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8話

――これが、ゲームの本来の主役で、本物の悪役令嬢ミアだったなら。

馬車が急停止したその瞬間、ヴィクトルは迷わず私の身体を支えてくれたのだろうか?

そんな考えがよぎったのは、勢い余って正面の壁に額を打ちつけそうになったからだった。


「いっ……!」


とっさに手をついたが、衝撃はそれなりに強かった。じん、と痺れる手首を押さえながら身体を起こす。


――ヴィクトルは?


自然と、正面の席に視線を向けた。


「……あれ?」


そこにいるはずの彼の姿が、ない。

気づけば馬車の扉は開き、夜気が流れ込んでいた。


「ヴィクトルさん?」


恐る恐る外を覗く。

すると――馬車のすぐそばで、ヴィクトルは倒れ込んだ一人の女性に膝をつき、寄り添っていた。


――ガアァァン……。


なぜだか、胸の奥が強く揺れた。

ミアの下僕である彼が、“主”を馬車に置き去りにして、別の女性を気遣っている。


……いや、私はミアじゃない。


それは分かっている。分かっている、けれど。


この放置っぷりは、どうなの?


私が馬車を降りようとすると、馭者が慌てて補助台を設置した。

「ありがとう」と礼を言えば、また怯えたような顔をされる。

……ほんとに、どうなってるの。


「何があったんですか?」


私はヴィクトルの背中に声をかけた。


「この女性が、走っている馬車の前に飛び出してきたようです」


「えっ!? だ、大丈夫なんですか!?」


反射的に駆け寄る。

女性――メイドらしき若い娘は、意識を失い、額から血を流していた。


「無事とは言えません。馬に蹴られ、頭も強く打ったようです」


「どうして、そんな無茶を……!」


思わず責めるような口調になる。

ああ、まただ。

前の世界でも私はこうして、思ったことをそのまま口に出してしまっていた。

ホテル勤務には、確かに向いていなかったのかもしれない。


「貴女様が不在の間に、屋敷から逃げ出したのでしょう」


ヴィクトルは、私に背を向けたまま淡々と言った。


「私が不在の間に……? どうして、そんな……」


「分からないはずがないでしょう」


凍てつくような声。


「昨日、貴女がメイドにした仕打ちを思えば」


「……仕打ち?」


「まさか。昨日のことを、もうお忘れですか?」


その瞬間、ヴィクトルがこちらを振り返った。

――冷たい。

空気が一気に凍りついた気がした。

鳥肌が、背中を駆け上がる。

……彼は、怒っている。

ヴィクトルは感情のない人形ではない。

ただ、主人の前ではそれを完璧に隠してきただけなのだ。


――まずい。


どうやら昨日、ミアはこのメイドに相当ひどいことをしたらしい。

逃げ出すほど、命がけで馬車の前に飛び出すほど。

馭者の手の震えも、きっとそのせいだ。


「……ヴィクトルさん」


私は静かに息を整えた。


「この方を、すぐ医者に診せましょう。

屋敷に専属医がいるでしょう?」


知らないし、覚えていない。私は当然ミアじゃない。

そんな言い訳は、今は通じない。

それに――この人は、今まさに命の危機にある。

ヴィクトルは、目を見開いた。


「……本気で仰っているのですか?」


疑念が、ありありと浮かぶ。


「ええ。怪我人を放っておけないわ。早く、屋敷へ運んで」


私は馬車の扉を開き、はっきりと指示した。


「この者を、馬車に?」


「一刻を争うんでしょう? 乗るの? 乗らないの?」


これ以上、無駄な問答をしている場合じゃない。

ヴィクトルは一瞬だけ唇を噛み、

それから意識のないメイドを抱き上げた。


「……では、お言葉に甘えて」


彼は迷いなく馬車に乗り込む。

私も続いて中へ入り、内壁を軽く叩いた。


「出して。出来るだけ急いで」


馭者が慌てて馬に鞭を入れる。

この馬車は、もうただの移動手段じゃない。

救急車だ。

――命を運ぶ、車。

その中で、ヴィクトルは、私をじっと見つめていた。

まるで――別人を見るような目で。


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