67話
――名も無きひと――
暗い森に続く小道を歩いていくと、いっそう緑の匂いが濃くなってきた。
その人物は外套で頭の先から爪先まですっぽりと身を包んでおり、万が一誰かに見られても男なのか女なのか、若いのか年寄りなのか、わからない姿だった。
ここへくるのは、初めてではない。
初めてここへ来たのは、いつだったか。
もう覚えてもいないくらい前のことのはずだ。
王子と、ミア・フォルトナーは、
この森で密かに密会をしていたのだ。
そう、ちょうどあの大木の下で……。
今でもあの時、あの場所で目撃した衝撃を忘れられない。
王子が何かを探しながら大木の下に行くと、すぐに木の陰からぴょこんと金髪の儚げな令嬢が現れた。
ミア・フォルトナーだった。
二人は二言三言、言葉を交わしたのち、抱き合ってキスをした。
(まさか!?)
頭を金槌で殴られたみたいな衝撃が走った。
それからは……カッと頭に血がのぼってしまい、見ていられなかった……。
二人がまるで理性を失った獣のように見えたのは見間違いなどではなかった。
あの私の前ではいつも鉄火面をつけて、ニコリともしてくれない王子が、あんなことをするなんて!
ザワザワ……。
これは、一体なんの音だろう?
次第に王子の息が激しくなる。
ミアもそれに呼応するかのように切なく鳴きはじめた。
ザワザワ……ザワザワ……。
(――悪どい女狐め――!!)
ミアの甘い声音だけが、妙に耳にこびりつき、不快な気分になった。
しかし、ランプの光でチラリと見えた苦悶するミアの横顔は、これ以上ないほど妖艶だった。
「うぐっ!」
感情が高ぶりすぎて吐き気がする!!
わたしは、二人に気付かれないように、口元に手当てそっとその場を逃げ出した。
森を出たところで、激しく吐いた。
涙が自然と頬をつたう。
煮えたぎる熱湯を無理やり飲まされた気分だ!
(こんなことなら、王子の後をつけてくるのではなかった!!)
そう思ったところで後の祭りだった。
聖女となり、周りからとても愛されてきた。
国民、王様、お妃様、もちろん両親、幼い兄妹、友人からも。
それなのに、婚約した相手は、私のことを見てくれない。そればかりか、社交界で悪女として有名な、ミア・フォルトナーを大層気に入っている。
(あんな、ア●ズレの一体どこがいいのよ!?)
噂によれば、見目麗しい若い人狼の侍従に夜伽をさせているらしい。
(なんて、汚らわしい……!)
それでも、女として負けたことが、なにより悔しかった。
そう、悔しくて、悔しくて……。
だから、とうとう、あんなことを……!
(……私は、神に選ばれし、聖女。
汚らわしい害虫は、神聖なる場所へ帰す。あの森の穴へ……。)
二人の情事が終わるまで、私は息をひそめて木の陰に隠れる。
しばらくして、王子が身なりを整えると、またミアに軽くキスをして、足早に森を歩いていった。
ようやく地獄が終わったようだ。
残されたミアは、しっとりと美しい素肌をナイトドレスと外套で包み込んだ。
赤く上気した頬が完全に見えなくなる前に、私は素早く行動した。
(そう、埋めてしまえばいいのよ……。)
だから、あれは不可抗力というものなのだ。そうでなければならない。
なぜなら、私は、みんなから愛される清く、正しい、聖女様なのだから……。




