、俺の手術空間が桜井のスキルを跳ね返した……のか……?」
浮田は呟く。
確証はない。
だが、思い当たることはあった。
以前の拉致事件の時。
浮田の《手術室》は、呪いを跳ね返したことがある。
だが、桜井のスキルを跳ね返す確証はなかった。
不確かなものを前提に動くのは危険すぎる。
だから、今回の作戦に組み込むことはできなかった。
しかし、今。
影山は治療直後に変化した。
桜井の支配から外れたように見える。
本当に《手術室》が、桜井のスキルに干渉したのかもしれない。
浮田は慎重に問いかけた。
「本当に操られていないんだな……?」
「あぁ」
影山は即答した。
だが、その声には苦しさが滲んでいる。
「長い事、命令された時だけ、別の自分に頭が切り替わって……その事に対して何も違和感がなくなるんだ」
浮田は黙って聞く。
「自分で考えているつもりだった。自分の意思で動いているつもりだった」
影山の声が震える。
「だが、違った」
涙が、また目隠しの隙間から落ちた。
「今スキルが解除されて……今まで桜井からの命令でやってきた事、全てを思い出して……」
影山は一度、言葉を詰まらせる。
「いや、正確には忘れてはいなかった」
その言葉に、浮田の眉が動く。
「忘れてない?」
「あぁ……覚えてはいた」
影山はゆっくり頷く。
「だが、そのことに対して、初めて自分で考えることを許されたような感覚だ」
浮田は何も言えなかった。
記憶を消されていたわけではない。
命令を受けた時、その命令が正しいと感じるように思考を歪められる。
違和感を持てない。
疑問を抱けない。
罪悪感を抱けない。
そして、支配が外れた時、初めて自分の行いを自分の感情で見つめ直すことになる。
それが、どれほど残酷なことか。
浮田にも分かった。
「何て酷い事をしてきたんだという気持ちになった……」
影山は、絞り出すように言った。
「すまない……本当に、すまない……」
浮田はしばらく黙っていた。
同情していいのか。
怒るべきなのか。
判断は簡単ではない。
SPМがしてきたことは消えない。
避難民を苦しめたこと。
東京を襲ったこと。
悠真たちに牙を剥いたこと。
それらが、操られていたから全て許されるわけではない。
だが、影山が今、嘘をついているようには見えなかった。
少なくとも、浮田の目には。
それでも、確認は必要だった。
「成る程な……」
浮田は深く息を吐く。
「だが、その言葉が本当かどうかを確かめるために、ルドルフのスキルで見てもらう」
影山は静かに頷いた。
浮田は続ける。
「どうせ、お前達は俺達の情報があるだろうから、ルドルフの事は知っているんだろう?」
「あぁ、知っている……」
影山は抵抗しなかった。
「勿論、真実の口は受けるつもりだ……」
その声には、覚悟があった。
自分の言葉が本当かどうか。
それを確かめられることを恐れていない。
むしろ、確かめてほしい。
そんな響きだった。
浮田は頷く。
「分かった。動くなよ。目隠しも外すな」
「分かっている」
浮田は部屋の扉へ向かって走った。
影山はその場に残される。
ロープで縛られ、目隠しをされたまま。
それでも、先ほどまでとは違っていた。
ただの捕虜ではない。
何かを取り戻しかけている人間のように、静かに息をしていた。
浮田は、ルドルフを呼ぶために部屋を飛び出した。




